百ポイントと、三十センチの相棒
初期備蓄は、きっかり百だった。
結晶の脇に浮かぶ表示を、俺は鉛筆の尻で叩きながら睨んだ。
《基礎核の維持 五十》
《床・換気の整備 二十》
《入場者保護・帰還保証 三十》
足すと百。壁を足したくても、扉を付けたくても、ここから先は灰色の「0」しか並んでいない。
「予算ゼロ、人員ゼロ。ブラックな職場でもここまでは見ないぞ」
結晶は答えない。代わりに、床の一角が淡く光った。《守護者の核を設定してください》。
その光の真上に、俺は祖父の作業場から持ってきた物を置いた。ブリキの兵隊だ。
高さ三十センチ。錆びて、片目の塗装が剥げ、左手には丸い盾の代わりに缶の蓋が縫い付けてある。蓋には深い凹みが一つ。五歳の俺がこの兵隊で遊んでいて、階段から落とした時の傷だ。祖父は「直さんでいい」と言って、そのまま棚に戻した。
核の光が兵隊を撫でた。
《素体:登録》
《基礎核を投入しますか》
「五十は、でかいな」
言いながら、迷いはなかった。承認を押す。光がブリキに吸い込まれ、継ぎ目から細い青の筋が走り、小さな関節が、かたん、と鳴った。
首が動いた。剥げた片目がこちらを向く。
「……起きたか」
兵隊は立ち上がった。足の裏が石に擦れて、ざり、と音がする。盾を胸に抱え、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
礼だった。
「喋れないんだな」
答えの代わりに、兵隊は顔を上げて、俺の靴の先をじっと見た。
「アイン、でいいか。最初の一体だから」
小さな頭が、一度だけ縦に動いた。
*
最初の三十分で分かったことは三つある。アインは驚くほど覚えが早い。床が悪い。俺の教え方が壊滅的にひどい。
「違う、半歩出して、後ろ足で蹴るんじゃなくて、押す。そう。そうじゃなくて、だから」
木の枝を剣に見立てて見本を見せる。アインは真似をして、踏み込んで、つるりと滑った。石室の床は砂でざらついているくせに、ところどころ磨かれたように滑る。三十センチの体には、床の荒れ一つが崖に等しい。
三回転んだところで、足元を見直した。
転ぶのは床のせいだけではない。踵から落として爪先で終わる。右脚が痺れた俺の歩き方を、そのまま真似ている。
「……ごめんな」
アインが首を傾げた。
しゃがんで、隣に並んだ。痛む脚をかばうのをやめて、足の裏全体で静かに床を踏む。
「歩幅は半歩。足の裏を、ぜんぶ使う。ここだ」
アインが俺の足を見て、真似をした。かたん、と小さな音がして、ブリキの足が半歩、前に出た。滑らなかった。もう一歩、さらに一歩と続けて、三歩目で、アインは剣の形をした針金を振った。
ひゅ、と鋭く空を裂いた。三十センチの兵隊が出す音とは思えなかった。
《床の摩擦を調整しますか。二十》
「頼む」
滑る一角に床板が敷かれ、ざらつきが均されていく。換気の通りも良くなり、石室の空気が軽くなった。アインは新しい床で、もう一度半歩を踏んだ。二十回続けて、滑らなかった。数えていたのは俺だけだ。
かたん。かたん。かたん。
三歩とも、同じ間隔で床を叩いた。ぴたりと揃った音を、俺は満足して聞いた。揺れない歩みは、安定した設計の証だと信じていた。
*
三日目の夜、俺は残りの三十ポイントの使い道を確かめることにした。入場者保護と帰還保証。この迷宮が、いまただ一つできる仕事だ。
入口の石畳に白線を引き、そこを《入場門》と名づけた。線の内側に踏み込むと、核が反応する。
「五キロ。いくぞ」
ダンベルを線の内側に転がした。重りは線を越えた瞬間、淡い光の膜に包まれて消え、入口脇に置いた小さな座席の上で、ごとんと音を立てた。
五キロのダンベルが、座席の上に行儀よく座っていた。
「戻った」
《帰還座・動作確認》
十キロにして、天井から土嚢を落とす仕掛けも足した。膜は重さを受け止め、潰れる前に荷物ごと座席へ送り返す。送還までのわずかな間に、座席の上のダンベルが小さく跳ねたのが、笑えるくらい可愛かった。
次は、膜の弱点を探す番だ。俺は自分で自分に挑んだ。どこを狙えば、膜は割れる。床の継ぎ目、天井の隅、線の端。順番に土嚢を落とし、割れ目を探す。
十九回目まで、膜は一度も破れなかった。二十回目も。
二十一回目で、膜が一瞬だけ揺らいだ。
白線の端の、石の凹みだった。そこだけ膜の縁が浅く、重さが一点に寄ると保護が追いつかない。当たってほしくなかった場所に、当たった。直すのに一時間かかった。
直しながら、気づいた。
次に必要なのは客だ。けれどこの迷宮は、まだ一人分の保護枠しか出せない。その一人を、俺は区画の外から見守る。つまり俺自身は入れない。俺とアインと、ほとんど空っぽの石室。誰がこんな場所に入ってくれる。
探索者協会の求人掲示板に、条件を書いた。
【迷宮内帰還機構の試験者を一名募集。内容:小型守護者との模擬戦、および安全機構の確認。日当二万円と、回収した魔石の全額。要A級相当。危険は設計上ありません。ただし、初めての機構です】
投稿ボタンを押す前に、「ただし、初めての機構です」を消そうとして、消さなかった。
日当は俺の財布から払う。建築に使うポイントは、迷宮の中でしか動かない。二つは、別の財布だ。
三十分後、応募が一件届いた。
【星宮雫と申します。応募します。ただ、その前に一つだけ、お詫びをさせてください】
【多分わたしは、あなたの図面の欠点を、かなり言ってしまうと思います。ごめんなさい】
声を出して笑った。足元で、アインが首を傾げている。
返信の文面を三回読み返して、四回目で、自分が笑っていることに気づいた。解雇されてから、誰かの「欠点を言います」が嬉しかったのは、これが初めてだった。画面の向こうで、見知らぬ人が先に頭を下げている。
「欠点を言ってくれる人が来るってさ。いい客だぞ」
小さなブリキの騎士が、盾を胸に当てて頷いた。
石室の北東の隅だけは、まだ直角のまま残っていた。方眼紙に描いたときは気にもならなかった角だ。
鉛筆の尻で、壁を一度叩いてみた。こつ、と鳴ったきり、音はどこからも返ってこなかった。




