四人の鍋と、回転する図面
響子は、一杯で帰る。
囲炉裏の端に座った橘響子を見て、俺はそう読んだ。黒い缶コーヒーを膝の横に置き、箸は鍋の縁を撫でただけ。認定書を渡しに来た監査官が、祝いの席に長居する理由がない。
土鍋は囲炉裏の中央にあった。白菜と豆腐と鶏肉、源蔵が山で採ってきたきのこ。味付けは雫の担当で、俺は鍋の底の深さが不揃いなことに気づいて、箸で空中に線を引きはじめた。
「創真さん、ここは食卓です。席次を図面にしないでください」
「人数が多いと、箸の流れが混線する」
「食べてください」
二回目の注意で、箸は大人しくなった。
響子は一杯目を食べ終えた。俺は腕時計を見るふりをして待った。帰る。立つ。缶を持つ。
響子は、おたまを取った。
二杯目は豆腐から。三杯目になると、箸が止まらなくなった。読みが外れた悔しさより、湯気の向こうでほぐれていく横顔のほうが、見ていて落ち着いた。
「別に、居心地が良いわけではありません」
「何も言ってません」
「あなたの顔が、言っていました」
「してません」
源蔵が鼻を鳴らした。響子の椀を一瞥して、何も言わずに、きのこだけをそっと響子の側へ寄せた。
「うまいか」
「おいしいです。ただし、味が濃いです」
「濃いのが嫌なら、自分で作れ」
「作れません」
「じゃあ、黙って食え」
「……はい」
あの橘響子が素直に頷いた。雫が口を押さえて肩を震わせている。
囲炉裏の隅では、黒鉄の騎士が正座していた。梁に兜をぶつけないよう、大きな図体を精いっぱい畳んでいる。アインは盆に湯呑みを四つ載せ、そろそろと運んでくる。源蔵の前、響子の前、雫の前、俺の前。最後の一つを置くとき、盆が傾いた。茶が縁で踊り、こぼれる寸前で止まった。
アインは空の盆を抱えて、深く頭を下げた。
*
鍋が空になるころ、俺は大盾を畳に立てて、中央の缶の蓋を磨いていた。
聖堂の三分間で付いた細い傷が、凹みの縁に増えている。布を当てるたび、金属が小さく擦れた。傷は拭いても消えない。消すつもりもなかった。
雫が隣に来て、正座した。膝の上に、折り畳んだ紙がある。さっきから彼女がそれを触るたびに、紙の角が揃ったり崩れたりしていた。
「あの、お話があります」
「どうした」
「一週間のお試し契約は、とうに終わっています」
忘れていた。気がつけば一か月以上、続いている。
来るなら賃上げか、肩書だろう。そう踏んで、断りの文面まで頭に並べた。雫は正当な要求をする人だ。先に謝って、必ず言う。
雫は紙を開いた。丁寧な字で、箇条書きが三つ。
「雇用ではなく、共同の仕事として続けさせてください。設計の最終判断は創真さんでいいです。でも、わたしの指摘は、採用の可否にかかわらず記録に残してほしいです。それと、休みの日は、わたしが決めます」
最後の一行だけ、字が少し震えていた。
給料の話は、どこにもなかった。
「休みを、自分で決める」
「はい。前の隊では、決められませんでしたから」
響子と源蔵が素知らぬ顔で鍋の残りを突いている。聞いていないふりが、二人とも下手だった。
一項目ずつ、頭の中で検討した。最終判断は俺。指摘の記録は残す。休みは雫が決める。どこにも、飲めない条件がなかった。むしろ二項目目は、俺のほうから頼みたい内容だった。
「全部、いい。署名する」
「え、契約書の形にするんですか」
「しないつもりだったのか」
「いえ、あの」
雫は折った紙で顔の半分を隠した。
「断られたらどうしようって、昨日の夜、三時間悩んだんです」
「寝ろ」
「はい」
紙を受け取るとき、指が触れた。雫の指は冷たかった。
アインが俺の手から盾を取り上げ、胸に抱えた。それから、雫と俺のあいだに、正座し直した。
そこに座られると、間隔が広がる。
「……気を利かせたのか、邪魔したのか、どっちだ」
アインは答えず、礼を一つして湯呑みを持ち上げた。
響子が缶コーヒーを開けた。プシュ、と鳴る。
「全員、いい仕事をしています。今日は、そう言っておきます。明日からは、また監査です」
*
屋根裏の机で帳面を閉じたのは、日付が変わる少し前だった。
総生成、三十八万。建築口座への流入、十三万三千。支出、八万三千。残りは五万。
「六週間、でしたね」
雫が横から帳面を覗いた。屋根裏は狭くて、並ぶと膝がぶつかる。窓から坑道入口の灯りが小さく見える。夜番のアインが立っているはずの場所だ。
新しい帳面を開いた。真っさらな一ページ目に、まだ何も書けない。
「次は、頭を使う試練を造りたい」
「今の聖堂は、見て、考えて、受ける試練ですよね」
「次は、考えて、迷って、見つける試練にしたい。迷うこと自体が、客の楽しみになるやつ」
雫は黙って方眼紙を取り出し、壁に立てかけた。
「横には、もう迷わせました。風鳴り回廊です」
「聖堂は一本道だしな」
「橋も一本です」
彼女は鉛筆を持ったまま、方眼紙の向きを九十度回した。
紙の上の横線が、縦になった。階層が縦軸に立ち、回廊が横軸に並ぶ。二つの座標が、ひとつの点で交わる。
「創真さん」
「ん」
「次は、縦にも迷ってもらいましょう」
背筋が粟立った。降りる階段が昇りに変わる迷宮。曲がった廊下が天井につながり、さっき歩いた床が頭の上にある迷宮。
鉛筆を取った。雫の線と俺の線が、同じ紙の上で交差する。
下の坑道で、鐘が一度、鳴った。
雫が顔を上げた。
「今の、アインさんの夜番の合図です」
「分かってる」
「じゃあ、続きを描いてください。縦の線は、創真さんからです」
渡された鉛筆の芯は、三回削り直したあとみたいに短かった。
第一部「ブリキの騎士と、出口のない図面」、これにて完結です。次回から第二部「三分ごとに回る迷宮」が始まります。
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