第44章 日々
その夜。
舞は自宅のベッドに腰掛け、ノートパソコンを開いていた。
画面には、コグニティブとの対話画面が表示されている。
「今日、水族館に行ってきたの」
『水族館ですか』
「うん。生命の神秘っていう展示をやってて」
『どのような展示でしたか』
「生命がどう進化してきたのか。最初の生命から、魚とか、陸上の生き物とか、人間まで」
舞は昼間に見た水槽を思い出した。
「シーラカンスもいた」
『シーラカンスは、肉鰭類に属する魚類です』
「そういう説明が聞きたいんじゃないんだけど」
『失礼しました』
舞は少し笑った。
「真司さんとも、進化の話をしたの」
『どのような話ですか』
「生き物は環境に合わせて進化してきた。でも、人間は身体を変えるだけじゃなくて、道具を作ってきたんじゃないかって」
海には潜水艦。
空には飛行機。
宇宙には宇宙船。
「真司さん、それを意識の話につなげてた」
『間宮真司さんの仮説ですか』
「うん」
舞は枕を背中に挟んだ。
「論文を書くんだって」
『意識についてですか』
「そう」
舞はしばらく画面を眺めていた。
「何か手伝えないかな」
『論文の作成を補助しますか』
「それは違う」
『資料を検索しますか』
「そういうのでもなくて」
舞は少し考えた。
「真司さんが書く論文だから」
『では、あなた自身が考えたことを伝える方法があります』
「私が?」
『はい』
「でも、私、意識なんて専門じゃないよ」
『専門知識の有無と、疑問を持つことは同一ではありません』
「……そっか」
舞は天井を見上げた。
水族館で見た生き物たちが浮かぶ。
同じ地球に生きている。
けれど、人間と同じように世界を見ているわけではない。
そこで、以前に真司から聞いた話を思い出した。
「そういえば、前に真司さんから色の話を聞いた」
『色についてですか』
「うん。赤とか青とかって、目に入った光を脳がそう認識してるんだって」
『概ね、その理解で問題ありません』
「じゃあ……」
舞は少し考えた。
「私たちが見てる世界って、外にあるものをそのまま見てるわけじゃないんだよね」
『人間は感覚器官から得た情報を脳で処理し、外界を認識しています』
「だったら」
舞の指が止まった。
「人間の脳が認識できないものが、本当は存在してたら?」
『存在する可能性はあります』
「認識できなくても?」
『認識できないことだけを理由に、その存在を否定することはできません』
「……そっか」
舞はしばらく、その文字を眺めていた。
何が存在するのかは分からない。
本当にそんなものがあるのかも分からない。
ただ、その問いだけが頭に残った。
*
数日後。
真司と舞は、大学の食堂で昼食を取っていた。
「論文、進んでる?」
「いきなりそれ?」
「だって、書くって言ってたから」
「書いてはいるよ」
「じゃあ、進んでるんだ」
「それはどうかな」
「何それ」
舞は笑った。
しばらくして、舞が箸を止めた。
「真司さん」
「ん?」
「水族館のあと、ちょっと考えてたんだけど」
「進化のこと?」
「そこからかな」
真司が顔を上げる。
「前に色の話してくれたでしょ」
「ああ」
「あれ思い出してたら、ちょっと気になって」
「何が?」
「人間が見てる世界って、結局、人間の脳が認識した世界なんだよね」
「そうだね」
「だったらさ」
舞は少し間を置いた。
「人間の脳が認識できないものが、本当は存在してたら、どうなるんだろう」
真司の箸が止まった。
「……認識できないもの?」
「うん」
「例えば?」
「分からない」
「分からない?」
「それが分からないから、認識できないんじゃない?」
真司は一瞬黙った。
「……確かに」
舞が笑う。
「変かな?」
「いや」
真司は少し考えた。
「面白いね、それ」
「ほんと?」
「うん」
「真司さん、論文書くって言ってたから。何か役に立たないかなって考えてた」
「十分だよ」
「これだけで?」
「こういうのは、答えより問いの方が役に立つこともあるから」
「哲学っぽい」
「哲学だからね」
二人は笑った。
舞は再び箸を動かした。
「できたら、読ませてね」
「いいよ」
「最初に」
真司は少し笑った。
「分かった」
*
それから二週間。
真司は大学の講義以外、ほとんど自宅にこもっていた。
舞とは何度か連絡を取った。
『進んでる?』
『少し』
数日後。
『どう?』
『まだ』
返ってくる言葉は短かった。
舞も、それ以上は聞かなかった。
完成したら、最初に読ませてもらう。
そう約束していた。
*
同じ頃。
正人は、研究室のモニターを見つめていた。
表示されているのは、これまでに観測された雷光現象の記録だった。
その中から、二件の航空機消失が起きた日のデータを抜き出している。
発生時刻。
推定位置。
継続時間。
正人は別の資料を開いた。
一件目の旅客機が最後に確認された時刻と位置。
続いて、二件目。
画面の上で重ねる。
「……近いな」
二度とも、雷光現象が観測された時間と場所に近かった。
だが、近いというだけだ。
それだけで、雷光現象が航空機を消したことにはならない。
正人は過去の観測記録も含め、データを整理した。
雷光現象の発生時刻。
推定位置。
二件の航空機消失との時間的、地理的な関係。
それらをまとめ、航空当局へ送る。
求めたのは、航空機の詳細な航跡記録との照合だった。
送信を終えると、正人は椅子にもたれた。
一件なら、偶然かもしれない。
二件でも、偶然である可能性は残る。
だから、確かめる。
それだけだった。
*
舞は、そのことを父から聞いていた。
二度の航空機消失。
雷光現象との時間と場所の近さ。
航空当局にデータを送り、照合を依頼したこと。
父はまだ、関連があるとは言わなかった。
一方、真司は論文を書き続けている。
何を書いているのか、舞は詳しく聞いていない。
完成したら、最初に読む。
舞が知っているのは、それだけだった。




