熱に浮いた昼間
体育祭が終わってから急激に季節は秋に移り変わる。季節の変わり目だから体調を崩さないようにと寮でも学校でもしっかり言われ、外から帰ったら手洗いうがいを忘れないようにと西野先生が真剣な表情で言っていた。
寝ても覚めても同級生がいるこの環境、もし誰かが体調を崩せば一気に周囲が体調を崩す事になるかもしれない。インフルエンザの予防接種など、受験を控える三年生は接種するのが多いがしない生徒もいると言う。
何でも予防接種を受けさせるか否かは保護者に任せているらしい。保護者が自分の子どもに予防接種を受けさせて欲しいと言えば担任の先生が予約をして自分の足で病院に行かせて接種と言う流れらしい。
「インフルエンザやら風邪やらになって学校休んだら、一日寮にいるのか」
まだ誰も休んでいない一年生は学校を休むと言うのはどうなるのかと話す。
今年の一年生は健康で何よりだと西野先生から感心されているが、休むとさてどうなるか。寮での夕飯を終えて肌寒くなってきたため熱いぐらいの温度でいれたお茶を啜りながら話す。
「今日二年生と三年生の先輩、何人か休んでたね」
お茶ではなく自分で買った甘く冷たいジュースを飲みながら由実は思い出しながら言う。
肌寒くなってきたこの頃、朝食を食べるために向かった食堂には二年生の席が二つ、三年生の席が一つと抜けていた。
「そうそう。それで学校行く時に見えたけど…食堂のおばさんがお粥お盆に乗せて運ぶの見えたわ」
由実と同じ様に自動販売機で買って来た冷たい炭酸ジュースを飲みながら忍は言う。
「それじゃ部屋で食べてんのか」
「うつしたら駄目だしね」
「部屋から出れねえって事じゃん?暇そう~」
「体調崩してるんだ。部屋から出る元気無いだろ」
湯気が立つお茶を啜りながら弘忠が話す。
「でもさ…皆が学校で授業受けてる時に部屋で寝てるの特別感あるよね」
「それは分かる」
確かにいつもなら学校に行っていて授業を受けている時間にまだ自分はパジャマでベッドに寝ていて熱に浮かされている。
味がよく分からないが、母が体調を気づかい作った柔らかいご飯を食べて他に何か食べたい物は無いかと優しく聞いてくれるのだ。
「ここで体調崩したら…ご飯は食堂のおばさんが運んでくれて…」
「それで西野先生が看病するって話聞いたわ」
「西野先生が?」
遼一が忍と頷きながら話す。
体調を崩して休んだ生徒がいたら西野先生が学校から抜けて様子を看に来てくれるらしい。
「西野先生が」
「…へぇ」
体温計っておでこに氷嚢を乗せたり具合が悪いところを聞いたり寝るまで見てくれるんだろうか。
「……」
「新島先生これ知ってるのか?」
「…これが本当ならわざと体調崩したりしない?」
「それは…さすがにさ、あの人も大人だし」
「てかわざわざ西野先生も大人の新島先生看病に行くわけないだろ」
「…確かにな」
西野先生に構ってもらいたいためにわざと風邪をひこうなら普段どれだけお世話になっていても冷たい目で見てしまいそうだ。
そう話したのがほんの一週間前。
今年の一年生は皆健康で何よりだと言われた矢先、学校でうつったのか寮でうつったのか分からないがついに我ら一年生でも体調不良者が出てしまった。初めは弘忠が熱を出して早退。治ったと思ったら今度は遼一が起きて来ないため忍が部屋を尋ねるとがらがら声で休むと一言。
そして遼一が治ったと思ったら、今度は自分だ。
原因は何だったろう。弘忠と遼一の体調不良の時に皆で町に行き食べられそうな物を買いに行き病人の部屋に尋ねたからだろうか。
それなら一緒に尋ねた亜季や忍、月人も同じはずなのに何故か自分だけ。何故だ。
「…部活の時に半袖短パンだったからだろ」
「だって…長袖は洗濯し忘れて…」
動けば暑くなるし大丈夫だと思っていたんだと言うと学校に行く前に部屋に尋ねた亜季に呆れた声で言われた。
「熱は?」
「三十七度…」
「そんな高くはねえな…」
「体だるい…」
「寝てろ寝てろ」
「亜季も早く学校行きな…」
忍が早く行こうと急かす声が聞こえる。
「行ってくるよ。しっかり寝て休めよ」
「ん…」
わざわざ買って来てくれたのかペットボトルのスポーツ飲料を傍に置いて亜季は部屋を出ていく。
扉が閉まると亜季の足音以外にも同級生が次々と部屋から出て学校へと向かって行く。一つ二つとその音が無くなり静まり返る。
いつも必ず同級生が傍にいるのが当たり前だったため一人取り残されたこの状況が不思議だ。
部屋で寝ていてる時に面白いテレビがやっているとノックも無しに入って来る者がいない。食堂のおやつが余っていると教えてくれる者もいない。
特に用事は無いが何となく部屋に来てしまった。
別に何も無いが部屋に招き入れた。
そんな事は今は無い。
(今は、ホームルームしてるか)
その後は一限目、今日は朝から数学のはずだ。その後は現国。
その後は…。
時間の流れがやけに遅い。
誰かと共有するものが今は無いからひたすら自分自身で時間を消費しないといけないのがこうも退屈だとは。
誰か来てくれないだろうか。いや、放課後になれば誰かしら来るかもしれない。そうしたら熱で浮いている体をこれ以上どこかに行かないように繋ぎ止めてくれるだろうか。
額に冷たいタオルを乗せて食欲がわかない今でも食べられるようにお粥を作ってくれたりと、同級生にそこまで望むのは贅沢だろうけど。亜季がそんな風にしてくれたら多分興奮で体調不良になっている場合ではないかもしれない。
そうして妄想していると額に冷たいものが乗せられる。その冷たさが気持ちよく息を吐くが知らない間に誰か入って来た事実を理解して目を開ける。
「おはよう」
視界に映ったのは西野先生だ。
保健室にいる時と同じく、白衣を着ておりベッドの傍で座っている。いつもと違うのはマスクをしている事だ。
「…おはようございます」
「部屋の鍵かけてないんだな。マスターキー借りて来たけどいらなかったね」
そう言って西野先生は使う場面が無かったマスターキーを見せる。確かにここのところ鍵はかけていない。開けたままにしても大丈夫だろうと言う安心感と開けたままにしておくと誰か見舞いに来てくれるだろうと言う期待感からだ。
「今お昼だよ。食堂のおばさんがお粥作ってくれたから食べれる?」
「食います…」
「よし。食べよう」
「…西野先生もここで食べるんですか?」
「うん。落ち着かないだろうけどちゃんと食べるの見て、薬飲んで貰うから」
「分かりました…」
自分の部屋に学校の先生がいて一緒に昼飯を食べると言うのは不思議な感覚だ。食堂のおばさんが作ってくれた小さな鍋に入ったお粥の蓋を開けて渡してくれる。
お盆に乗せられてベッドに座ったまま食べるのは初めてだ。まさに病人。
西野先生は自分の机を借りて片手で昼飯を食べながら何か書いている。先生は大変だ。時間的には昼休みであるはずなのにわざわざ欠席した生徒の様子を見に来て更に仕事までこなしている。
食堂のおばさんが作ってくれたお粥を一口二口と食べながらそう思い、西野先生が何かを書く音以外に響かない静かな部屋で思っていたよりも食欲はあったらしい自分の腹をお粥で満たした。
食器が空になったのを確認して西野先生は体温計を出して測るように言う。朝よりは下がりほぼ微熱だ。
「よし。そしたら薬飲みな」
「はい…」
「飲める?」
「大丈夫です」
カプセルの薬を口に入れて水で流し込む。熱も微熱程度になったしもう平気だろうか。
「油断しないように」
「…」
「微熱になってもまだ熱がある事には変わり無いから。こっそり部屋から出てテレビ見たりとか遊んだりしないように」
「しませんよ」
「したんだよ。君達の先輩がね」
熱が出て休んだから様子を見に行ったら部屋にはいない。探すとパジャマのまま談話室のテレビ見て笑っていたらしい。ちゃんと寝ていろと怒ったがもう大丈夫と言って聞かず…翌日ぶり返す。
「別のパターンでまだ治り切ってないのに友達の部屋で遊んでその友達も熱出してね」
「…西野先生がわざわざ寮に来る理由って」
「そうしてないか監視する意味も含んでる」
勿論看病したり様子を確認したりするのが一番の理由だけど。
「四六時中一緒にいるから一人の感染から学級閉鎖になる可能性だってゼロじゃないからね」
「そうっすね…」
「そう言う事だから、夕飯も部屋に運ぶから極力部屋から出ないように寝てな」
「はぁい…」
「それと…アイスとゼリーどっち食べたい?」
「え?あるんですか?」
「あるよ。病人の生徒には特別」
「アイス食べたいっす」
「分かった。待ってな」
学校を体調不良で休んだ者だけが得られる特別扱い。少し優越感を感じる。
「……」
アイスを取りに行った西野先生を見て家族の事を思い出した。
実家にいた時もそうだ。
熱を出したら母が看病してくれて甘やかしてくれて体は辛いはずなのに満たされていた。
(こう言うのってどこでも当たり前かと思ったけど)
亜季はどうだろう。
亜季も風邪をひいた時はこうして甘やかしてもらったのだろうか。
「はい。バニラ味」
「やった」
「それじゃ先生は学校に戻るから食べたら寝るんだよ」
「はーい」
「約束な」
「はーい」
「はいは短く」
「はい」
アイスの蓋を開けて冷たく甘いそれを口を入れる。
こう言う瞬間があるからか、体調不良も悪くない。
「和彦ー」
「…亜季?」
自分は先生の言うことを聞くよい子なのでアイスを食べ終えると言われた通りに大人しく眠っていた。体が軽くなっておりもう熱も下がっただろう。
扉を開けると亜季がお盆を持って立っていた。
「あ、夕飯?」
「そう。夕飯の時間になった時に食堂のおばさんが運んでくれたけど…寝てたから後にしたんだ」
「え?うわ…本当だ」
真っ暗になっていた。確かにこれだけ深く眠っていれば熱も冷める。亜季が部屋の中に夕飯を運んでくれるとその後ろで他の同級生が声をかける。
「治った?」
「大丈夫そうだな」
「明日来れる?」
声をかけてくる同級生一人一人に返しながら扉を閉めて遅めの夕飯を食べる。亜季も部屋に入ったままベッドの縁に座り話しかける。
「もう下がった?」
「まだ計ってねえけど多分平気」
「そうか。良かったな」
「亜季、部屋出ろよ。熱下がったけどうつるかもしれないぞ」
「まあ……ちょっと心配なんだよ」
「…ほう」
「…西野先生来た?」
「来た来た」
昼休みの時間に西野先生が様子を見に来てくれた事を話す。自分のプライベートな空間に学校の先生がいると言う不思議な時間を過ごして病人の特権と言うか、アイスを食べさせてもらったと語ると亜季は驚く。
「た、食べさせてもらった?」
「そう。アイスかゼリーどっちがいい?って」
「西野先生が?」
「そう。西野先生が」
「す、スプーンで掬って…?」
「……あ、違う。別にあーんで食わせてもらったとかじゃなくて」
亜季の中で今、西野先生にスプーンでアイスを掬って食べさせてもらう自分が描かれたのかもしれない。さすがにそこまで甘えるような事はしていないし男子高校生が保険の先生にそこまでしてもらうのは駄目だろう。
「にしても...風邪ひくんだな」
「原因は分かるから」
「これに懲りたらちゃんと服着ろよ」
「着るよ着るよ」
「……」
「何?」
「別に」
「?」
「良かったな。西野先生に見てもらって」
「うん?」
明日には完全快復してろよと亜季が空になった食器を持って部屋から出る。
シャワーを浴びようかと思ったが風邪をひいた時は風呂に入らず寝ていたためそのまま今日は何もせずに眠る事にした。
食堂のおばさんが帰った後、同級生がテレビを見て笑っているのを横目に和彦が食べた食器を水に浸けて洗う。
「亜季」
「ん?」
食器を洗っていると弘忠に声をかけられる。
「和彦どうだ?」
「もう熱無いってよ」
「そっか」
「しっかり看病してもらったみたいだしな」
「へえ…西野先生だよな?」
「…そう」
弘忠も休んだ日に西野先生が部屋を訪ねて来たと思い出しながら話す。自分の部屋に先生がいると言うのはおかしな気分だと笑っていた。
「アイスとゼリーどっち食べたいって…子どもみたいに扱うんだよ」
照れ臭いと言うか恥ずかしいと言うか、頬をかきながら弘忠は話し自分は西野先生が和彦の部屋にいるのを想像した。
あの和彦の匂いがする部屋に保健の西野先生が、あの大人の余裕を見せる綺麗な先生が、新島先生に思いを寄せられているあの、あの西野先生が。
「亜季」
「……」
「亜季」
「……?」
「さっきからずっと鍋の蓋しか洗ってねえけど」
「……ぼーっとしてた」
「亜季も風邪か?和彦のうつったか?」
「大丈夫か!亜季!」
俺が代わりに風邪になるよと熱を出しても気付かなさそうな忍が会話に入って来るが風邪なんかうつっていないとようやく鍋を洗い終えて濡れた手を拭く。
「まあ熱出たらすぐ言えよ」
「平気だって」
熱などではない。
風邪なんかうつっていない。
思ったのだ。和彦の部屋に一番いるのは自分だと思っている。数えたわけではないが、お互いどこか他の友達よりもきっと近い距離にいる。
学校や寮以外の場でも会う事があったからか、それなら忍や遼一だってそうだが和彦は同じではない。
弱いところを見せてさらけ出して、倒れそうになった時にきっと自分は和彦の手を助けてもらおうと掴むかもしれない。
そう思う程に自分の壁を作っていたはずの領域に入り込ませているのだ。それは和彦も同じだと思っていた。
だから風邪をひいた和彦に何かしてやらればと思ったのだ。朝に声をかけて飲み物を置いて帰って来れば様子を見て夕飯を運んでやって。
何となく、それが自分に出来る特権だと思っていたがその役割を自分がいない内に西野先生が行っていた。
その事実が少し、ほんの少しだが不快に感じた。
自分のいない知らない時間に熱が出て弱る和彦を見て甘えさせてと言う事実を知って、何だろう。
「…いやいや」
これは、独占欲か。
いや和彦は友達で一番近い距離にいる友達だ。
そのはずなのにこれだと自分は和彦に対してそう言う気持ちを抱いている事になる。
「んなわきゃ…」
無いだろうと気持ちを落ち着かせて何か飲もうと冷蔵庫を開けると、そこにはゼリーがあった。
そしてそれは西野先生の字で和彦の名前が書かれていた。
「……」
悪いとは思ったが無言でそれを手に取り蓋を開ける。テーブルに座り掻き込むように口に運ぶと同級生が不思議な目をしている。
知らない。
分からない。
和彦とはまだ友達でいたいからこの苛立ちに名前を付けたくない。
体調不良の生徒のために自費で食べられる物を買って来てくれる西野先生。




