掃除できない継ぎ目と、石橋の重さ
「坑道の入口をじっと眺めている怖い人がいる」
近所の農家のおばあさんが、そう届けにきた。男は三日前から、山の麓の道に立っていたらしい。
「お知り合いですか?」と雫が訊いた。
「いや」
「でも、そろそろ来そうな気がします」
その日の午後、男は本当に来た。
白髪まじりの短髪、日焼けした首、肩には年季の入った大工袋。五十代後半。腕組みをして坑道を睨み、石室に入るなり、床に手を当て、壁を叩き、天井を見上げ、最後に鼻を鳴らした。
「床が、気持ち悪いほど水平だな」
「褒め言葉ですか」
「違う」
巌谷源蔵。奥多摩で四十年、宮大工をしてきた男だと聞いている。雫が受付小屋の相談で呼んでいた。
源蔵は挨拶をしなかった。俺が昨夜描いた小屋の図面をひったくり、三秒眺めて、顔を上げた。
「きれいだ」
「ありがとうございます」
「ここの継ぎ目」
太い指が、壁と屋根の取り合いを突いた。
「掃除できんぞ」
胸の奥が、ひやりとした。
「埃が溜まる。溜まったら、誰が取る。この隙間は指も入らん。雨が吹き込んでカビたら、壁ごと外すしかなくなる」
反論したい気持ちが先に立った。この納まりが全体の釣り合いを決めている。譲れない線のはずだった。
「完成した瞬間だけ美しい物は、まだ半分だ」
源蔵が言った。
「人が毎日触る物は、人が直せる形にしろ。直せん家は、持ち主を置いていく」
そのとおりだった。俺は迷宮の中の事故ばかり考えていて、半年後に溜まる埃を考えていなかった。
「……継ぎ目を、分解できる形にします」
「全部じゃなくていい。毎日触るところだけだ」
「楔留めに変えれば」
「それだ。楔なら、俺が外せる」
源蔵は図面の別の箇所に指を移した。小屋の中央を渡る梁。長さ六メートルで引いてある。
「こいつもだ。梁は、長けりゃ真ん中が下がる。五メートルを超えるなら途中に柱を立てろ」
「柱を立てると、通路が」
「通路は広がる。梁が落ちてこないからな」
言い負かされたまま、梁の線を引き直した。源蔵の口の端が、初めて持ち上がった。
*
材料の話になった。
「で、材木の金は」
「迷宮の中は、ポイントで造ります。外の小屋は、円です」
「ポイントとかいうのは、木を買えるのか」
「買えません。迷宮の中でしか使えない」
「口座は分けてるか」
「はい。帳面も別に」
「当たり前だ」
源蔵は肩の大工袋を石段にどさりと置いた。
「日当は一万二千円。昼飯は自分で用意する。今日からだ」
「え、今日?」
「やるんだろ。継ぎ目を直さにゃならん」
雫が横で、くすっと笑った。
源蔵は手を伸ばして、足元のアインの頭を、ごつごつした指で撫でた。
「ほう、こいつが守護者か。ちっちゃいな」
アインは礼をした。いつもより少しだけ丁寧に。
「礼儀正しいじゃねえか」
そう言って、アインをそのまま持ち上げた。三十センチのブリキを、猫の子のように顔の前にぶら下げて、裏返し、足の裏を見る。
「関節の油が足りんな。明日、持ってきてやる」
アインはされるがままだった。目だけが、じっと源蔵を見ていた。
午後五時きっかりに、源蔵は槌を置いた。
「定時だ」
「えっ、まだ明るいですけど」
「明日の俺のために、今日の俺は帰る」
本当に帰ってしまった。坑道の出口で、一度だけ振り向く。
「お前の図面は、見た目より頑丈だ」
褒められたのだと気づくのに、三秒かかった。雫が肩を震わせていた。
*
その週の末、俺は初めて「二階」を造ることにした。
テスターが増え、魔石の山分けが回りだして、核の残高はいつの間にか一万二千を超えていた。風鳴り回廊を抜けた先に階段を設けて、二層と三層を重ねる。
「第二層は、影歩き回廊にします」
雫に図面を見せると、彼女は息を吸った。
「暗いんですか」
「暗い。灯りは壁際にしかなくて、床の上を影が動く。影が重なる場所の石は沈む」
「影を、踏まないように歩く」
「光の位置は、少しずつずれていく」
「面白そう」
源蔵が図面の端を、指で押さえた。
「で、第三層は」
「重力橋です。深い穴の上に、長い石橋を渡す。橋の上では、重さの掛け方で床の反応が変わる」
「長さは」
「四十メートル」
「長ぇ」
「長いほうが、面白いと思って」
源蔵は返事をしなかった。図面を睨む目が、少しだけ細くなった。
さっき小屋の梁に言った台詞を、頭の隅で聞いた。長けりゃ真ん中が下がる。それは木の話だ。石は違う。石は硬い。硬い物は、たわまない。
そう思って、俺は何も言わなかった。
*
橋は、一日で形になった。
石の橋脚が穴の底から立ち上がり、幅一・五メートルの橋が、深い闇の上を渡っていく。端から端まで、四十メートル。ぞくぞくするほど美しかった。
「試験は俺がやる」
安全帯を締めて、橋に足を乗せた。右脚の補助具が、きゅ、と鳴る。
最初の五メートルは何事もなかった。次の十メートルも。真ん中あたりに差しかかったとき、足の裏が、嫌な感触を捉えた。
橋が沈んでいる。
ほんの数センチ。けれど確かに、橋の中央が下がっている。右脚が、考えるより先に半歩下がった。
「止まれ!」
下から源蔵の怒鳴り声が響いた。
「戻れ。そっと。急ぐな」
一歩ずつ戻った。橋の端に足を置いたとき、膝の力が一気に抜けた。
源蔵は橋脚に手を当てたまま、振り向きもしなかった。
「石でも、長ければ自重で沈む。荷重が逃げる道を作らんと、客が乗った瞬間に割れる」
「……すみません」
「謝る暇があったら、図面を直せ」
その夜は、源蔵と二人で橋の断面図を引いた。荷重を橋脚に分散させる梁を、橋の下に斜めに刻む。見た目は悪くなるが、橋は崩れない。
二十回、書き直した。
源蔵は何も言わなかったが、三回目あたりから、俺の肩越しに図面を見るようになった。五回目に消しゴムのカスを吹き飛ばされ、十回目に「そこの線は太い」と言われ、十五回目に黙って茶を置かれた。二十回目、図面の隅に朱の印が押された。
「これなら、通れる」
*
三日後の夜、橋は完成した。
橋の中央に土嚢を十個積み、下から距離計を当てた。読みは動かない。数センチ沈んだあの場所が、同じ高さのままだった。
雫は橋の入口に立っていた。
「創真さん、灯りを全部消してもいいですか」
「え」
「少しだけ、お願いがあります」
雫が杖を持ち上げて、音叉を叩いた。澄んだ音が橋の闇に広がる。同時に、壁の灯火がひとつずつ消えていく。足元の照明が、ふっと落ちる。穴の底の闇と橋の上の闇が、つながった。
暗闇のなかで、橋だけが浮かんでいた。
石の橋に埋め込んだ細い光の筋が、四十メートルを一本の糸のように描き出している。橋脚も壁も闇に溶けて、見えない。
宙に浮いた一本の道を、小さな騎士が渡っていた。
アインだ。盾を抱えたまま、橋の中央で立ち止まっている。足元の光が、小さな足を照らしていた。
「……きれい」
雫が囁いた。
梁を斜めに刻んだ分、橋の見た目は悪くなったはずだった。けれど梁の影が光の筋の下で細かく走り、橋全体が、鳥の羽のように見える。
アインが橋を渡りきり、こちらを向いた。盾を高く掲げて、ぴょんと跳ねる。
声は出さない。けれど全身で、うれしい、と言っていた。
隣で源蔵が腕を組んだまま、橋の裏の梁へ目を細めた。
「悪くねえ。……欄干は直せ。高さが低い」
「百五センチです。基準は満たしてます」
「通れるのと、掴めるのは違う」
「掴むための欄干ですか、これは」
「落ちる奴が掴むための欄干だ」
「落ちないように造りました」
「そう言って、下を見たのは誰だ」
返す言葉がなかった。欄干の寸法は、翌朝まで譲らなかった。




