最初の客は、ちゃんと勝った
入口の敷居で、こつん、と小さな金属音がした。
星宮雫は、思っていたより小さな人だった。
石室の入口に立った彼女は、背丈が俺の肩ほどしかない。ひとつに束ねた髪、黒い耐衝撃コート、手には五十センチほどの金属の杖。先端に音叉の形をした環が付いている。
「A級空間結界・音響術師、星宮です。よろしくお願いします。先に一つ確認していいですか」
「どうぞ」
「この門は、わたしが入る前に、保護が働くことを確認できますか。普通は実績が公開されているので」
「公開できる実績が、まだない」
「ですよね」
雫は頷いて、嫌な顔をしなかった。責める代わりに、淡々と訊く。
「では条件を先に決めさせてください。挑戦者はわたし一人。時間は十分。課題は?」
手書きの公示を渡した。
【課題:守護者アインの盾に、一度、攻撃を当てる】
【制限時間:十分】
【入場者:一名】
【保護:生命防壁と帰還機構。限界入力に達した場合、強制送還】
「盾に一撃でいいんですか」
「一撃でいい。アインは、あんたの体には当てない」
雫が足元の小さな兵隊を見下ろした。アインは盾を胸に当て、長く、丁寧に礼をした。
「……礼儀正しい守護者ですね」
「世界一だ」
「はい」
小さく笑った雫は、笑ったあと、杖を握り直した。目つきが変わった。
俺は区画の外、操作台に立った。保護枠は一人分。中にいるのは雫だけで、俺は線の外から、核の表示と二人を見守るしかない。
勝てる、と踏んでいた。三十センチの的に、盾は常に体の前。床は均して滑らず、足場の不安はない。A級が一撃を通すには、盾の下か背後だが、回り込む前にアインが向きを変える。十分は、ほぼ俺の持ち時間だ。
「開始」
雫は動かなかった。音叉の環を足元の石にこつんと当てる。
高く澄んだ音が石室に広がった。壁に当たって返り、天井を撫でて戻る。彼女は目を閉じたまま、返ってきた音の形で部屋を見ている。
「いた」
次の瞬間、雫は三歩下がって杖を振った。透明な衝撃の壁が、床を這ってアインに迫る。兵隊は半歩、右に滑ってそれを避け、避けながら音もなく雫の足元へ踏み込んだ。
木の針金が足首を打ち、薄い光の膜が弾けて衝撃を吸った。
「痛みは絞ってある! 当たったかどうか分かる程度だ」
「分かりました!」
返事と同時に、杖が床を突いた。音の壁がもう一枚立ち上がる。アインは盾で受け、ずるずると押され、止まった。小さな足が床を噛み、半歩で押し返す。
三十センチの兵隊が、A級の術師と、互角に押し合っていた。
手の中で鉛筆が折れた。自分が描いた図面の上で、自分が組んだ床の上で、誰かが思い通りにならない動きをしている。そのうえ、俺の読みはまだ当たり続けていた。
二枚目の壁を横に流された雫は、後ろへ下がった。下がる先は北東の隅。まずい、と俺は息を吸った。あそこは直角のままだ。壁が音を飲む。
雫の足が隅に入る手前で止まった。杖の環が、小さく鳴る。返事が来ない。彼女は眉を寄せ、角を避けて壁際を横へずれた。あの隅が、A級の足を一度、止めた。
そうだ、あの隅は使えない。そこへ追い込めば、音を失った術師は目を閉じても部屋が見えなくなる。アインがそちらへ詰めはじめた。盾を雫と自分のあいだに置いたまま、半歩ずつ、隅の方へ。
三分が過ぎた。針金が足首を叩くたび、膜が小さく光る。
そのとき、雫が音を止めた。
杖を下ろし、環を握りこんで、息まで殺した。静まった石室に、アインの足音だけが残る。かたん、かたん、かたん。
雫は動かなかった。
俺は笑いそうになった。止まった的は、一番当てにくい。迎え撃つ構えもない相手に、盾を向けるだけでいい。アインが半歩、半歩と間合いを詰める。足の裏全体で、同じ拍で。
雫の指が、杖の柄の上で、とん、と一度だけ動いた。拍を数えている。
その瞬間に気づいた。
床を均した。歩幅を半歩に揃えた。滑らず、揺れず、乱れない足音。安定させたのは俺だ。
盾がすぐそばまで来る。足音がひとつ、拍の頭で止まった。雫が杖の先を下から跳ね上げた。
こつん。
音叉の環が、盾の縁に触れた。
《課題達成を確認》
核の表示が青く光り、石室の中を風が一周した。
「……当たりました」
雫が目を開けた。アインは盾を引き、一歩下がり、長く頭を下げた。さっきの礼より、さらに長かった。
「アインさんの足音、一定でした」
「……え」
「半歩ずつ、同じ拍で来ます。わたしが音を止めて動かなければ、位置は足音で決まる。次の一歩も、どこで止まるかも、数えられました」
膝から力が抜けた。滑らない床も、揃った歩幅も、全部、俺が良かれと組んだ部品だった。それが全部、彼女の拍になった。
*
勝った雫は、すぐには休まなかった。
「報告させてください。すみません、長くなります」
彼女は石室の北東の隅を指さした。
「ここ。音がこの壁に当たったあと、角に潜り込んで返ってきません。死角です。入る手前で気づいて避けましたが、わたしの音が使えませんでした。危険を知らせる警報も、きっと届きません」
俺は黙って、持っていた図面を差し出した。
雫が瞬きをした。
「あの、これは」
「俺が描いた図面だ。どこが悪い。全部言ってくれ」
「……いいんですか」
「直したい。直すのを、手伝ってほしい」
雫は図面を受け取らなかった。両手を胸の前で握って、三秒間、動かなかった。
「前の職場では」と、小さな声で言った。「図面を見せたら、欠点を言った人が悪い人になりました」
「俺の職場でも、そうだった」
「そう、なんですか」
「だから、独立した」
雫が笑った。今度の笑い方は、最初のよりずっと長かった。図面を受け取って床に膝をつき、鉛筆を借りて、北東の角に斜めの線を一本引く。
「ここを丸く削ってください。音が壁を滑って、戻ってきます」
俺が引くつもりだった位置と、ほとんど同じ線だった。ただ、角度が違った。彼女のほうが、正しかった。
最後に、強制送還を試した。
「限界入力の二割です。わたしが同意した値の範囲で」
雫が入場門の内側に立つ。俺は天井の土嚢を落とした。二十キロ、高さ五メートル。
光の膜が展開して衝撃を受け止め、雫は瞬きのあいだに、入口脇の帰還座に座っていた。土嚢が床を打つ、どすん、という音は、そのあとに響いた。
手元の記録を見る。応答の欄は、設計の想定より短い数字で止まっていた。
「……戻りました」
顔色が白い。当たり前だ。
「怖かったですか」
「怖かったです」と、雫は正直に言った。「でも、戻れました。一回目で戻れた。だから、あなたの迷宮を、続けて試したいです」
核の表示が小さく光った。
《初回攻略および帰還機構の応答記録を保存。魔力を回収します》
《自由に使える建築ポイント:三百五十》
最初の客の勝利が、そのまま最初の建築費になった。
三十センチのブリキ兵に、A級が三分間手を焼かされた。協会に報告すれば、笑われるだろう。笑われてもいい。表示の数字は、確かに三百五十ある。
雫が帰還座から立ち上がり、俺を見上げた。
「あの、契約は、どうなりますか? 検証、続けてもいいですか」
「こっちが頼むところだ」
「では、よろしくお願いします。わたし、遠慮なく欠点を言いますよ」
「それが欲しいんだ」
アインが、盾を胸に当てて、二人のあいだに立った。
「もういいぞ、アイン。それで四回目だ」
礼は止まらなかった。




