黒曜の外套、白い線の向こう
青梅の黒迷宮は、山の斜面に口を開けていた。
入口を覆う岩は黒く湿り、硫黄と鉄と古い水の匂いがする。一歩入ると、喉の奥が焼けるようだった。黒曜の外套が、肩のあたりで圧を受け止めているのが分かる。布の裏地が、うっすら温かい。
「管制、聞こえるか」
『聞こえます。創真さんの声、クリアです』
耳の通信機から、雫の声が返った。後方五百メートル、黒神山側の白領域に、臨時の管制所を置いてある。雫の隣には予備の通信機と、熱い茶の入った魔法瓶。出発前に、彼女は俺の鞄にも同じものを押し込んでいた。
実を言えば、足は震えていた。黒領域の入口は、起動前の石室と同じ匂いがした。
『創真さん。わたしは、見えない場所を見ています。創真さんは、見える場所だけ、見てください』
「分かった」
『帰ってきたら、お茶を淹れます。熱いやつ』
「冷めてるのがいい」
『だめです。熱いのです』
笑って、息を吐いた。足の震えは止まらなかったが、前には出られた。
アインが杭を一本打つと、地面から細い光の帯が伸びた。白領域の足場だ。幅は一メートル。一歩外に出れば、黒領域。
「帰還札を試す」
胸のポケットから、薄い札を出した。
「黒領域で破れば、白い足場に戻れる。ただし、戻るのは白い線のところまでだ」
『札は、白線に近いほど確実です。離れるほど遅れます』
足場の端に立ち、白い線の外へ爪先を出して、札を破いた。指先が震えて、紙が汗で少し湿っていた。破る音が、やけに大きく耳に残った。
光が弾け、体が引かれる。次の瞬間には、線の内側で尻もちをついていた。
「戻った」
『正常です』
「十メートル先でもやる」
二度目の試験で、一瞬の遅れが出た。戻れたが、確かに遅れた。足場から離れるほど、札は頼りなくなる。足場を延ばす速さと、退路の確かさが全てだ。
アインが先頭に立った。黒鉄の巨体が黒い岩の通路へ入っていく。盾を前に、剣を下げ、拍は一定。三歩進むたびに杭を一本打つ。白い線が通路の奥へ細く伸びた。
通路の両側の壁が、ざわりと動いた。
天井だ、と思った。壁から来るなら、天井からも来る。足場の真上に盾を向けるようアインに指を振りかけて、指が止まった。
黒い塊は、床から染み出していた。
人の腰ほどの岩の小鬼が、十、二十と這い出してくる。足音を立てず、床の上を滑るように寄ってくる。読みが外れたのに、アインはもう動いていた。上は見ていない。足元の線だけを見ていた。
盾を横に払う。小鬼が三体、吹き飛んで壁に叩きつけられ、砂になった。返す刃が二体を薙ぐ。踏み込みの音が通路を叩くたびに、小鬼が砕けていく。
「アイン、足場を広げろ。右、杭!」
言う前に、アインは右の壁へ杭を打ち込んでいた。白い線が広がる。迫っていた小鬼たちが、線の手前でぴたりと止まった。
見えない壁に当たったように、止まった。後ろの一体が、前の背中を踏み越えようと跳ねる。跳んだ体は線の真上で光に弾かれ、砂になって落ちた。
『小鬼の群れ、白領域に侵入できません!』
「当たり前だ。ここは、俺が先に造った場所だ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
『……今の、かっこよかったです』
「今は集中しろ」
『はい、すみません』
最後の一体を、アインが盾の縁で潰した。通路が静かになる。砂になった小鬼の欠片が、白い線の手前にだけ積もっていた。
息を吐くと白く曇った。外套の裏地が、じわりと熱を帯びている。
『黒曜の繊維は、圧を熱に変えて逃がします。ただし、限度があります。あと三十分』
「十分だ。三十分で終わらせる」
言ってから、自分の言葉の軽さに気づいた。三十分で終わる保証など、どこにもない。アインが盾の縁で、俺の背中を軽く押した。急ぐな、と言われた気がした。
「……分かってる。一歩ずつだ」
祖父が現場でよく口にした言葉だった。声に出すと、あの人の背中が、ほんの少し後ろに立ってくれる気がする。
『創真さん、前方三百メートル。位相の反応が、一つ。大きいです』
「大きい?」
『足場を広げます。待って』
待つあいだ、足元の白い線に視線を落とした。細い光の帯は、アインが三歩ごとに打つ杭で、辛うじて伸びている。この帯が切れたら、俺たちは黒い奔流の中で、帰り道を失う。
二年前の俺は、退路の図面を書いたのに、誰にも読まれなかった。今は、退路を引く人間が俺自身だ。外套の肩が、ずしりと下がった。
『退路は、わたしが見ています』
雫の声が、耳の奥で静かに響いた。
その時、地面が震えた。
巨大なものが寝返りを打ったような、重い振動。壁が軋み、天井から砂が降る。アインが盾を持ち上げ、一歩、前に出た。
前方の闇の奥から、赤い光が二つ、ゆっくりと開いた。
背筋を冷たいものが這い上がった。外套の中の汗が、一瞬で冷える。
目だ。
人間の三倍はある岩の巨人が、壁から身を起こしていた。全身が黒い岩で覆われ、胸の真ん中に、赤く脈打つ輪が嵌まっている。丸太ほどの腕、俺の頭よりも大きい拳。
その輪の光に、ほんの小さな濃淡のむらがあった。一か所だけ、他より脈が遅れて見える。
見間違いかもしれない、と思ううちに、輪はもう元の赤に戻っていた。
岩窟王。この黒迷宮の核防衛体だ。地元の人間が三か月、近づけずにいた理由が、そこに立っていた。
『創真さん! 足場が細くなってます、敵の振動で接続路が!』
足元を見た。白い線が、確かに細くなっている。一メートルが七十センチに、七十が五十に。
岩窟王が、拳を振り上げた。




