追放された設計士と、出口のない図面
「承認印を押せ、夜久。これは命令だ」
氷室恭弥は、書類の端を指の背で二度叩いた。天嶺ギルド設計部の会議室。窓の外では第三訓練場の足場が、午後の日差しを安っぽく跳ね返している。
一枚目には赤字で「予算超過」。二枚目が排水路と退避路の仕様変更だった。幅を四割削り、鋼材は「同等品」に置き換える。同等品というのは、半値で買える別物のことだ。
俺は二枚目の端に、鉛筆で線を引いた。削った後の退避路の幅だ。そこに、訓練生二十人を並べる。肩幅と荷物を足して、走る速さで割る。
「十二人です」
「何がだ」
「この幅で、詰まらずに走れる人数です。残りの八人は先頭の背中にぶつかります。先頭が一人転べば、全員がそこで止まります」
「転ばなければいい」
「二年前も、同じ言葉を聞きました」
ペンが止まった。壁際の若手が二人、床の模様を熱心に観察しはじめた。誰も口を挟まない。
二年前、補助設計者だった俺は、第二訓練場の排水と退避路が足りないと報告書に書いた。工程が優先され、報告書は棚に入り、三か月後に天井が落ちた。訓練生を四人引きずり出した代償に、右脚の魔力回路が痺れた。いまも下り階段は、手すりがないと足の裏が逃げ腰になる。
「理想論で飯が食えるか。俺の部隊が毎月いくら稼いでると思ってる」
「稼ぎの話はしていません。戻ってこられない場所を、訓練施設とは呼べないという話です」
声が思ったより落ち着いていて、自分で驚いた。膝は震えているのに、声だけは職人の顔をしていた。胸ポケットでは、現場メモ用の古い録音機が回りっぱなしになっている。止め方をいつも忘れるのだ。今日だけは、それでいい。
氷室は金のボールペンを回しながら、次の手を探していた。印を押させる、脅す、懐柔する。顔を見ていれば、順番まで読める。
最初に来たのは脅しだった。
「押さないなら、お前の席はない」
「押せません」
「じゃあ辞めろ」
「解雇ですか、退職ですか」
「解雇だ。社員証を置いていけ」
読み通りだった。当たったところで、嬉しくはなかった。
社員証を机に置き、その横に認印も並べた。マグカップとレーザー距離計と方眼紙の束を段ボールに放り込んで、会議室を出る。ガラス扉が背中で閉まる音は、思っていたより軽かった。
ポケットの録音機は、まだ回っていた。「じゃあ辞めろ」も「解雇だ」も、日付つきで全部入っている。使うかどうかは、あとで考えればいい。
エレベーターホールに、紺の制服の青年が立っていた。去年入った新人で、崩落の日に俺が瓦礫の下から引っ張り出した四人のうちの一人だ。
青年は何か言いかけて、唇を噛み、深く頭を下げた。
言葉はなかった。下げたままの頭が、箱の中で降下していく俺を見送った。
*
祖父が死んだのは去年の冬だった。
弁護士から届いた相続の書類は、残業の合間に三回開いて三回閉じた。奥多摩の古い家と、裏の山。山の名は黒神山という。岩が黒いから、そう呼ばれているだけだ。
行く場所がなくなったので、行くことにした。
バスを乗り継いで二時間、歩いて四十分。藪に飲まれた庭の奥に、木造二階建てが傾いて立っていた。作業場の戸だけが妙に軽く開く。祖父は測量技師で、山を測るのが仕事だった。孫の俺に最初に教えたのは、剣の足運びと図面の読み方だ。
一番上の筒を開けると、黒神山の第一坑道の測量図が出てきた。
坑道は一本。突き当たりに十メートル四方の石室があり、東の壁沿いに細い線が一本、坑道脇の排水溝へ向かって伸びている。余白に、祖父の角張った字があった。
『石室、排圧溝あり。塞がる。立入禁止』
塞がる、とはどういう意味だ。
図面を丸め、懐中電灯と工具箱とバールを担いで、俺は裏山に向かった。
*
坑道の鉄格子は錆びきっていて、押すだけで外れた。
二百メートル。レールの残骸を跨ぎ、右脚をかばって歩く。進むほどに、奥から低い音がした。耳ではなく奥歯に響く唸りだ。
石室は図面の通りだった。レーザー距離計を当てると、十・〇二と十・〇一。高さ三・二。出入り口は俺が入ってきた一つきりで、他に抜ける場所はない。
出口のない部屋は、設計として落第だ。理屈より先に、体がそう言った。
溝は東の壁際を走り、壁の手前で崩れた岩の山に突っ込んでいた。手を当てると、隙間から空気が押し返してきて、唸りが一段太くなる。天井から砂が降り、ヘルメットを叩いた。
図面の矢印は、山じゅうの地下水と空気が最後にこの部屋へ寄る向きに描かれていた。行き場を塞げば、何十年でも溜まり続ける。
岩の山を、端から順に叩いた。拳の関節で一つずつ、音を聞く。軽く乾いた音の岩と、鈍く詰まった音の岩がある。鈍い岩は、上の荷を受けている。
「手前の三つは軽い。奥の、下の段が要だな」
要を最初に抜けば山ごと崩れる。要を最後に回せば、荷が抜けた分だけ軽く転がる。順番を決めて、バールを隙間に差し込んだ。
一つ目は、砂を噴いて転がった。二つ目、三つ目も、叩いたときの軽い音のまま転がった。四つ目で腕が痺れ、五つ目で脚が笑いだした。唸りは呼吸ごとに太くなり、壁の石が低く鳴り、靴底の床が脈を打つ。逃げるなら今のうちだと、頭のどこかが冷静に言う。
けれど図面は嘘をつかない。この溝は、三十メートル先の排水溝まで一本で繋がっている。岩を六つ除けば通る。
六つ目は人の胴ほどもあって、バールの先が滑った。叩いたときは鈍い音だった。要だ。読みが一つだけ外れていた。この岩は、最後に残すんじゃない。最後に、自分で動くのだ。
体重を乗せた。もう一度。もう一度。
岩が転がった。
乾いた土の匂いがして、次の瞬間、石室の空気が全部、溝の奥へ吸い出された。長い笛のような音が坑道を走っていく。何十年分かの圧が出口を見つけて、細い溝をまっすぐ駆け抜けた。砂煙に背中を押されて尻もちをつき、俺は笑うしかなかった。
唸りが、止んだ。
床に落ちた砂煙が、懐中電灯の光の中をゆっくり溝へ流れていく。図面の矢印と同じ向きだった。
静けさの中で、石室の北の壁が青く光りはじめた。人の頭ほどの結晶が、壁の中ほどに埋まっている。青い光が脈を打つように強まり、空中に文字が浮かんだ。
《排圧経路の接続を確認》
《内圧、安定。起動条件を満たしました》
夢かと思って頬を抓ったが、先に脚の痛みが答えてくれた。
《警告:帰還経路が設定されていません。入室者の安全を保証できません》
起動して最初に言うのが、それか。
肩が揺れた。解雇されてから初めて、声を出して笑った。壁に背を預けて笑い続け、目の縁が熱くなったので、袖で乱暴に拭った。
「ああ。そうだよな。まず出口だよな」
《契約者を登録します。名前を》
「夜久創真」
《職業を照合……迷宮設計士。更新しました》
「元、だけどな」
《初期備蓄、百。最初の設計を開始してください》
青い光が石室いっぱいに広がり、十メートル四方の何もない空間が、白紙の図面みたいに俺を待っていた。
工具箱の底に、方眼紙と鉛筆がある。
まず、出口から描こう。




