吸収したのに、開けられない
「来週には開けてもらえますよね」
青梅市の担当者は、名刺を出す前にそう言った。
氷川という四十代の男で、ネクタイが少し曲がっている。受付小屋の椅子に座るなり、鞄から地図を引っ張り出した。後ろには、日焼けした大柄な男が腕を組んで立っている。
「氾濫が止まったと聞きました。地元は大喜びです。あの黒迷宮が使えるようになれば、採取業者も戻れる。観光にもなる」
「まだ開けられません」
「止まったんでしょう?」
「止まったのは暴走です。使える状態になったわけじゃない」
地図の上に鉛筆で線を引いた。入口から二百メートル、白い足場が通っている。そこから先は全部、黒く塗りつぶした。
「出口に通じるところだけ、白い作業足場にしました。奥は封鎖したままです。第十一層から十五層に相当する広さですが、圧が抜けきっていません」
「安全認定は受けておられるんでしょう」
「黒神山は受けています。青梅は、まだです」
氷川の眉間に皺が寄った。ペンの尻で、地図の端を叩く。来週、と書いたらしい手帳の一行が、こちらから見えていた。
その後ろの大男が、一歩前に出た。
「荒井です。採取のリーダーをやってる」
低い声だった。
「三ヶ月、仕事がなかった。若いのが十人、辞めていった。それで、今あんたが言った『まだ』は、何日だ」
「分かりません」
「分からねえ?」
「分からないものを、日数にして約束はしません。約束したら、守れなかった時に、あなたの若い人が先に死にます」
荒井の拳が、ぎゅっと握られた。氷川が慌てて「荒井さん」と袖を引く。荒井は振り払わなかった。ただ、俺の目を見ていた。
「あんた、いくつだ」
「二十七です」
「二十七でそれを言うのか」
「二年前に、約束した日数が守れなくて、人を一人埋めかけました」
声は荒げなかった。事実を言っただけだ。荒井の目が、ほんの少し揺れた。
「……何を、すればいい」
「協力してください。足場の外縁の地盤調査を、採取の方々に頼みたい。あなた方は、あの山の石の癖を、誰より知っている」
荒井はしばらく黙っていた。氷川が横目で荒井を見る。
「条件は」
「日当を払います。それと、安全装備を貸します」
「……やる。ただし、中途半端な足場を渡したら、俺が一番先に文句を言うからな」
「望むところです」
氷川は「では、来週の目処だけでも」と最後に食い下がった。
「目処は、出せません」
「市長に何と言えば」
「分からない、と」
氷川は大きく息を吐き、ネクタイをさらに曲げて、小屋を出ていった。納得した顔では、なかった。
二人が見えなくなってから、雫が小声で言った。
「創真さん、鉛筆、折れてます」
手元を見ると、芯が真ん中から二つに割れていた。
「荒井さん、怖かったです」
「俺も怖かった。膝が、まだ震えてる」
雫が吹き出した。
*
夜、図面の上に五つの窓を描いた。
壁に穴を空け、外から覗ける小さなガラス窓。その下に細い通路を一本。奥を観察する回廊だ。
「見えないものは、怖い。見えるものは、直せる」
雫が窓の一つに小さく印を打った。
「ここに、音の観測口を」
「いいな」
鉛筆が二本、同じ紙の上で動き始めた。
「創真さん、一つだけ」
「ん」
「昼に殻の入口で音叉を鳴らしたとき、返りが長かったんです。広さの割に」
「広いからだろ」
「そうかもしれません。……すみません、変なことを言いました」
窓の位置が決まった夜、青梅から届く唸りは、昨日より少しだけ低くなっていた。
*
青梅の殻は、計った途端に嘘をついた。
「二十メートルのはずなんだ」
レーザー距離計の画面には「二十・〇四」と出ている。目の前の空洞の、向こう岸までの距離だ。ところが雫が音叉を鳴らして返りを聞くと、首を傾げた。
「二百メートルは、あります」
「十倍違うぞ」
「見た目の近さと、地脈の上の距離が、合っていないんです」
荒井が腕を組んで空洞を睨んだ。採取の若い者を三人連れて、地盤調査に入っている。
「幻じゃねえのか。山の中じゃ、よくある」
「幻なら、足が届きます。ここは、届かない」
試しに若いのが一人、命綱を付けて、「二十メートル」を歩いて渡ろうとした。十歩、二十歩、五十歩。まだ着かない。
「おい、遠いぞ!」
百歩目でようやく向こう岸の端に手が届いた。戻ってきた若いのは膝に手をついて肩で息をしていた。
「兄さん、これ、ほんとに二十メートルですか。足は二百メートル歩いたって言ってますよ」
「両方、正しい」
「どっちも?」
「どっちの測り方も、嘘をついていない。ずれてるだけだ」
地面に図面を広げた。五つの空洞が紙の上に並んでいるが、見かけの配置と位相の配置と、二枚を重ねるとどちらも辻褄が合わない。
祖父の作業場から持ってきた古いトランシットを、三脚に据えた。
祖父は山の測量のたびに、同じことを言っていた。
『三点で囲め。二点じゃ嘘がつける。三点なら、逃げ場がない』
筒に目を当てて、一つ目の空洞の角を視る。二つ目。三つ目は、雫が音で測る。
見かけの距離と、音の距離と、地脈の距離。三つが揃った。
「合う」
「え」
三点のずれは、どれも十倍前後。誤差は二パーセントに収まっていた。
「三つの距離を、別々の図に書くんじゃない。重ねて、ずれの量を測る。ずれが一定なら、畳まれてる分が分かる」
図面に赤い線を引いた。五つの空洞の間をつなぐ、見えない道。
「五つあるように見えて、本当は、三つが一続きの空洞だ」
雫が目を見開いた。
「それなら、工事の順番も決められます」
「つなぎ目を先に補強する」
荒井が、俺の肩越しに図面を覗き込んだ。
「……兄さん。あんた、山の測り方をしてるな」
「祖父の仕込みです」
「やっぱりな。さっきから、山の爺さんたちと同じ目をしてた」
荒井の口の端が、少しだけ緩んだ。
トランシットの金属の冷たさが、手のひらに残っていた。筒の先では、雫が三点目の旗を持って、遠くで手を振っていた。




