欠点を教えてくれる人と、風鳴りの回廊
翌朝、雫は大きなリュックを背負って坑道に現れた。畳んだ傘の先から雨粒が落ちて、入口の石畳でぽつ、ぽつと鳴っている。外は小雨だ。その音が坑道の奥へころころ転がっていくのを、俺は寝袋の中から聞いていた。
「おはようございます。勝手に来てしまいました。昨日の続きが、気になって」
髪に石粉をつけたまま図面を抱えて起き上がる。石室で寝たのは帰還座の予備電源を見張るためだ、という言い訳が通じない顔をしていたと思う。雫は何も言わず、リュックから魔法瓶を出して湯気の立つ茶を注いだ。
それから図面を広げ、端から端まで目を走らせた。読むのが速い。そのうえ、止まる場所が的確だ。
「ここ、すみません。アインさんの足音ですが、毎回まったく同じ拍ですよね。あ、すみません、二度目です。慣れた挑戦者には不公平かもしれません」
「謝る回数、数えていいか」
「え」
「今ので三回目」
「ご、ごめんなさい。……四回目です」
吹き出した俺を、雫は睨み損ねた。赤くなった耳を隠すように、鉛筆を握り直す。
「拍にわずかな揺らぎを入れるのは、どうでしょう。毎回少しだけずらして、読み切れないように」
「真の乱数は高い。ポイントを食う」
「では、周期のある揺らぎは」
「それなら安い。五歩に一回、半拍遅れる表を組む。幅は公示するから、見抜かれても文句は言えない」
「見抜く人がいたら、その人の勝ちですね。いい。公平です」
鉛筆が二本、同じ紙の上を走った。俺が表を引き、雫が脇に注意書きを足す。線が重なって、紙の端で先が触れた。
「あ」
「あ」
「……すみません」
「なんで謝る」
「癖で」
雫は耳まで赤くして俯いた。俺は線の交点ばかりを見ていた。顔を上げたら何かが壊れる気がした。
*
昼前に、報酬の話をした。
「検証の報酬は、俺の貯金から出す。一週間分、十四万」
「多すぎます」
「石室の死角を直す案だけで、元は取れる」
「でも、お金で縛られるのは苦手です」
雫は床に落ちた紙の端を揃えながら、独り言のように言った。
「前のところでは、先に謝らないと最後まで話を聞いてもらえなかったんです。謝ると、少しだけ聞いてもらえました」
乾いた声だった。自分の話なのに、他人の天気を読み上げているみたいだった。
「俺は最後まで聞く」
「はい。……では、一週間だけ、お試しで契約させてください。続けるかは、その後に決めます」
「十分だ」
握手はしなかった。かわりにアインが盾を持ち上げて、二人のあいだに差し入れた。雫は手を引っ込めかけて、盾の縁の凹みに指先だけ触れた。それで契約になった。
*
午後は、風の案内音の調整に費やした。
入口から奥へ、風の音で道を教える回廊を造る。俺の案は、風の強弱で方向を示すもの。雫の案は、風の高低で方向を示すものだった。
「強さは、ばらつきます。高さなら、同じ音で毎回出せます」
「でも高い音は、耳の弱い人には届かない」
「あ。そうですね。気づきませんでした。すみません」
「今のは助かる」
数分間、二人でぶつぶつ言いながら紙に線を引いた。いつの間にか案は、どちらの案でもなくなっていた。強さと高さを組み合わせ、足元の振動でも補う三重の合図。名前を付けるなら、《風鳴り》だ。
実物にするには、ポイントがいる。いまは三百五十。足りるはずだ。昨日の勝利が、今日の風になる。
夕方、雫が帰り支度をした。
「明日も来ていいですか」
「来てくれ」
「はい。……あの、創真さん」
「ん」
「脚、痛みますよね。さっきから右をかばってる」
返す言葉が出てこなかった。
「石室の床、歩く場所の高さを揃えておきます。段差があるときついので」
礼を言おうとしたが、雫は先に頭を下げて、傘を開いて、坑道の闇に消えていった。入口で、雨粒の音が一度だけ大きくなった。
一人になった石室で、図面を見下ろした。二人の線が重なった交点に、小さな丸がついている。誰が付けたのかは分からない。たぶん、俺だ。
足元でアインが盾の凹みを鳴らした。
*
三百五十のうち三百を、一度に使った。
《設計図:風鳴り回廊。形成を開始しますか。三百》
「頼む」
核が青く脈を打つ。何もなかった十メートル四方の壁が動き出した。石が組み変わり、床板が一枚ずつ浮かんで位置を決める。かたかたと、将棋の駒を猛烈な速さで並べるような音がした。
二十分で、回廊ができた。
入口から奥へ、幅一メートルの石の廊下が、ゆるやかなS字を描いて続いている。足音が壁に響き、その音で進路が決まる。右の壁が高く鳴れば右へ、低く鳴れば左へ。出口の扉の前で、風が一度だけ鈴のように鳴る。
数日前には、何もない四角い部屋だった。そこにいま、俺の図面通りの風が吹いている。声が掠れた。
雫は耳に両手を当て、目を閉じて、風の通り道をたどっていた。音叉をひとつ叩き、返ってきた音を聞いて、顔を曇らせる。
「いいと思います。でも、三番目の角が」
アインを歩かせた。一つ目の角、二つ目の角は、足音がきれいに案内してくれた。三つ目の角で、音がぷつりと消えた。
「壁の継ぎ目で、音が潰れてます」
「直せる。壁の間隔を詰めればいい」
「その前に、もう一つ、いいですか」
雫は天井を見上げた。坑道の入口のほうから、ざあざあという低い音が這ってくる。朝よりはっきり聞こえた。
「雨が強くなりました。雨音が坑道に入り込むと、風の高低が埋もれます。わたしの音も聞こえにくくなる。雨の日の客は、ここで迷います」
そう来るか、と思った。昨日からどこかで引っかかっていた石を、先に拾われた。
「雨の日は休業にする」
「雨の日に練習したい人が、いるかもしれません」
「じゃあ、どうする」
壁を眺めた。音が潰れるなら、音以外で道を示せばいい。光。それと、振動。
「光だ。正解の方向の壁に、小さな光を灯す。見て、解ける」
「光印、ですね」
「耳が弱い人にも、雨の日にも効く」
雫の返事を待たずに、余ったポイントで壁に三つ、光印を足した。薄い青の点が、角ごとにぽつりぽつりと灯る。
アインが回廊に入った。足音が壁に響く。光印が正解の方向を指す。ブリキの騎士の小さな影が、その光の上を通っていく。
影が、光を踏んだ。
回廊の風が、澄んだ音で鳴った。三つ目の角だ。音が潰れていた場所を、光に導かれて、アインは迷わず抜けた。入口からは、まだ雨音が聞こえている。
「わ」
「鳴った」
二人同時に声が出て、顔を見合わせて、同時に笑った。
雫が言いかけて、やめた。何を言うつもりだったのか、訊かなかった。
*
夜、仕上げの確認を終えて、石室の入口に座り込んだ。
《第一層・風鳴り回廊:形成完了》
《残り自由建築ポイント:五十》
三百五十から思えば、ずいぶん減った。足音がして、顔を上げると、帰ったはずの雫が小さな紙袋を提げていた。
「忘れ物か」
「差し入れです。夕飯、まだですよね」
袋には、おにぎりが二つと、保温の水筒が入っていた。
「作ったのか」
「近くのお店で、買いました。……すみません。見栄を張りました」
「正直でよろしい」
石段に並んで座って、おにぎりをかじった。鮭と梅干し。水筒のお茶は、少し濃かった。雨はいつの間にか上がっていて、入口の外で、濡れた葉がときどきぽたりと落ちた。
「鮭、俺がもらうぞ」
「梅のほうが、わたしは苦手です」
「じゃあ梅は俺か」
「買ったのは、わたしです」
「金は俺の貯金から出る」
「それは日当です。それとこれは別です」
どちらも鮭の側から手を離さなかった。結局、半分に割った。具が片側に寄って、俺の側は米ばかりになった。
回廊の奥で、アインが一人で歩いている。かたん、かたん、かたん、かたん、かたん。六歩目の足音が、半拍遅れた。雫の鉛筆が、膝の上で小さく拍を取っている。
雫が、口の中のものを飲み込んでから言った。
「揺らぎ、入れましたね」
「五歩に一回な」
「いい足音です。……創真さん、梅、残ってます」
「いらない。そっちにやる」
「やっぱり苦手なので」
梅干しは、石段の端に置かれたままになった。




