カナタCh、箱に呑まれる
——天野カナタの視点——
「みんなー、はじまるよ、カナタCh!」
カメラに手を振ると、画面の端でコメントが滝みたいに流れた。
『きたー』
『黒神山だ』
『アインくんの礼を見に来た』
『今日の弁当:ラーメン』
「最後の人、画面から目を離して食べて。今日は第六層から、新しくできた回転迷宮に挑戦します。まだ誰も入ってないところ!」
あたしは天野カナタ。十九歳。A級探索者で、登録者三百万人の配信者。派手にやるのは得意だけど、当てずっぽうは嫌いだ。ちゃんと見る。ちゃんと考える。それを喋る。
入場門の前で、受付の夜久さんが公示を読み上げた。
【課題:第六層から第十層を突破し、第十層の宝箱を開ける】
【時間:九十分】
【保護:生命防壁と帰還機構】
「ふむふむ。みんな、『回転』ってどういうことだと思う?」
『壁が動く』
『酔う』
「酔う前に観察します。はい、入るよ」
第六層の入口をまたぐと、後ろで扉が閉まった。目の前は一本の石の廊下で、五十メートルほど先に灯りが見える。
「普通だね」
一歩、二歩。三歩目で立ち止まった。
床の石に、細かい紋様が彫ってある。同心円の線が、等間隔に並んでいる。足元だけじゃない。壁にも、天井にも。しゃがんでカメラを近づけた。
「みんな、これ見て。線の間隔が、ちょっとずつずれてる。ここが十センチ、こっちが十二センチ、壁側は十四センチ」
『同じに見えるけど』
『まじで?』
「奥に行くほど広がってる。たぶん回転の周期の目盛り。三分に一度、九十度回る合図が、この間隔なんだと思う」
正直に言うと、確信はない。推理は口に出すと、誰かが違うところを見てくれるから言う。
『床の隅の灯り、一個だけ色が違う』
目が見開いた。
「それ、基準だ!」
動かない灯りが一つあれば、ほかが回っても位置が分かる。迷わせるだけじゃなく、迷っても立ち直れるように、ここの設計者は造っている。
「このダンジョン、優しい意地悪だね」
三分が経った。腕時計の秒針が真上を指した瞬間、世界が、ぐるりと回った。壁の紋様が、きっかり九十度ぶん流れて止まった。
あたしは基準灯に向かって走り出した。
*
第七層で、一度、完全に迷子になった。
「ちょ、ちょっと待って。さっき通った廊下が、天井にあるんだけど」
カメラを上に向けると、逆さまの廊下が天井に貼りついていた。ついさっき踏んでいた床が、頭の上にぶら下がっている。コメントが笑いで埋まる。
「酔ってない! 基準灯は……あった、あっち!」
走る。足元がぐらりと傾き、壁が床になった。転ぶ寸前、爪先が細い溝に引っかかる。
「待って、この溝、床にも壁にも天井にも入ってる」
指でなぞる。回っても、溝同士はつながっている。手探りで向きが戻ってくる。
もう一つ、気づいたことがあった。壁の灯りは、いつも同じ側から来る。回転が終わると影は必ず同じ向きに伸びる。影が揃っていれば、向きは合っている。逆に言えば、影が揃っていない物があれば、それは。
「……今は、いいや。先に進む」
自分で拾いかけたことを、拾い切らずに口を閉じた。歯車の低い音が右耳に寄ったら、次の回転が近い。それだけ頭に入れて、第八層に入った。
ここは、床の溝がやけに細かい。回るたびに、溝の向きが少しずつ違う。右耳に歯車の音が寄ったので、壁に背中をつけて待った。三、二、一。床が傾く。傾く瞬間に膝を抜いて、体を溝の向きに預けた。転ばなかった。
『今の、きれい』
『カナタ、上手くなってない?』
『いや、さっきまでの顔が余裕ない顔だった』
「うるさい! ……でも、ちょっと気持ちよかった」
この回廊は、焦って足を速めた人から迷子にする。待てる人には、ちゃんと道を返してくる。そう気づいたとき、設計者の顔が、少しだけ見えた気がした。
第九層の奥に、三つ並んだ古い木の宝箱があった。
【第九層の宝箱:開けるか否かは任意。開けて失敗した場合は帰還し、二十四時間の再挑戦待機。】
開けなければ先へ進める。開ければ、リスクと引き換えに何かがある。
「観察してから開けるよ」
三つの箱の周りを、ぐるりと歩いた。
一つ目は、蓋の隅に埃がうっすら乗っている。二つ目は、鍵の周りだけが新しい鉄の色。三つ目は。
「蝶番にだけ、油が差してある」
『動かす用ってこと?』
『三つ目がミミックだ』
「うん。あたしもそう思う」
思う、と言いながら、視界の端に引っかかっているものがあった。何かを見落としている。一周目で見て、二周目でも見て、それでも輪郭が出てこない。
*
「三番目はミミックでしょ、確定」
カメラに向かって宣言した。
『開けるの?』
『失敗したら帰還だよ』
「開けるよ。だって、ここまで読んで、外れてたら悔しいじゃん」
一つ目の蓋は軽くて、中は空だった。二つ目は鍵がかかっていて、近くに落ちていた小さな鍵で開けると、魔石が一つ入っていた。
「二つ目は魔石ゲット。うれしい」
三つ目の前に立った。油の差した蝶番。これがミミックだ。それでも念のため、もう一度だけ箱の周りを回る。
右から来る灯りは、他の二つの影を同じ向きに落としている。三つ目の影だけ、ほんの少し、斜めに見えた。
——気のせいかな。
さっき拾いかけて閉じた考えが、喉元まで浮かんで、沈んだ。
手を伸ばした。
蓋が、かぱりと開いた。
中は暗かった。その暗闇の中で、金色の目が二つ、ぱちりと開く。
「やばい」
革の帯が飛び出して、腰に巻きついた。足が浮く。体ごと箱の中へ引きずり込まれる。
『食われたww』
『ミミックだーーー』
「ちょっと待って、まだ、まだ——」
視界が、暗転した。
*
気がつくと、入口の帰還座に座っていた。
隣に、夜久さんがいた。心配そうに、顔を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。……あー、負けたー!」
座席の上で両手で顔を覆った。コメントが止まらない。
『ミミックに食われる配信者』
『明日またやるんだろ?』
「やる! 絶対やる!」
顔を上げて、カメラに人差し指を突き出した。
「二十四時間後に、同じ版の同じ場所に戻ってきます。今度は、絶対に見破る!」
悔しいのに、楽しかった。ふと、夜久さんと目が合った。彼は口の端を少しだけ上げた。
「見抜ける印は、一つ、ありましたよ」
「え、あたし、見逃してた?」
「はい。でも、言いません」
「ずるい!」
「公平に、です」
座席の背にもたれて天井を見上げた。喉元まで来て沈んだ、あの斜めの影を思い出した。悔しい。でも、言われなくてよかった、とも思う。
スマホのメモ帳を開いて、斜めの線を一本引いた。影の絵は、今夜のうちに描いておく。
「描いたら寝てくださいね」
「寝ます」
寝ない。




