三分間の完全送還
——桐生玲の視点——
鞘から剣が抜ける音が、聖堂に思ったより大きく響いた。
抜いた瞬間から、彼女には分かっていた。これは勝てない試合だと。
分かっていて、剣を抜いた。副隊長とは、そういう仕事だ。隊長が間違えたときに、一番前に立つ役。氷室という上官を選んだのは自分ではない。だが、彼の下に付いてから七年間、見栄と責任転嫁と、取り繕いの残業を見てきた。それでも隊を辞めなかったのは、部下が十一人いたからだ。
床を蹴る。一・八倍の重力のなかでの踏み込みは、膝に毒だ。それでも、最初の二歩で距離を詰められた。
線は読んでいた。さっき、盾に五人で打ち込んだとき、位置を数センチずらして反動を逃がした。足の裏が覚えている。白く灯る筋の幅、立ち上がる前の微かな熱。それを踏まずに斬り込めば、床は味方にならずとも敵にはならない。
大剣が来る。
重くはなかった。速くもなかった。ただ、桐生の剣が届く場所を、全部先に塞いでいる。左を斬ろうとすれば、剣の根元がそこにある。右へ回れば、半歩ずれた足がそこを踏んでいる。気づけば自分の足が、聖堂の線の上へ追い込まれていた。
読まれているのではない、と彼女は思った。
造られているのだ。この空間そのものが、この騎士のために。
桐生は線を踏み外した。右足の下で、床が白く光る。
反動が、来た。
足首から膝へ、膝から腰へ、骨を伝って重い衝撃が抜けた。体が横へ流れる。咄嗟に剣で床を突き、倒れるのを防ぐ。肩で息をしながら顔を上げると、騎士の兜が、静かにこちらを見ていた。
追撃は、なかった。
構え直す時間を、与えられている。
屈辱ではなかった。もっと、悪い。礼だった。
「部長」
桐生は後ろを振り向き、氷室の姿を探した。
「班を、組み直します。残り八名で、左右から同時に——」
「全員でかかれ!」
氷室が叫んだ。壁際から、聖堂の中央まで一歩踏み出している。
「班を戻せ。一斉に押し潰せ! 俺が見ている、全員で行け! 何をもたついている!」
「部長、分散を崩せば、反動の線に」
「命令だ!」
最悪のタイミングだった。いま、八人は左右に開いて、ようやく線を避けて立っていた。それを一か所へ寄せ集めれば、足場の選択肢は一つになる。桐生は拳を握りしめた。
命令に背けば、部下が責任を負わされる。従えば、部下が送還される。どちらを選んでも、部下は傷つく。それなら、傷が浅いほうだ。桐生は目を閉じて、一瞬だけ息を止めた。
「全員、中央へ。一斉に、仕掛けます」
八人が、輪になって走った。
その動きは、アインの青い目に、すべて映っていた。
*
最初の一人は、七秒で送還された。
走り込んだ足が、一・八倍の重力の円の縁で沈み、引きずられ、騎士の大剣の腹に額を軽く押された。それだけで、光に包まれて消えた。
二人目は、前の一人を避けようとして線を踏んだ。反動で背中から床へ落ち、起き上がる間もなく送還。
三人目は、冷静だった。足場を捨てて跳んだ。空中で一・八倍の重みが背中にのしかかるまでの短い時間に、剣を振り下ろす。アインは、止めに来なかった。半歩下がって、わざと間合いを空けた。着地した三人目は、そこが線の真上だと知った。
床が返した。
四人目、五人目は、同時だった。二人の剣は互いの射線で絡み合い、どちらも振り抜けなかった。アインは、絡んだ刃を一本の大剣で巻き取り、床へ縫いつけた。二人が剣を放した瞬間に、送還が始まった。
六人目。七人目。
桐生は、自分の足がもう動かなくなっていることに気づいた。
重力のせいではない。恐怖のせいでもない。頭が、理解を拒んでいた。ここまで鮮やかに、ここまで丁寧に、一人も傷つけずに、七人がほどかれていく光景を、現実として処理できなかったのだ。
氷室の叫びが聞こえた。
「何をしている! 立て! 立てと言っている!」
氷室自身は、床の円のはるか外にいた。桐生は、振り向かなかった。
最後の一人に、なった。
聖堂の中央に、彼女だけが立っていた。アインは盾を取り上げ、大剣を下げ、ゆっくり向き直る。割れかけた盾の亀裂から、細い光が漏れていた。それでも、騎士の立ち姿は一ミリも崩れていなかった。
桐生は笑った。笑うしかなかった。
「あなたの主人は、本当にいい設計をする」
アインが、頭を下げた。そして、盾の縁で、桐生の剣の腹を、そっと叩いた。
剣が手を離れた。ゆっくり、床に落ちた。
その音を、桐生はいつまでも覚えていることになる。カラン、と軽く、悲しいほど澄んだ音だった。
光が、彼女を包んだ。
視界の端で、観客席の少年が立ち上がるのが見えた。拍手が、聞こえた。誰が最初に始めたのか分からない。
最後に見たのは、騎士の礼だった。背筋を伸ばした、一分の隙もない礼だった。返礼の仕方を、体が先に思い出していた。光に包まれながら、彼女はほんの少しだけ、顎を引いた。
——三分十二秒。
*
観客席で、俺は握っていた手をそっと離した。
雫の指が、赤くなっている。
「痛かっただろ。ごめん」
「いえ。あの、創真さん」
雫は顔を上げた。目が、潤んでいた。
「三分十二秒です」
「数えてたのか」
「はい。時間を、図っておきました。後で、検証に使えるので」
「ありがとう」
「あと、盾の亀裂です。五人に叩かれてから、一ミリも広がっていません」
「床の線に預けた分だ。計算では、あと一撃で限界だった」
「ぎりぎり、ですか」
「ぎりぎりだ」
「それと」
雫は少し間を置いてから、小さな声で続けた。
「かっこよかったです、アインさんも。創真さんの、設計も」
返事ができなかった。耳が熱くなっているのが、自分でも分かった。
聖堂の中央で、アインが盾を床に置いた。そして観客席のほうへ顔を向けて、深く一礼した。
俺は、立ち上がって、頭を下げ返した。
壁際では氷室が、まだ立っていた。口が動いている。何を言うつもりなのか、誰も聞きに行かなかった。




