迷宮王になる前の、最初の一太刀
拳が落ちる前に、アインが前へ出た。
大盾と岩の拳がぶつかって、通路が鳴った。地鳴りのような衝撃が足場を伝い、白い線が、ぷつりと切れかけた。
「アイン、保て!」
アインは足を踏みしめた。半歩、半歩。石を踏む足の裏が床に沈む。盾が拳を押し返し、岩窟王の腕がずるりと後ろへ滑った。
押せている。そう思った次の瞬間、巨人のもう片方の腕が、俺たちの頭ではなく、足元へ落ちた。
白い線の真上だった。
拳が岩を砕くたび、光の帯が割れ、細くなる。狙われているのは人ではない。道だ。盾の上を越えて、背後の杭を、一本、二本、粉にしていく。
『創真さん、足場がもちません! 五十センチを切ります!』
「分かってる!」
分かっていた。防衛体は、俺たちを殴るより、帰り道を断つほうが早いと知っている。アインが盾で拳を止めれば止めるほど、空いた腕が線を削る。受けるだけでは、負ける。
ここで退けば、封鎖だけの対症療法になる。氾濫は、いつか必ず起きる。
退くわけにはいかなかった。
「同期、承認!」
胸の核が青く光った。熱い奔流が背骨を駆け上がる。アインから流れ込む力が全身に染みて、腕に黒い鉄の紋様が走った。足の裏が、床を掴む。
階段の一段目で、いつも一拍ためらった膝が、今は何も覚えていない。
『同期確認! 単一系統、アイン七十、創真三十!』
腰の剣を抜いた。源蔵が打った黒鉄の長剣だ。柄が手に吸いつき、刃が重く鳴る。アインの視線が一瞬だけ俺に向き、青い目が頷いた。
行け、と。
「うおおおおっ!」
地を蹴った。
細い光の帯の上を駆けた。五十センチ幅。落ちれば黒領域。それでも足は迷わない。一歩ごとに、床の感触が脚の骨に響く。何年も重い荷物を引きずっていた右脚が、嘘のように軽い。
岩窟王の拳がこちらを向いた。横薙ぎ。俺の頭の位置に来る。
「アイン!」
盾が滑り込んだ。受けるのではなく、角度を変えるだけの、ほんの数センチの逸らし。拳は頭上を空気ごと通り過ぎ、背後の岩壁を粉々に砕いた。破片が外套の背を叩く。
そこへ、左の拳が来た。人でも盾でもなく、俺の一歩先の床へ。
光の帯が、砕けた。
足場に、一メートルほどの欠けができた。落ちれば黒領域。止まれば、次の拳が来る。考える前に体が跳んでいた。左足で踏み切り、外套の裾が黒い口の上でめくれ、着地は右足だった。痺れていたはずの足は石を噛み、そのまま揺れなかった。
背後で、アインが杭を投げた。着地の足場の端に、光の杭が突き立ち、欠けが埋まっていく。俺は振り返らなかった。振り返らなくても、あの騎士が今、盾一枚で巨人の腕を二本とも引き受けていると分かった。
目の前に、胸の赤い輪が現れた。
脈打っている。暴走の中心だ。
壊してはいけない。核を壊せば、溜め込まれた圧が一度に解放される。氾濫より悪い。切るのは、暴走を作っている制御環の繋ぎ目、一か所だけだ。
さっき見た、脈の遅れ。
目を凝らす。赤い光の、ほんの小さな濃淡のずれ。輪の右下、爪の先ほどの場所で、光が一拍遅れて明滅している。
そこだ。
足の裏に力を溜めた。単一同期の重力が、剣の切っ先に集まっていく。刃の先がわずかに重くなり、そこだけ空気が沈んだ。
岩窟王の右手が、俺を掴みに来た。五本の指が広がって、視界の半分が黒い岩で埋まる。外套の肩が指に触れ、布の裏地が一瞬で焼けるように熱を持った。
遅い。
遅いと思えた。自分でも信じられなかった。拳の軌道、指の曲がり、肩の岩が軋んで動く順番、全部が遅く見える。巨人が次にどの指を折るかまで見えた。アインの目で見ているのだ、と気づいた。七割が、アインの感覚だ。その七割の目が、俺の三割の腕に、ただ一つの答えを渡してくる。ここだ、と。
踏み込んだ。
黒鉄の長剣が、赤い輪を横一文字に走った。
音が、止まった。
通路にいる全員の息が止まったような静寂が降りた。そして赤い輪が、真ん中から二つに割れた。割れ目は、一拍遅れて明滅していたあの一点を、そのままなぞっていた。割れ目の奥から青白い光が噴き出す。暴走していた圧が、整然と流れ出し、白い線へ吸い込まれていく。
岩窟王の体が、ぐらりと傾いた。
赤い目が、ゆっくり暗くなる。最後に、巨人は俺を見た。怒りでも憎しみでもなかった。長いあいだ閉じ込められていた何かが、やっと息を吐くような顔だった。
岩の巨体は、砂のように崩れていった。
砂の一粒ずつが、足場の光を受けて金色に見えた。長いあいだ誰にも触れられなかった圧の、最後の名残りだった。
足場の端まで流れた砂が、白い線に触れて、さらさらと光に溶けた。
*
白い線が、元の幅に戻っていく。五十センチが七十に、七十が一メートルに。
『創真さん! 創真さん、聞こえますか!』
雫の声が、泣きそうだった。
「聞こえてる。生きてる」
『圧が、下がってます。氾濫の予兆指標が、基準以下に——』
声が詰まって続かない。通信機の向こうで、鼻をすする音がした。
「泣いてるのか」
『泣いてません!』
「そうか」
『泣いてませんから!』
同期が解けた。全身から力が抜け、膝が笑った。アインが俺の腕を掴んで支えた。
「ありがとう、アイン」
アインは頷き、盾の凹みを、俺の胸にそっと当てた。
右脚を見下ろした。同期の熱が抜けたあとも、痺れは戻ってこなかった。戻ってこないのが、逆に怖かった。借り物の脚だと、まだ思ってしまう。
外套の裏地は、まだ熱かった。限度の三十分まで、あと何分残っていたのか数えるのが怖くて、数えなかった。胸のポケットでは、帰還札が破られないまま、汗で湿っている。一度も使わずに済んだ。
『あとで検証します』
雫が先回りして言った。
『同期の反動も、脚の件も。……今日は、帰ってから』
通路の奥に、広い空洞があった。壁は黒く、天井は高く、ところどころで赤い結晶が脈打っている。
核の表示が浮かんだ。
《青梅黒迷宮・暴走制御環の切断を確認》
《空間殻を取得しました》
『完成した階層じゃ、ないんですね』
「ああ。まだ、黒い」
奥の闇は、危険なままだ。出口も作られていない。圧は逃げたが、使える場所に変えるには、これから大仕事になる。
それでも、俺は笑っていた。
「雫」
『はい』
「帰ったら、熱いお茶を頼む」
『……はい。熱いやつを、淹れます。冷めたって言ったら、怒りますから』




