木刀の音と、三人の駆け出し
夜の石室で、木刀が三度鳴った。
ひとつ目は、俺の木刀がアインの針金を弾いた音。ふたつ目は、アインが半歩で懐に入り、盾で俺の膝を叩いた音。みっつ目は、俺が柄でそれを受け流した音。
「やるな」
返事の代わりに、アインはもう踏み込んでいた。
三十センチの兵隊の剣は、膝から下ばかりを狙ってくる。小さいというのは、そういうことだ。右足を引き、わざと足の甲を踏ませる位置に置いて、踏む直前で抜く。針金が空を切った。その背中に、木刀の先をちょんと置く。
「一本」
アインは止まって、悔しそうに頭を下げた。背中の角度で分かる。
十本取った。十一本目は、アインに取られた。俺が足を引く方向を読んで、先に回り込んでいた。
「おい、こいつ」
感心して笑った拍子に、体重が右へ寄った。膝の下からすとんと力が抜けて、木刀が手を離れ、背中が石に落ちる。
天井が見えた。右脚だけが、まだ他人のもののように痺れている。
アインが駆け寄ってきて、顔を覗き込んだ。剥げた片目が、おろおろしているように見えた。
「大丈夫。今のはお前の勝ちじゃない。俺の脚の負けだ」
なぜか、アインは深々と礼をした。
*
「約束してください」
翌朝、雫が真剣な顔で紙を突き出した。方眼紙に引いた表で、横に曜日、縦に時間。稽古の欄には「二十分」としか書いていない。
「短くないか」
「脚の回復と筋力のために、一回二十分、一日二回まで。それ以上は書いてません」
「書いてなければやるな、ということか」
「はい」
「昨日は一時間やった」
「聞いています。アインさんが、教えてくれました」
「あいつは喋らない」
「盾の向きで分かります」
譲らない時の雫は、声が低くなる。それが分かってきた。
おまけに彼女は、リュックから黒い布の筒を取り出した。膝から脛までを覆う補助具だった。
「前の職場の知り合いに借りました。魔力麻痺の人が使う支えです。サイズ、合うか分かりませんけど」
つけてみると、驚くほど足が軽かった。
「どうして分かった」
「歩き方で。あの、これは検証者の健康管理です。契約の一部です。気にしないでください」
「契約書にそんな項目はない」
「今、増やしました」
声を出して笑ってしまった。雫も笑った。笑いながら、二十分の欄を指で二回叩いた。
*
昼過ぎに、封書が届いた。
作業場に届いたそれは分厚くて、角が立っていた。差出人は迷宮庁特別監査室。署名は、橘響子。
『黒神山迷宮に対し、人数限定の試運転を許可する。条件は別紙の通り。なお、貴施設の安全体制は未検証であり、この許可は何も保証しない』
「最後の一文、いりますか」
「いる」と、雫が封書を覗き込んで言った。「これを書く人は、止めるときに止める人です」
別紙は十一項目あった。同時入場は四名まで。入場前に条件と上限を公示すること。事故が起きたら即時停止して届けること。録画は保存すること。
「録画」
「はい」
「撮ってない」
「撮ります」
雫は手帳を開いて、もう予定表に書き込んでいた。
その夜、初級テスターの募集を書いた。報酬は日当ではなく、参加記録と魔石の山分け。条件は「D級以上、一組三人まで」。
送信の前に、一行だけ付け足した。
【ここは、勝つために来る場所です。負けても、ちゃんと帰れます】
*
応募は三件。約束の時刻に石室の入口へ現れたのは、一組の三人だけだった。
「芹沢航です。盾役です。よろしくお願いします」
背丈が百九十近い男が、膝に頭がつきそうな勢いで礼をした。起き上がるとき、背中の大盾が坑道の天井の梁をがつんと擦った。航は梁を見上げて、もう一度小さく頭を下げた。梁に謝っている。
「波多野栞。槍と、測量やってます。早く入りたいんだけど」
背の低い女が、槍の石突きで床を叩いた。目が忙しなく、天井と壁と床を順番に撫でている。測量屋の目だ。俺と同じ種類の。
「椎名匡です。回復担当です。ええと、本日はお邪魔します」
最後の青年は、握った小さな鈴をちりんと鳴らして頭を下げた。音は壁に当たって、ちりん、ちりん、と二度返ってきた。匡が恥ずかしそうに鈴を握りこんだ。
三人ともD級。年は雫と同じか少し上。役割はばらばらで、息もまだ合っていない。そこがいい、と雫が小声で言った。
「なんだ、その予言」
「設計者の勘です」
公示を読み上げた。
【課題:守護者アインの盾に、一度、攻撃を当てる】
【時間:十分】
【入場者:三名】
【保護:生命防壁と帰還機構。限界入力で強制送還】
「盾に当てるだけでいいの? 簡単じゃない」
栞の第一声が、そうだった。
俺は区画の外で、風鳴り回廊の図面を指で辿った。幅一メートルのS字。三人が横に並べる幅ではない。縦一列にならざるを得ず、先頭は一人。誰が先頭に立つか。立った者の背中が、後ろの二人の何を隠すか。そこまで組んである。
簡単ではなかった。
*
結果から言う。三分で全員が送還された。
三人は、回廊に入るなり前後を決めた。航が先頭で、盾を前に突き出して風を割るように進み、次が栞、最後が匡。縦一列だ。回廊の一つ目の角で、航の盾が壁を擦った。がりがりと重い音が鳴り、風鳴りの案内音が、その擦過音に潰された。
二つ目の角で、アインが現れた。
小さい。航の膝より低い。航は盾を下げ、栞が肩越しに槍を出そうとして、航の背中に視界を塞がれた。
「見えない! どいて!」
「ごめん! でも守らないと!」
栞の槍の柄が航の腰に当たって、航がよろけた。匡が慌てて鈴を振ったが、音は回廊の壁で反響して、誰の耳にも合図には届かなかった。
そこへ、アインが滑り込んだ。
半歩、半歩、半歩、半歩、半歩。六歩目の足音だけが、半拍遅れた。誰もその遅れに気づかないまま、針金が航の膝裏を叩く。膝が折れ、盾が下がり、栞の槍が空を突いた。三十センチの兵隊が、傾いた男の背中を駆け上がる。肩の上に立って、盾の縁で栞の肘を叩いた。
光の膜が弾けて、栞が消えた。
「しお……」
航が叫び終える前に、足元へ降りてきた針金が、彼の膝をもう一度打った。航も消えた。
匡だけが残った。鈴を握ったまま、アインと向かい合う。
「あの、一つだけ、いいですか」
アインが首を傾げた。
「痛くないですか、それ」
アインは盾を胸に当てて深く頭を下げ、次の瞬間、匡の足を払った。匡は礼儀正しく送還された。
*
帰還座に、三人が並んで座っていた。
息が上がっていたが、怪我はない。誰が悪いのかを探す声が、一巡した。
「ごめん、俺が前に出すぎた」
「違う、わたしが勝手に槍を」
「ぼくの鈴が」
俺が口を挟みかけたとき、雫が静かに首を振った。止めないほうがいい、という顔だ。
最初に笑ったのは航だった。
「悔しい」
「……悔しいね」
「うん、悔しい」
三人とも、声が弾んでいた。
俺は小さな袋を三つ配った。
「参加記録と魔石が一つずつ。それと、二十四時間は再挑戦できない」
「え、そういうルール?」
「負けた直後にもう一回行く人は、反省せずに突っ込む。寝ろ。作戦を立てろ」
「ずるい。悔しいのに休むの?」
栞が口をへの字に曲げた。納得していない顔のまま、袋だけは受け取る。
「一日待つのは、勝つためだ」
「それ、負けた人にしか言えない台詞だよね」
「勝った人は待たなくていい」
「勝たせてないじゃん」
栞は最後まで引かなかった。航が背中を押して、ようやく坑道へ歩き出した。
「明日、また来ます」
出口で、航がもう一度言った。
「待ってる」
三つの背中が闇に消えていく。
アインが足元に来て、盾を小さく揺らした。
「お前、強かったな」
アインは動かなかった。礼もしなかった。盾の縁で、航が膝をついた石の上を、二度、静かに突いている。
痛くないですか、と訊かれたのを、まだ考えているのか。




