正規クリアの、風渡りの短剣
二十四時間後、カナタは同じ時刻に、同じ入口に立っていた。
昨日と違うのは、カメラを回していないことだ。
「配信は?」
「しません。今日は、あたしだけで解きます。終わったら、反省会でまとめて見せる」
髪をくくり直し、ポケットから白いチョークを一本取り出して見せた。公示の確認を終えて、彼女は第六層へ入っていった。
俺は管制室のモニターで見ていた。雫が隣で湯呑みを両手に包んでいる。
「チョークですか」
「箱の位置を床に写す気だ。第九層で線を引かせるのは、予想の範囲内だな」
「予想できたなら、対策は」
「しない。見破られるのは、設計のうちだ」
強がりだった。三番目の箱の傾きは、俺が自分で決めた十度だ。生き物は床の溝に固定されない。座り直すたびにずれる。それが唯一の綻びで、もし気づかれたら、パンドラは負ける。負けるように、造ってある。
画面の中のカナタは、回転回廊を迷いなく進んでいた。二度、三度と回る床の上で、溝を指でなぞり、基準灯の方向を確かめ、一度も天井を見上げない。
「昨日の経験が、体に入ってますね」
「ああ。昨日より静かだ」
第九層の宝箱の前に着いた。
彼女は箱を開けなかった。三つの箱の前にしゃがみ、床の溝から箱の縁まで、チョークで一本ずつ線を引いた。
一本目。二本目。
三本目の線を引いたところで、手が止まった。
「やっぱり」
画面の中で、彼女が呟いた。一本目と二本目の箱は、床の溝にぴったり揃っている。三本目だけ、十度ほど斜めに傾いている。
手元の設計メモと見比べる。俺が決めた角度は十度。線の角度も、十度。
「昨日、影が気になった理由は、これだ」
カナタは三番目の箱を避け、通路の奥へ進んだ。
箱は壁際で、蓋を少し開けて、悔しそうにかたかた鳴っていた。
「パンドラ、拗ねてます」
「見破られたのは、向こうが上手かっただけだ」
箱は蓋の隙間から、カナタの背中を最後まで見送っていた。拗ねているのに、どこか嬉しそうで、金色の目玉が一度だけ瞬いた。
*
第十層の最終室には、五つの宝箱が並んでいた。
三分ごとに部屋が回り、回るたびに箱の並び順が入れ替わる。偽物のミミックが一つ、本物の宝箱が一つ、残りは空。
俺はここで、カナタは走ると踏んでいた。時間は九十分あっても、並びが変わる前に開けたくなるのが人間だ。走れば、並びを見失う。
彼女は一度、回転を見送った。
壁際に立ったまま、唇だけが動いている。箱の並びを小声で数えているのだ。雫が「あ、数えてる」と囁いた。
次の回転も、見送った。
湯呑みの茶が、手つかずのまま冷めていく。三分は長い。画面の中のカナタは、その長さを、ただ立って過ごしている。昨日の彼女にはできなかった待ち方だった。
三回目の回転が終わった瞬間、彼女が動いた。
五つの箱の前を、順に歩く。まず床の溝から箱の縁まで、五本の線を引いた。四本は溝に揃い、一本だけが十度傾いた。
「見つけた、ミミック」
そこは素通りした。残る四つの蓋を、一つずつ拳で軽く叩く。こん、こん、こん。軽い音が三つ続いて、最後の一つだけ、ごつ、と鈍く返った。軽いのは空の音で、鈍いのは中身が詰まっている音だ。
彼女は右から二番目に手を置き、小さく言った。
「パンドラさん、ごめんね」
昨日と同じ目をしている。ほんの十度の傾きが、この箱にはなかった。蓋が、開いた。
中に、一本の短剣が横たわっていた。
《風渡りの短剣》
手に取った瞬間、画面の中でカナタが目を丸くした。
回転で床がふっと沈み、彼女の体が傾いたのだ。短剣の柄が小さく鳴って、風の足場が足の裏に差し込まれた。倒れかけた体が、元の位置に戻った。
「……え」
それだけだった。飛ばない。浮かない。派手な光もない。落ちかけた足を、一回だけ戻してくれた。
カナタは短剣を見つめたまま、動かなかった。それから、ふっと吹き出した。
「うわ、地味……地味なのに、すごい」
胸に抱えて笑った。笑いながら、柄を握る指が白くなっていた。
雫は黙って手帳を開き、『短剣・効果』の欄に二重線を引いた。
*
受付小屋の外で、カナタが俺たちに頭を下げた。
「ありがとうございました。昨日、負けて、本当によかったです」
「負けたのは、観察の途中でしょう」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
彼女は短剣を腰のベルトに差した。
「これ、派手に使う武器じゃないですよね」
「飛び続けられるわけじゃない。一回の姿勢制御だけです」
「それがいい。派手なのは、配信映えしてもすぐ飽きる。ねえ、夜久さん。これ、配信で使ってもいいですか」
「どうぞ。ただ、見せすぎないでください。使い方は、見つけた人のものなので」
カナタは少し考えて、にっと笑った。
「じゃあ、一つだけ秘密にします。視聴者の人たちに、自分で探してもらう」
俺は第十層の記録碑に、彼女の名前を刻んだ。
『天野カナタ 第十層・正式攻略』
最後の一画で、鑿が滑った。彫り直す羽目になった。
背後で、パンドラが蓋をかぱかぱ鳴らしている。悔しいのか、拍手なのか分からない。雫が箱の頭を撫でた。
「大丈夫。あなたの罠、すごく良かったよ」
箱は蓋を静かに閉じて、身を縮めた。
核の表示が静かに点滅した。
《十層分の調律記録、回収》
*
その夜、カナタは約束どおり反省会の配信を回した。
『勝った!!』
『チョーク作戦、天才』
『昨日の泣き顔から一日でこれは草』
「泣いてません! 悔しかっただけです!」
頬にチョークの粉をつけたまま、彼女は手順を一つずつ解説していった。三本目の線がずれていた理由。影が教えてくれたこと。最後に短剣を掲げた。
「この迷宮、負けた人が次に勝てるように作ってあるんです。……作った人、見てるかな」
管制室で、雫が湯呑みをそっと置いた。
「見てますよ、って、返信しておきましょうか」
「いや」
画面から目を離さずに答えた。
「見てるのは、バレなくていい」
画面の中で、カナタの指が、次の鍵へ伸びていく。
「もう次の鍵、探してますね」
「配信、終わらないぞ、あれ」
雫が小さく笑った。時計は、日付が変わる直前だった。




