隣町から届く不協和音
夜中の二時、雫はヘッドホンを外し、膝の上で握ったまま動かなかった。蛍光灯の下でも分かるほど、顔が白かった。
「創真さん、起きてますか」
「起きてる。どうした」
「地脈の反響に、変な音が混じっています。聞いてください」
渡されたヘッドホンを耳に当てた。最初は何も聞こえなかった。次に、低い唸りが来た。弦楽器の最低音を、弓で延々と引き続けるような音。ときどき濁り、割れ、また戻る。聞いているうちに、頭の奥が重くなり、奥歯の付け根が勝手に噛みしめられていく。
「いつからだ」
「三日前から少しずつ。今夜は、はっきり出ています」
雫は黒神山周辺の地図を広げた。赤い点が東の端に一つ。
「青梅です。ここから直線で十五キロ。青梅の黒迷宮の計測値と、周波数が重なります」
公開されている青梅の値を引く。四十一ヘルツ。雫が拾った音は四十一・二ヘルツ。誤差は、計器のうちだ。
自然に生まれた圧の溜まり場で、調整機構が未完成のまま放置されている。圧が限界を越えれば魔物が増え、やがて外へ溢れる。氾濫。
「近づいてるのか」
「たぶん。……この音、逃げ場を探してるみたいで、苦しそうなんです」
「分かる」
雫が顔を上げた。
「起動前の石室が、こんな音をしてた。出口のない部屋の音だ」
雫は黙ってヘッドホンを握りしめた。耳のいい人だ。その音の苦しさが、俺より何倍も届いているのだろう。
「創真さん、顔、強張ってます」
「地図を見る。東側の等高線を」
「座ってください。お茶を淹れます」
「それより地図が」
「座ってください」
珍しく、強い声だった。腰を下ろすと、雫は湯呑みを俺の両手に押しつけた。熱くて、持っていられないほど熱かった。
*
玄関の戸が叩かれたのは、午前三時だった。
橘響子が黒いスーツのまま立っていた。目の下に隈がある。缶コーヒーを、持っていなかった。それだけで、事態の重さが分かった。
「夜分に失礼します。迷宮庁から、正式な調査依頼です」
「青梅ですね」
「氾濫予兆の指標が基準を超えました。通常対応は地元ギルドによる封鎖と避難ですが、今の青梅のギルドでは足りません」
響子は感情を抑えて話している。抑えているのが分かるほど、言葉の間が硬かった。
「黒神山の核と、青梅の黒迷宮の位相の関係を調べてほしい。あなたの核は、設計者を得て完全稼働した修復核として、国内で唯一の例です」
「黒神山の増床では解決できませんか」
「そこまでは、こちらで確認しました。だから、依頼に来ました」
雫を見た。彼女は頷いた。
「引き受けます」
「報酬は」
「要りません」
「受け取ってください」
響子の声に、押しがあった。
「無償の依頼は、責任の所在を曖昧にします。あなたが失敗したとき、あなたを守る条項が消える」
「……分かりました。では、請求書を送ります」
「期待しています」
響子は頭を下げて闇の中へ消えた。足音が遠ざかったあと、山風に混ざって、あの低い唸りが聞こえた気がした。
*
核の表示が変わったのは、翌朝だった。
《核レベル:二十》
《新機能:迷宮呑喰・接続設計 解放》
石室の青い結晶が、これまでより一段濃く光っている。
「流量、独立区画数、安全検証、応答記録。四つとも条件を満たしたそうです」
雫が表示を読み上げた。
「十層分の調律記録が決め手だったか」
「カナタさんの攻略が、最後の一票でした」
新しい項目を開く。
《接続設計:隣接流域の迷宮と、位相的な接続を試みます》
《対象:青梅黒迷宮(未制圧)》
《接続方式:①最深部直通 ②安全域からの段階延伸 ③外縁固定》
①の横には、赤い文字が並んでいた。
《成功率:未計測》《必要補強:不足》《帰還経路:未確立》
「最深部直通は、一番手っ取り早いですよね」
「手っ取り早いだけだ」
指で、画面に×を引いた。
「向こうの核に直接つなげば、核同士はすぐ触れる。同時に、向こうの圧が全部こっちに来る。帰る道がない状態でな」
「石室の起動と、同じですね」
「同じ失敗だ。排圧溝を先に造らないと」
②を指でなぞった。黒神山の白領域から、細い足場を一本ずつ延ばしていく。時間はかかる。足場が細いぶん、現地で使える出力も絞られる。
「そのかわり、退路が先にできる」
「はい。……創真さん。この作戦、管制をわたしに任せてください」
雫が、まっすぐ言った。
「現場に出るのは創真さんとアインさんです。わたしは区画の外から、退路の状態と位相の変化と、帰還札の反応を見ます」
任せる。判断の一部を他人の手に渡すということだ。自分の見ていない場所で、誰かが決める。その結果で、誰かが傷つくかもしれない。
石室を起動した夜から、現場の判断は全部、俺の手の中にあった。間違えても折れるのは俺だけで済む。気楽だった。
答えるのに、少し時間がかかった。
「わたしは、創真さんの見えない場所を見ます」
雫の声は、静かだった。肩から力が抜けた。
「……頼む」
「はい」
雫は嬉しそうな顔を隠すように、手帳に何か書きつけた。
*
昼過ぎ、源蔵が坑道に黒い塊を担いで入ってきた。
「着ろ」
無愛想な声に押されて、反射的に腕を出した。
広げると、外套だった。肩から踝まで届く重い布で、表面が艶を消した黒曜の色をしている。
「黒曜石の繊維を撚って織った。黒領域の圧には、気休めだが効く」
「いつの間に、こんなものを」
「三日前だ。山が妙な鳴り方をした夜に、図面を引いた」
「三日前……」
雫が顔を上げた。音が混じりはじめたのが、三日前だ。
袖を通すと、見た目より軽かった。肩の縫い目が驚くほど身体に沿う。
「寸法、どうして分かったんです」
「お前の背中なんぞ、いつも見てる」
それだけ言って、源蔵は作業場に戻っていった。
雫が口を押さえて肩を震わせていた。
「聞こえるぞ」
「すみません」
アインが外套の襟を、指先で直してくれた。礼が、いつもより少しだけ深かった。
胸のポケットに、帰還札を三枚入れた。紙は、思ったより薄かった。




