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承認印を拒んでクビになった迷宮設計士、祖父の廃坑の一部屋でダンジョンマスターになる ~客が勝つほど迷宮が育つので、安全第一で最高の攻略を待っています~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 ブリキの騎士と、出口のない図面

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全員、生きて帰ってきた

帰還座の十二の椅子は、全部埋まっていた。


清潔な白い座面に、鎧を着た男女が座っている。誰も怪我をしていない。顔色が悪いのは、重力と恐怖の後遺症だけだった。医療スタッフが一人ずつ呼吸と脈を確かめ、装備を返却台へ運んでいく。


橘響子が、判定席から降りてきた。


「全員の確認が終わりました。外傷なし、意識あり、装備破損は三件、いずれも軽微。帰還座の運用、問題ありません」


「問題ありません、だと?」


氷室が声を荒らげた。


「俺の部隊が、全員倒されたんだぞ。失格だ。この試験は失格だ。設備の動作が不当で——」


「氷室さん」


響子が遮った。


「配信の記録と、判定員三名の独立記録が残っています。あなたの部隊は、公示された規則のなかで戦い、規則のなかで送還されました。不当な動作は確認されていません」


「違う、あの杭は——」


「あなたが持ち込んだ装置の件は、別の机で扱います。ここは、試験の場です」


響子の声は、乾いていた。氷室の顔から、色が抜けていく。


帰還座から、ひとり立ち上がった。桐生だった。装備はまだ外していない。短い髪の下で、片目の古傷が白く光っている。


「部長」


桐生は静かに言った。


「私は、この試練は公正だったと証言します」


「桐生、お前——」


「あれは、勝てない試験ではありませんでした。私たちが、勝てなかっただけです」


氷室が口を開いた。何か言おうとした。けれど、言葉は出なかった。医療スタッフの一人が、聞こえないふりをして、氷室の足元に毛布を置いた。


桐生は、氷室から視線を外して、観客席の俺を見た。


「夜久創真さん。あなたの試練を、また受けたい。個人で、改めて予約を入れさせてください」


「お待ちしています。予約枠は、橘さんに通してもらいます」


「感謝します」


彼女は一礼して、帰還座を出た。ほかの部下たちも、一人ずつ立ち上がり、順番に出口へ向かう。氷室を振り返る者は、ほとんどいなかった。


*


聖堂の人気が引いたあと、俺はアインの前に立っていた。


大盾の中央に、細い亀裂が走っている。祖父の缶の蓋だ。割れてはいないが、あと一撃で割れていた。


アインは立ったまま、じっと俺を見ていた。


「痛くなかったか」


馬鹿な質問だった。鉄の騎士に痛みがあるわけがない。それでも、聞かずにいられなかった。


アインは、ゆっくり頷いた。それから、盾の亀裂を、自分の指で撫でた。


「直すよ。源蔵さんと、また磨く」


アインは盾を、俺の前に差し出した。受け取ると、思ったより軽かった。亀裂の縁が、親指に引っかかった。


「誰も死なせなかった」


声が掠れた。


「それで、ちゃんと勝った」


背後で、雫の足音がした。


「創真さん、帰還座のログを見ました。十二人とも、光に包まれてから着座まで、公示した二秒以内です。いちばん遅かった桐生さんで、一・八秒。……あ、すみません、順番が逆でした。橘さんが、お話があるそうです。あと、お腹が空きました。ご飯、食べませんか」


振り向くと、雫が紙袋を抱えて立っていた。おにぎりだった。あの夜と同じ、鮭と梅干し。


「勝ったあとに食べるのは、これだけ、と決めてあります」


「いつ決めた」


「今です」


「謝らなくていい」


「まだ謝ってません」


おにぎりを受け取った。まだ温かかった。梅干しの方を、雫が先に取った。


*


査定の翌朝、黒神山の坑道前の空き地に、黒い車が二台、無遠慮に突っ込んできた。


先頭の車から降りてきたのは氷室だった。昨日と同じスーツなのに、襟が一箇所よれている。後ろから、書類鞄の男が二人。弁護士のバッジが胸で光っていた。


「夜久創真。話がある」


「受付は九時からです」


答えたのは、箒を持った源蔵だった。


氷室は見向きもせず、俺の顔だけを見て言った。


「昨日の杭は、部下が独断で持ち込んだ。俺は知らなかった。そこをはっきりさせておけ。報告書にも、配信にも、そう残せ」


雫が、息を止めたのが背中で分かった。


笑ってしまいそうになった。この人は本当に、昨日の自分の声を忘れている。「出せ」「出せ!」と二度叫んだ声は、聖堂の観客席と三台の中継機に残っているのに。


「氷室さん」


「何だ」


「昨日、あの杭を壁に刺したのは、誰でしたか」


「……」


「部下が独断でやったことなら、あなたが自分の手で突き立てる必要は、なかったと思います」


氷室の頬が、一度だけひくついた。弁護士の一人が咳払いをして、鞄から書類を出す。


「夜久さん、これは任意のお願いですが、昨日の映像の一部について、証拠としての利用の差し止めを——」


「させません」


砂利を踏む足音が、後ろから揃って近づいた。


響子だった。いつもの黒い手帳を片手に、反対の手に缶コーヒー。その後ろに、制服の職員が二人。さらにその後ろに、短髪の女性が一人、背筋を伸ばして歩いてくる。


桐生玲だった。


「橘さん、これは、民事の——」


「迷宮庁特別監査室として、お伝えします。昨日の持ち込み装置は、資材番号TNR-0417-B。二年前の第二訓練場補強材の納入資料と同じ系列です。購買の承認欄には、あなたの印があります」


響子は手帳をめくった。紙の擦れる音が、驚くほどよく通った。


「承認日は事故の十二日前。数量は百二十本。ところが納品台帳には、四十本しか載っていません。残りの八十本は、台帳の外にありました」


氷室の顔が、白くなった。


「なぜ、それを」


「あなたの部隊の方が、昨日のうちに提出してくれました」


桐生が、一歩前に出た。


「部長」


呼びかけは、驚くほど穏やかだった。


「あの杭は、部長の指示で、私の班の者が受け取りました。私は反対しました。反対した記録が、私の端末に残っています。昨夜、全て橘さんに預けました」


「お前——」


「申し訳ありません。ですが、部下を巻き込んで罪を被せる方を、私は選べません」


氷室の唇が、何か言おうとして、何度も形を変えた。出てきたのは、言葉ではなく、唾を飲む音だった。


弁護士の二人が、そっと半歩下がった。


その動きを、氷室は見ていた。見て、気づいた。自分の隣に立つ者が、いなくなっていくことに。


「聞き取りに、ご同行いただきます」


響子が言った。


「任意です。ただし、拒否された場合は、強制手続に入ります。選んでください」


氷室は黙っていた。長い間、黙っていた。それから、肩から力が抜けた。


誰にも掴まれないまま、自分で車のほうへ歩いていった。


昔、会議室で見上げていた背中は、もっと大きかった気がする。


車が坑道前を出ていくと、源蔵が箒を持ち直し、ざっざっと地面を掃き始めた。


「掃除の続きだ」


「はい」


雫が、俺の隣に並んで言った。


「創真さん。いま、すごく静かに、すっとしました」


「俺もだ」


「叫びたいです」


「叫んでいい」


雫は、ほんの少し迷ってから、坑道の闇に向かって小さく叫んだ。


「やった!」


声は奥まで届いて、遠くで反響して、返ってきた。


アインが、入口の暗がりから現れ、俺たちに礼をした。鴨居の下で、頭を打たないように、ちゃんと屈んで。


*


昼過ぎ、響子は受付小屋で、茶封筒を俺の机に置いた。朝の騒ぎの名残で、小屋の床には砂利が落ちていた。源蔵が、それを無言で掃き出した。


「これを、お返しします」


俺の字だった。二年前の、事故報告書。


表紙には、見覚えのある署名と日付。紙の端が、少し黄色くなっている。折り目の位置まで、俺が書いた日と同じだった。


「天嶺の書庫の、別の棚の奥から出ました。捨てられてはいませんでした。ただ、読まれた形跡もありません」


封を切った。


排圧溝の閉塞、退避路の不足、荷重の逃げ道が確保されていない箇所の写真。何度も繰り返し書いた、「この図面は危険です」の一文。二年前の自分が、必死に文字を並べている。


響子は何も言わず、ブラックの缶コーヒーを、俺の机の端にそっと置いた。


「飲んでください。冷めていても」


「ありがとうございます」


「礼は、要りません」


そう言って、彼女は戸口で立ち止まった。


「夜久さん。あなたの報告書は、正しかった」


背中を向けたまま、たった一言。それだけだった。


扉が閉まる音が、いつもよりゆっくりに聞こえた。


雫が、そっとお茶を足した。何も言わなかった。


缶を開けた。冷めたコーヒーは、苦かった。


「……砂糖、買っておきます」


雫が小声で言った。ブラックしか置いていかない人に、効くかどうかは分からない。


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