三分ごとに部屋が回り、箱は菓子を守る
出口が、消えた。
第六層の回転回廊は、三分ごとに全体が九十度回る。壁も床も天井も、石の継ぎ目の一本まで、ごろりと向きを変える。三分前に通ってきた廊下が、次の瞬間には右の壁になるわけだ。
設計したのは俺だ。
動作試験の一周目、俺は設計者の顔で胸を張って入った。壁に刻んだ目印の彫刻を数え、入口からの歩数を覚え、これなら客は三周で抜けると踏んでいた。二周目の途中で位置が怪しくなった。三周目には右も左も同じ石の色で、目印の彫刻は、回ったどこかの面に隠れて見当たらない。入口は、さっき天井になった。
「創真さん、聞こえますか」
壁の中のスピーカーから、雫の声がした。
「聞こえる。出口が分からない」
「だと思いました。あと四十秒でまた回ります。左の壁に手をついてください」
「どっちが左だ」
「今、創真さんが向いてる方の左です」
「それが分からないと言ってる」
沈黙があった。口を押さえて笑っている息の漏れ方だった。
左のつもりの壁に手をついた。石は冷たくて、じっとしていた。そのまま四十秒、動かなかった。動かないでいる石のほうが、よほど信用できると思った瞬間に、床がぐらりと傾いた。
世界が九十度、倒れた。
天井に敷いたはずの石が足の下に来る。床だった面が横の壁に変わる。膝が笑い、体は右へ流れ、肩から壁に落ちかけた。
その肩を、黒鉄の脛が受け止めた。
アインだった。巨体が片手で壁を押さえ、もう片手で俺の襟首をつまんで、猫でも持ち上げるように吊っている。青い目は面白がっているようにも、呆れているようにも見えた。
「……助かった」
アインは俺をぶら下げたまま、迷いなく歩き出した。三歩目で左。五歩目で屈み、七歩目で壁の一部がすっと開く。
出口だった。
「なんで分かる」
答えはなく、アインは自分の足元を指さした。床の隅に、小さな青い光点がある。回転しても向きを変えない、固定の目印。入ったときに一度は目に入ったはずなのに、彫刻ばかり見ていて、頭に残っていなかった。
「基準灯ですよ」
スピーカーから雫の声。
「回っても動かない光を一つ残さないと、この回廊、誰も出られません。創真さんの最短経路の自慢は、あとで聞きます」
「俺は迷子になるために設計したんじゃない」
「ええ。迷わせるために設計したんです。迷子は、その手前の失敗です」
反論できなかった。アインが俺を下ろして、自分も床に腰を落とした。二人で並んで、回転する回廊を眺めた。三分後、回廊は静かに、また回った。さっきまで出口だった壁が天井に消えていく。
「基準灯を、もっと目立つ色にする」
アインが頷いた。
「それから、全十層の調律は、次の客が来るまでに終わらせる」
*
祖父の作業場の奥に、古い樫の木箱があった。
鉄の帯を巻いた、膝丈の道具箱だ。蝶番はとうに錆びて、蓋の木目には、子供の俺が爪で引いた線が残っている。この箱に座って祖父の仕事を眺めていた。何が入っているのか、知らなかった。開けようとすると、祖父が「それは開かん」と言った。
相続してから開けてみたら、空だった。
「この箱を、二体目にする」
核の前でそう言うと、雫が小首を傾げた。
「守護者、ですか。木の箱が」
「ミミックだ。箱に擬態して、客を驚かせる役」
「それなら、お願いがあります」
雫はリュックから赤い缶を取り出し、胸の前に抱えた。
「わたしのお菓子を、一番に守ってくれる人が欲しいです」
「それも仕事のうちだ」
「やった」
承認を押す。箱が、かたん、と揺れた。
鉄の帯が軋み、蓋が少しだけ持ち上がる。内側は暗く、底が見えない。その暗がりの中で、金色の目玉が二つ、ぱちりと開いた。
「……生きてるな」
蓋が閉じた。閉じたと思ったら、わずかに隙間を作ってまた覗く。覗いては閉じ、閉じては覗く。
「かわいい」
雫が低く呟いた。箱の下から木の脚が二本ひょこりと出て、ぎこちなく床を叩き、雫の前までとことこ歩いていった。
「パンドラ、って呼びましょう」
「名前、気が早くないか」
「開けられない箱ですから。これしかないです」
*
数日後、パンドラは約束どおり、雫の赤い缶の上に鎮座していた。
誰かが近づくと、蓋をかぱりと開けて缶を丸ごと呑み込む。誰もいなくなると、ぽんと吐き出す。一日に何十回でも飽きずにやる。
「優秀ですね」
「優秀すぎる」
問題は翌日に起きた。休憩に缶の菓子を取ろうとした源蔵の袖が、箱の中に三分ほど引きずり込まれたのだ。痛くはない。ただ、袖が戻ってきたとき、源蔵の顔から表情がなくなっていた。
「俺は客か」
「いえ、作業員です」
「客と作業員の区別もつかんのか、この箱は」
睨まれると、パンドラは蓋をそっと閉じ、箱の奥へ縮こまった。
もっと困ったのは、その二日後だった。回転回廊の出口を示す木札が、一枚、見当たらない。基準灯の隣に掛けておいたはずの札だ。俺は一日探した。壁を叩き、継ぎ目を覗き、夜になって、箱の縁に木の端が覗いているのに気づいた。ひっくり返して振ると、札がからんと出てきた。
ほかにも赤い缶の蓋と、釘が二本。
札がなければ、客は迷う。迷ったまま戻れない客が出るかもしれない。
「創真さん」
雫が穏やかに言った。
「怒る前に、教えてあげましょう。隠していいものと、いけないものを」
机の上に試験用の模型を作った。小さな廊下に、小さなパンドラ。隠してよいのは、宝箱の中身、罠の位置、戻らなくても困らない物。いけないのは、出口の札、帰還座への道、客が戻るための手掛かり。模型の中で、客役の人形に札を探させ、パンドラが隠すたびに、箱を撫でて、区別させた。
一日目は全部隠した。二日目は、半分隠した。
三日目、パンドラは出口の札を自分で吐き出した。吐き出して、札を持った人形の足元に、そっと置いた。札が落ちたのは、基準灯の隣。模型に引いた線の上だった。
そのあと、蓋を少しだけ開けて、人形を誘った。
「いたずらは、してもいいんですね」
「帰り道を隠さなければ、な」
遠くから見ていたアインが、礼を一つして、すっと身を引いた。
赤い缶は、その日もパンドラの腹の中にあった。ただし札は、缶より外側の、よく見える壁に掛かっている。雫が缶を取り戻そうと手を伸ばすと、箱の蓋がまた、ぱくりと閉じた。




