反響回廊の証拠と、騎士の一礼
割れた杭の波形を、雫は中継席の裏で保存していた。
試験の合間にタブレットを両手で抱え、画面の端に流れる細い線を目で追っている。俺が覗き込むと、彼女は顔を上げずに言った。
「創真さん、見てもらえますか。外装に番号があります。映像を拡大したら、読めました」
〈TNR-0417-B〉
刻印は浅いが、数字は揃っていた。
見覚えがあった。二年前、病院のベッドで、天嶺の納品台帳を何度も読み返した。崩落した第二訓練場の補強材。その型番の系列と、桁の並びが、同じだった。
「納品資料の写しが、創真さんの手元にありましたよね」
「ある」
「確認してください。わたしの勘違いなら、先に謝ります。でも」
雫の声が、小さく低くなっていた。言うべきことが山のように大きいとき、彼女の声はいつもそうなる。
「この杭、台帳の外にあるはずの部材です。購買の記録と納品台帳で、数が合わなかった型番ですよね」
胸の奥で、何かが静かに外れた。
怒りではなかった。もっと冷たくて、軽いものだった。二年間、誰に何を言っても「証拠がない」と返され続けた書類の隅に、いま、実物が転がっている。
「橘さんに」
雫が走った。響子は判定席の端で缶コーヒーを啜りながら、十二人の動きを数えていた。雫が耳元で言葉を足すと、眼鏡の奥の目が、ゆっくり細くなった。
響子がこちらへ来た。靴の音が揃っている。
「資料を、預かります」
「全部は渡せません。原本は手元に置いて、写しを」
「それで構いません。ひとつだけ。氷室氏には、まだ何も言わないでください。いまの彼は、持ち込みの違反で心が割れかけている。ここで事故の話を出せば、試験が荒れます。捜査と競技は、別の机で扱います」
「分かりました」
「あなたは今、書類の山を叩きつけたいでしょう」
「叩きつけたい気持ちより、ここで終わらせたくない気持ちが強いです。試験は、最後までやります。アインに、そう決めてあるので」
響子が、眼鏡の位置を指で直した。
「そう言うと思っていました」
缶を持つ手に、力が入っているのが分かった。響子が去り際、壁際の氷室をちらりと見た。氷室は気づいていない。気づかないまま、腕組みの指先だけが、せわしなく袖を叩いていた。
*
聖堂に戻ると、桐生の班分けが済んでいた。
三人は左の柱列、二人は中央、四人は右手の暗がりへ、残り三人は後ろに控えて予備に回る。氷室は少し離れた壁際で、腕を組んで立っていた。顔色が悪い。それでも、口元だけは作った笑いの形に固めている。
試験を止めて引き上げる選択肢は、彼にはあった。引き上げたら、持ち込み違反の聴取がそこから始まる。続けるしか、道がなかった。
観客席のどこかで、誰かが呟いた。
「あそこまで追い込んでおいて、まだ戦わせるのか」
雫が戻ってきて、俺の隣に座り直した。
「写し、橘さんの鞄に入りました」
「ありがとう。……雫」
「はい」
「杭が割れたとき、あいつの顔を見ていた。恐がっていた。自分の道具が、自分の思い通りにならなかったのを、初めて見た顔だった」
雫は少し黙ってから、膝の上で両手を重ねた。
「わたしは、あの杭の音のほうが恐かったです。聖堂が悲鳴みたいに鳴ったから」
「悲鳴じゃない。あれは、仕事をした音だ」
「そうですね。言い過ぎました。……すみません」
「どこが言い過ぎだ」
「わかりません。でも、謝っておきます」
聖堂の奥で、玉座の前のアインが、剣の柄に右手を置いた。
「いま、数字を言わないでくれ」と俺は言った。
「何の数字ですか」
「入った人数とか、残り時間とか」
「言いません。……十二、って言いかけました」
「言ったじゃないか」
「すみません。あと、まだ誰も減っていません」
*
合図は、鐘だった。
高い一打が聖堂に落ち、余韻が柱の間を渡って、ゆっくり薄れていく。第三層で使ったのと同じ音。雫が決めた。「始まる音は、どこでも同じに聞こえたほうがいいです」と。
十二人は動かなかった。
動けなかった、が正しい。目の前の騎士が、動かなかったからだ。
アインは大盾の縁を床に置き、直立のまま、胸の前に右拳を当てた。そして、深く頭を下げた。礼だった。ブリキの兵隊だった頃と同じ長さの、同じ角度の礼だ。違うのは、身長が六倍になったことと、礼を向けた先が十二人だったことだけで。
鐘の後の一礼は、仕様に入れてある。挑戦者が構え終えるまで、こちらからは仕掛けない。
観客席の天嶺の見学者が、思わず口に出した。
「……挨拶、してるぞ」
「A級部隊に、一礼」
「こいつ、本気で『客』扱いしてやがる」
氷室の部下たちの表情が、変わるのが分かった。侮られたと思った者は眉を寄せ、気圧された者は唾を飲んだ。桐生だけが、息を吐いて、剣を持ち直した。この副隊長は、礼の意味を正確に受け取っていた。
「陣形、開始」
桐生は部下にだけ聞こえる声で、続けた。
「線は踏むな。光ったら、そこはもう床じゃない」
誰も返事をしなかった。全員が、足元を見ていた。
先に出たのは、右手の四人だった。足場の縁を使い、アインの左へ回る。その瞬間、前列の若い剣士が、踏み込みの拍子で胸当ての留め具を弾いてしまった。革帯が切れ、防具が床に落ちる。金属の音がカラン、と響いた。
若い剣士の足が止まった。ほんの一瞬、視線が防具と盾と騎士の間を行き来した。
アインは、動かなかった。
大剣は鞘に収まったまま。盾は床に立ったまま。青い目が、落ちた防具を一度見て、持ち主を見た。それから、ゆっくり頷いた。拾え、という頷きだった。
「拾って、いいのか」
若い剣士の声は、小さかった。
答えはない。アインは喋らない。ただ、盾を少しだけ右へ傾けて、足元の線を開けた。拾いに行く道を、作った。
剣士は防具を拾い、革帯を結び直し、列へ戻った。その間、聖堂の誰も動かなかった。
観客席の最前列で、常連客が連れてきた孫が、ぽつりと言った。
「あの騎士、かっこいい」
配信の画面を覗いた雫が、小声で俺に教えた。
「コメント、止まりました。みんな見ています。……あの、創真さん」
「何だ」
「いま、わたしの手を握ってます」
見下ろすと、本当に握っていた。雫の左手を、俺の右手が。緊張で、いつのまにか。
「すまない」
「いえ。そのままで大丈夫です。わたしも、握り返しているので」
二人とも、前を向いたまま黙った。
聖堂では、桐生が最後の確認を終えるところだった。
「全員、準備はいいか」
「はい」
十二の声が揃った。
アインが、盾を持ち上げた。
床の線が、足元で白く息をした。




