全員、生きて帰ってきた
帰還座の十二の椅子は、全部埋まっていた。
清潔な白い座面に、鎧を着た男女が座っている。誰も怪我をしていない。顔色が悪いのは、重力と恐怖の後遺症だけだった。医療スタッフが一人ずつ呼吸と脈を確かめ、装備を返却台へ運んでいく。
橘響子が、判定席から降りてきた。
「全員の確認が終わりました。外傷なし、意識あり、装備破損は三件、いずれも軽微。帰還座の運用、問題ありません」
「問題ありません、だと?」
氷室が声を荒らげた。
「俺の部隊が、全員倒されたんだぞ。失格だ。この試験は失格だ。設備の動作が不当で——」
「氷室さん」
響子が遮った。
「配信の記録と、判定員三名の独立記録が残っています。あなたの部隊は、公示された規則のなかで戦い、規則のなかで送還されました。不当な動作は確認されていません」
「違う、あの杭は——」
「あなたが持ち込んだ装置の件は、別の机で扱います。ここは、試験の場です」
響子の声は、乾いていた。氷室の顔から、色が抜けていく。
帰還座から、ひとり立ち上がった。桐生だった。装備はまだ外していない。短い髪の下で、片目の古傷が白く光っている。
「部長」
桐生は静かに言った。
「私は、この試練は公正だったと証言します」
「桐生、お前——」
「あれは、勝てない試験ではありませんでした。私たちが、勝てなかっただけです」
氷室が口を開いた。何か言おうとした。けれど、言葉は出なかった。医療スタッフの一人が、聞こえないふりをして、氷室の足元に毛布を置いた。
桐生は、氷室から視線を外して、観客席の俺を見た。
「夜久創真さん。あなたの試練を、また受けたい。個人で、改めて予約を入れさせてください」
「お待ちしています。予約枠は、橘さんに通してもらいます」
「感謝します」
彼女は一礼して、帰還座を出た。ほかの部下たちも、一人ずつ立ち上がり、順番に出口へ向かう。氷室を振り返る者は、ほとんどいなかった。
*
聖堂の人気が引いたあと、俺はアインの前に立っていた。
大盾の中央に、細い亀裂が走っている。祖父の缶の蓋だ。割れてはいないが、あと一撃で割れていた。
アインは立ったまま、じっと俺を見ていた。
「痛くなかったか」
馬鹿な質問だった。鉄の騎士に痛みがあるわけがない。それでも、聞かずにいられなかった。
アインは、ゆっくり頷いた。それから、盾の亀裂を、自分の指で撫でた。
「直すよ。源蔵さんと、また磨く」
アインは盾を、俺の前に差し出した。受け取ると、思ったより軽かった。亀裂の縁が、親指に引っかかった。
「誰も死なせなかった」
声が掠れた。
「それで、ちゃんと勝った」
背後で、雫の足音がした。
「創真さん、帰還座のログを見ました。十二人とも、光に包まれてから着座まで、公示した二秒以内です。いちばん遅かった桐生さんで、一・八秒。……あ、すみません、順番が逆でした。橘さんが、お話があるそうです。あと、お腹が空きました。ご飯、食べませんか」
振り向くと、雫が紙袋を抱えて立っていた。おにぎりだった。あの夜と同じ、鮭と梅干し。
「勝ったあとに食べるのは、これだけ、と決めてあります」
「いつ決めた」
「今です」
「謝らなくていい」
「まだ謝ってません」
おにぎりを受け取った。まだ温かかった。梅干しの方を、雫が先に取った。
*
査定の翌朝、黒神山の坑道前の空き地に、黒い車が二台、無遠慮に突っ込んできた。
先頭の車から降りてきたのは氷室だった。昨日と同じスーツなのに、襟が一箇所よれている。後ろから、書類鞄の男が二人。弁護士のバッジが胸で光っていた。
「夜久創真。話がある」
「受付は九時からです」
答えたのは、箒を持った源蔵だった。
氷室は見向きもせず、俺の顔だけを見て言った。
「昨日の杭は、部下が独断で持ち込んだ。俺は知らなかった。そこをはっきりさせておけ。報告書にも、配信にも、そう残せ」
雫が、息を止めたのが背中で分かった。
笑ってしまいそうになった。この人は本当に、昨日の自分の声を忘れている。「出せ」「出せ!」と二度叫んだ声は、聖堂の観客席と三台の中継機に残っているのに。
「氷室さん」
「何だ」
「昨日、あの杭を壁に刺したのは、誰でしたか」
「……」
「部下が独断でやったことなら、あなたが自分の手で突き立てる必要は、なかったと思います」
氷室の頬が、一度だけひくついた。弁護士の一人が咳払いをして、鞄から書類を出す。
「夜久さん、これは任意のお願いですが、昨日の映像の一部について、証拠としての利用の差し止めを——」
「させません」
砂利を踏む足音が、後ろから揃って近づいた。
響子だった。いつもの黒い手帳を片手に、反対の手に缶コーヒー。その後ろに、制服の職員が二人。さらにその後ろに、短髪の女性が一人、背筋を伸ばして歩いてくる。
桐生玲だった。
「橘さん、これは、民事の——」
「迷宮庁特別監査室として、お伝えします。昨日の持ち込み装置は、資材番号TNR-0417-B。二年前の第二訓練場補強材の納入資料と同じ系列です。購買の承認欄には、あなたの印があります」
響子は手帳をめくった。紙の擦れる音が、驚くほどよく通った。
「承認日は事故の十二日前。数量は百二十本。ところが納品台帳には、四十本しか載っていません。残りの八十本は、台帳の外にありました」
氷室の顔が、白くなった。
「なぜ、それを」
「あなたの部隊の方が、昨日のうちに提出してくれました」
桐生が、一歩前に出た。
「部長」
呼びかけは、驚くほど穏やかだった。
「あの杭は、部長の指示で、私の班の者が受け取りました。私は反対しました。反対した記録が、私の端末に残っています。昨夜、全て橘さんに預けました」
「お前——」
「申し訳ありません。ですが、部下を巻き込んで罪を被せる方を、私は選べません」
氷室の唇が、何か言おうとして、何度も形を変えた。出てきたのは、言葉ではなく、唾を飲む音だった。
弁護士の二人が、そっと半歩下がった。
その動きを、氷室は見ていた。見て、気づいた。自分の隣に立つ者が、いなくなっていくことに。
「聞き取りに、ご同行いただきます」
響子が言った。
「任意です。ただし、拒否された場合は、強制手続に入ります。選んでください」
氷室は黙っていた。長い間、黙っていた。それから、肩から力が抜けた。
誰にも掴まれないまま、自分で車のほうへ歩いていった。
昔、会議室で見上げていた背中は、もっと大きかった気がする。
車が坑道前を出ていくと、源蔵が箒を持ち直し、ざっざっと地面を掃き始めた。
「掃除の続きだ」
「はい」
雫が、俺の隣に並んで言った。
「創真さん。いま、すごく静かに、すっとしました」
「俺もだ」
「叫びたいです」
「叫んでいい」
雫は、ほんの少し迷ってから、坑道の闇に向かって小さく叫んだ。
「やった!」
声は奥まで届いて、遠くで反響して、返ってきた。
アインが、入口の暗がりから現れ、俺たちに礼をした。鴨居の下で、頭を打たないように、ちゃんと屈んで。
*
昼過ぎ、響子は受付小屋で、茶封筒を俺の机に置いた。朝の騒ぎの名残で、小屋の床には砂利が落ちていた。源蔵が、それを無言で掃き出した。
「これを、お返しします」
俺の字だった。二年前の、事故報告書。
表紙には、見覚えのある署名と日付。紙の端が、少し黄色くなっている。折り目の位置まで、俺が書いた日と同じだった。
「天嶺の書庫の、別の棚の奥から出ました。捨てられてはいませんでした。ただ、読まれた形跡もありません」
封を切った。
排圧溝の閉塞、退避路の不足、荷重の逃げ道が確保されていない箇所の写真。何度も繰り返し書いた、「この図面は危険です」の一文。二年前の自分が、必死に文字を並べている。
響子は何も言わず、ブラックの缶コーヒーを、俺の机の端にそっと置いた。
「飲んでください。冷めていても」
「ありがとうございます」
「礼は、要りません」
そう言って、彼女は戸口で立ち止まった。
「夜久さん。あなたの報告書は、正しかった」
背中を向けたまま、たった一言。それだけだった。
扉が閉まる音が、いつもよりゆっくりに聞こえた。
雫が、そっとお茶を足した。何も言わなかった。
缶を開けた。冷めたコーヒーは、苦かった。
「……砂糖、買っておきます」
雫が小声で言った。ブラックしか置いていかない人に、効くかどうかは分からない。




