第46章 三者
浅田正人は、研究室で一人、パソコンの画面を見ていた。
舞から送られてきた、真司の論文だった。
メールには短く、
――真司さんが書いた論文。読んでみて。
とだけある。
正人は論文を開いた。
最初に書かれているのは、意識についてだった。
意識と進化。
方向性。
人間の認識。
正人の専門とは違う。
それでも、ページを進めていった。
やがて、一つの文章で手が止まった。
――人間が認識できるものだけが、存在するもののすべてなのだろうか。
「……認識か」
正人は先へ進んだ。
人間が認識できないものが存在する可能性。
認識する手段がなければ、その存在を確認することはできない。
だからといって、存在しないとは限らない。
そして――。
――並行する世界が存在すると仮定する。
正人の目が止まった。
「……並行世界」
さらに読み進める。
真司は、その存在を断定していない。
あくまで、一つの仮説として置いている。
消えた掲示板の書き込み。
八年という皆既日食のずれ。
人にだけ見えた月と日食。
雷光現象。
二度の航空機消失。
――並行する世界が存在すると仮定した場合、これまで個別に発生していると考えていた複数の現象を、単一の仮説のもとで説明できる可能性がある。
正人は、そこで読むのを止めた。
別のファイルを開く。
航空当局から届いた資料だった。
二機の航空機が最後に確認された時刻と位置。
雷光現象が観測された時刻と場所。
二件とも、近い。
一件なら、偶然かもしれない。
二件でも、偶然である可能性はある。
因果関係を示すものは、まだ何もない。
正人はもう一度、真司の論文を見る。
並行世界。
正しいという証拠はない。
だが、間違っているという証拠もない。
「……調べる理由にはなるか」
正人は過去の雷光現象の観測データを開いた。
発生日時。
場所。
継続時間。
観測された高温。
これまでは、雷光現象そのものを調べてきた。
だが、真司の仮説が正しいと仮定したら。
これまでの現象を、どこまで説明できるのか。
そこまでは確かめられる。
正人は最初の観測記録を開いた。
「……確かめてみるか」
*
舞が帰ったあと。
真司は一人、パソコンの前に座っていた。
さっきまで舞が読んでいた論文が、画面に開かれたままになっている。
完成した。
そう思っていた。
だが、舞に読んでもらっただけでも、いくつか直したいところが出てきた。
「……きりがないな」
真司は椅子にもたれた。
あとは学術誌へ投稿する。
そのつもりだった。
パソコンの画面を切り替えようとして、大学から届いていた案内が目に入った。
来月、大学で開かれる研究発表会。
学内だけではなく、外部の研究者も参加する。
分野も限定されていない。
真司は案内を開いた。
発表者の募集は、まだ続いている。
しばらく眺めてから、自分の論文へ戻った。
意識。
進化。
方向性。
認識。
そして――並行世界。
「……まあ、言われるよな」
根拠がない。
飛躍している。
実証できない。
哲学の範囲を超えている。
どれも、自分でも分かっている。
特に並行世界については、存在する証拠すらない。
ただ。
存在すると仮定すれば、これまで別々に起きていた現象のいくつかを、一つの枠組みで説明できる。
それだけだ。
真司は研究発表会の案内を見る。
自分一人で考えていても、確かめられない。
雷光現象を観測する設備もない。
航空機の記録を調べることもできない。
それなら。
確かめる方法を持っている人に、聞いてもらえばいい。
否定されるかもしれない。
別の原因を示されるかもしれない。
それなら、また考えればいい。
「……出してみるか」
真司は発表者募集のページを開いた。
発表題目。
研究概要。
所属。
一つずつ入力していく。
最後に、論文を添付した。
送信の前で、指が止まる。
「…………」
画面を見つめる。
それから、小さく息を吐いた。
「仮説なんだから、違ったら変えればいい」
送信した。
少しして、申請を受け付けたことを知らせる表示に変わった。
「……出しちゃったよ」
真司は椅子にもたれた。
学術誌への投稿は、そのあとでいい。
何を言われるのか。
何を見落としているのか。
聞いてから、もう一度考えればいい。
真司は机の上の珈琲に手を伸ばした。
舞が淹れてくれたものだった。
一口飲む。
「……冷めてる」
真司は小さく笑った。
*
舞は自宅へ戻ると、着替えを済ませ、自分の部屋のパソコンを開いた。
画面には、真司の論文がある。
父には、真司の部屋にいるうちに送っていた。
もう読んだだろうか。
舞は椅子に座り、論文を開いた。
昼間に読んだばかりなのに、また最初から目で追ってしまう。
意識。
進化。
方向性。
認識。
そして――並行世界。
真司が一か月近くかけて書いたものだった。
「……コグニティブ」
『はい』
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
『どうぞ』
舞はすぐには続けなかった。
『どうしましたか』
「……いや」
画面を見る。
コグニティブなら、この論文をどう考えるのだろう。
それが気になっていた。
聞いてみたい。
でも、少し聞きたくない。
「……変なの」
『何がですか』
「こっちの話」
舞は小さく笑った。
「論文があるの」
『論文ですか』
「うん。真司さんが書いたの」
『内容について質問がありますか』
「質問っていうか……」
舞は少し迷った。
「読んでほしい」
『分かりました』
「でも――」
言葉が止まった。
『どうしましたか』
もし、根拠がないと言われたら。
論理がおかしいと言われたら。
真司が一生懸命書いていたことを知っているだけに、なんとなく嫌だった。
舞は自分でも少し可笑しくなった。
「……悪く言わない?」
『質問の意味を特定できません』
「だよね」
舞は笑った。
「ごめん。今のなし」
真司の論文をコグニティブに読み込ませる。
『確認します』
「うん」
舞は画面を見ながら待った。
なんだか落ち着かない。
自分の論文のときより、緊張している気がする。
舞は、そんな自分に気づいて――少し嬉しくなった。
しばらくして。
『確認しました』
舞は少しだけ姿勢を正した。
「……どう?」
『複数の仮説が提示されています』
「うん」
『意識の複雑化と進化の関係については、現時点では実証されていません』
「……うん」
『また、並行世界の存在を直接示す証拠もありません』
舞の表情が、わずかに曇った。
「じゃあ……駄目?」
『そのようには判断していません』
「え?」
『この論文では、並行世界が存在すると断定していません』
「うん。仮定してる」
『はい』
コグニティブは続けた。
『その仮定によって、これまで個別に扱われていた複数の現象を、一つの枠組みで説明できる可能性が示されています』
舞は黙って聞いた。
『仮説として検討することは可能です』
「……ほんと?」
『はい』
舞の肩から、少し力が抜けた。
「よかった」
『何がですか』
「何でもない」
舞は笑った。
少しして、もう一度論文を見る。
「コグニティブ」
『はい』
「人間が認識できないものが存在するって、前に話したよね」
『はい』
「もし、それを人間が認識するようになったら?」
『質問の条件が不足しています』
「例えば……」
舞は少し考えた。
「今まで存在しないと思ってたものを、本当は存在するかもしれないって思うようになったら」
『人間の認識が変化するという意味ですか』
「うん。でも……」
うまく言葉にできない。
舞は少し考えてから続けた。
「認識することで、その相手にも何か影響したりしないのかな」
『現時点では、そのような現象を示す十分な根拠はありません』
「……そっか」
『認識の変化と、対象そのものの変化は、分けて考える必要があります』
「そうだよね」
舞は頷いた。
それが普通の答えだと思う。
画面には、真司の論文が開かれている。
舞はもう一度、その一文を見た。
――人間が認識できるものだけが、存在するもののすべてなのだろうか。
なぜか、その問いだけは頭に残った。




