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第3話 あなたやり返したくないの?

 放課後の校舎裏は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 古びた校舎の壁に沿って植えられた木々が、夕暮れの風に揺れている。枝葉の擦れる音と、遠くのグラウンドから響く運動部の掛け声だけが、妙に鮮明に耳へ届いた。


 蜜璃さんに呼び出された僕は、彼女と向かい合ったまま、身動き一つできずにいた。


 胸の奥では、心臓が壊れそうなほど激しく脈打っている。


 彼女のほうから放課後に呼び出してくれた。


 しかも場所は、人目の少ない校舎裏。


 それだけの状況が揃えば、期待するなというほうが無理な話だった。


 もしかすると、僕が告白するよりも先に、蜜璃さんが何かを伝えようとしてくれているのかもしれない。


 そんな都合のいい想像が、頭の中を何度も駆け巡っていた。


 今この瞬間、僕はどれほどの幸福を抱いているのだろう。


 おそらく、物差しでも秤でも測ることはできない。


 明日からの景色がすべて変わる。そんな予感すら抱いていた。


「ごめんね。急に呼び出したりして」


 蜜璃さんは胸元で指を絡ませ、落ち着かない様子で視線を伏せた。


 いつも教室で見せる太陽のような笑顔とは違う。どこか気まずそうで、後ろめたいことでも隠しているような表情だった。


 けれど僕は、それすら緊張しているからなのだと、自分に都合よく受け取ってしまった。


「い、いえ。大丈夫です」


「どうしても、影久くんに伝えておきたいことがあって」


 蜜璃さんがゆっくりと顔を上げる。


 僕は喉を鳴らした。


 漫画であれば、きっとここに『ゴクリ』という大きな擬音が描かれているのだろう。


 そんな場違いなことを考えなければ、今にも緊張で倒れてしまいそうだった。


「影久くん」


「はい」


 蜜璃さんは一度、大きく息を吸った。


 そして、覚悟を決めたように僕を見つめる。


「私と、付き合ってくれませんか?」


 一瞬、世界から音が消えた。


 遠くで響いていた部活動の声も、風に揺れる葉の音も、何も聞こえなくなる。


 聞き間違いではない。


 僕がずっと聞きたかった言葉を、好きな人が僕へ向けてくれている。


 姫月さんや軽井沢さんから受けた三日間の特訓も、告白への恐怖も、胸の奥へ抱えていた劣等感も、すべてが報われたような気がした。


「ぼ、僕でよければ……喜んで」


 声が震えた。


 それでも、今だけは逃げたくなかった。


「僕も、蜜璃さんのことが好きでした」


 胸の奥へ押し込め続けてきた想いが、堰を切ったように溢れ出す。


「入学してから、ずっと好きでした。僕に話しかけてくれて、名前を呼んでくれて、本当に嬉しかった。僕は……蜜璃さんのことが、大好きです」


 すべてを伝え終えた瞬間、体から力が抜けた。


 恥ずかしさで消えてしまいたい気持ちもあった。それ以上に、自分の想いを伝えられたことへの安堵が大きかった。


 これから蜜璃さんと、どんな話をしよう。


 明日の朝からは、今までとは違う関係で挨拶ができるのだろうか。


 初めての休日には、どこへ行けばいいのだろう。


 僕の頭の中では、すでに彼女との未来が形を作り始めていた。


 しかし、蜜璃さんは何も答えなかった。


 数秒ほど、不自然な沈黙が流れる。


 彼女は俯いたまま、肩を小さく震わせていた。


 照れているのだと思った。


 嬉しくて笑っているのだと、そう信じたかった。


「蜜璃、さん?」


 呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。


 口元には笑みが浮かんでいる。


 けれど、それは僕が好きになった優しい微笑みではなかった。


 人を見下し、嘲るように歪んだ笑みだった。


「なぁんてね」


「……え?」


「嘘だよ、嘘」


 蜜璃さんは堪えきれなくなったように、声を上げて笑い始めた。


「告白も、影久くんのことが好きっていうのも、ぜーんぶ嘘」


 何を言われているのか理解できなかった。


 いや、耳には届いている。


 言葉の意味も分かる。


 それでも、頭が理解することを拒んでいた。


「な、何を言ってるんですか……?」


「何って、だから嘘告だってば」


「嘘……告?」


「そう。影久くんが本気にするか確かめるための、罰ゲーム」


 蜜璃さんが笑った直後、校舎の陰から数人の女子生徒が姿を現した。


 同じクラスで、いつも蜜璃さんと一緒にいる女子たちだった。


 彼女たちは口元を押さえながら、僕のことを見て笑っている。一人はスマートフォンを手に持ち、画面をこちらへ向けていた。


 まさか、最初から見られていたのだろうか。


 僕が必死に想いを伝えた姿も。


 蜜璃さんから告白されて舞い上がった姿も。


 すべて。


「本当に引っかかったんだ」


「しかも大好きだって。重すぎでしょ」


「ちょっと優しくされただけなのにね」


 楽しげな笑い声が、頭の中を何度も反響する。


 僕は何も言い返せなかった。


 ただ呆然と、目の前の蜜璃さんを見つめていた。


「どうして……?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど弱々しかった。


「どうしてって、言ったじゃん。罰ゲームだって」


「でも、入学した時からずっと……僕に声をかけてくれて……」


「ああ、それも罰ゲームの一部」


 蜜璃さんは面倒そうに髪を耳へかけた。


「クラスで一番暗くて、絶対に女子と縁がなさそうな男子に二か月間優しくして、最後に告白する。それで、相手が本気になったら成功ってこと」


 二か月。


 僕にとってかけがえのないものだった時間を、蜜璃さんは何でもないことのように言い捨てた。


 毎朝の挨拶も。


 消しゴムを拾ってくれたことも。


 僕の話を楽しそうに聞いてくれた笑顔も。


 そのすべてが、誰かに命じられて行っていた演技だった。


「あのさ」


 蜜璃さんの表情から笑みが消えた。


 代わりに浮かんだのは、心底うんざりしたような顔だった。


「その『蜜璃さん』って呼び方、もうやめてくれない?」


「……え?」


「普通、そこまで仲良くない女子を下の名前で呼ぶ? ちょっと距離感おかしいよ」


 胸の奥へ、鋭い刃物を突き立てられたような痛みが走った。


 彼女が下の名前で呼んでもいいと言ったから、そう呼んでいた。


 最初は神木さんと呼んでいた僕へ、堅苦しいから名前で呼んでほしいと言ってくれたのは、蜜璃さん本人だった。


 それさえも、僕を勘違いさせるためだったのだろう。


「それに、私にはちゃんと彼氏がいるから」


 蜜璃さんは、念を押すようにそう告げた。


「浮気とか無理だし、影久くんと本気で付き合うなんて絶対ないから。そこは勘違いしないでね」


 知らなかった。


 蜜璃さんに彼氏がいることも。


 僕へ向けられていた笑顔に、少しの好意も含まれていなかったことも。


 僕だけが、何も知らなかった。


「影久くんさ、ちょっと夢見すぎなんだよ」


 蜜璃さんが、冷たい目で僕を見つめる。


「少し優しくされたくらいで、クラスの女子と付き合えると思ったの? 自分と私が釣り合うかくらい、普通に考えれば分かるよね?」


 否定できなかった。


 それは僕自身が、ずっと心のどこかで考えていたことだからだ。


 僕と蜜璃さんでは釣り合わない。


 そんな当たり前の事実を、彼女自身の口から突きつけられた。


「それじゃ、私たち帰るから」


 蜜璃さんは僕へ背を向ける。


 数歩進んだところで、思い出したように振り返った。


「あ、このことを変なふうに言い触らさないでね。もし余計なことしたら、私たちも何するか分からないから」


 最後に、あの日々と同じ笑顔を浮かべる。


「じゃあね、影久くん」


 蜜璃さんたちは笑い声を残し、その場から立ち去った。


 僕は一人、校舎裏へ取り残された。


 足音が完全に聞こえなくなっても、その場から動くことができない。


 何を期待していたのだろう。


 人気者の彼女が、僕にだけは特別な気持ちを抱いてくれている。


 そんな都合のいい夢を見ていた。


 勝手に期待して。


 勝手に好きになって。


 勝手に未来を想像して。


 すべて僕の独りよがりだった。


 視界が滲み、温かいものが頬を伝った。


 泣く資格などないと思った。


 騙した蜜璃さんが悪いのだと、責任を押しつけることもできた。


 それでも、心のどこかでは分かっていた。


 最初から、僕のような人間に都合のいい奇跡など起きるはずがなかったのだ。


 膝から力が抜け、地面へ崩れ落ちる。


 土に拳を押しつけても、胸の痛みは少しも薄れなかった。


「……本当に、僕は愚かだ」


 呟いた言葉は、誰にも届かず消えていった。


        ※ ※ ※


 どれくらい、その場にいたのだろう。


 気がつけば夕日はさらに傾き、校舎の影が長く伸びていた。


 僕は制服の袖で涙を拭い、重い体を引きずるように校舎へ戻った。


 教室に置いた鞄を取りに行かなければならない。


 たったそれだけのことなのに、一歩進むたびに全身から力が抜けていく。


 廊下には、すでにほとんど生徒が残っていなかった。


 誰にも会いたくなかった。


 今の顔を見られれば、何があったのか聞かれてしまう。慰められるのも、同情されるのも耐えられそうになかった。


「影久なつめくん」


 聞き覚えのある冷たい声に、僕は足を止めた。


 ゆっくりと顔を上げる。


 廊下の先に、姫月三郷さんが立っていた。


 腕を組み、壁へ背中を預けている。いつもと変わらない無表情に見えたが、その瞳だけは僕を憐れむように僅かに揺れていた。


「姫月さん……」


「随分と酷い顔ね」


「すみません。今は、人と話せる状態じゃなくて……」


「でしょうね。あんなものを見せられた後なら当然だわ」


 僕は反射的に顔を上げた。


「見ていたんですか?」


「ええ」


「どこから……」


「近くを通りかかったのよ。盗み聞きするつもりはなかったけれど、あれだけ騒いでいれば嫌でも聞こえるわ」


 恥ずかしさと絶望が、再び胸の奥から込み上げてきた。


 姫月さんにも、僕が浮かれて告白を受け入れた姿を見られていた。


「一つだけ、勘違いしないで」


 姫月さんは壁から背を離し、僕の正面へ立った。


「私も天音も、今日の件には一切関わっていない」


「でも、蜜璃さ……神木さんが僕を呼び出したのは、姫月さんたちが何かしてくれたからだと……」


「何もしていないわ。彼女へ話しかけてもいない」


 姫月さんは僅かに眉を寄せた。


「神木蜜璃たちは、最初からあのくだらない遊びをするつもりだったのでしょう。あなたが告白しようとしていたこととは無関係よ」


「そう、ですか」


 一瞬でも、姫月さんや軽井沢さんまで僕を騙していたのではないかと疑った自分が恥ずかしくなる。


 二人は、本気で僕に協力してくれていた。


 厳しく指導しながらも、僕のために時間を使ってくれた。


「姫月さんたちが関わっていないなら、よかったです」


 僕は無理に笑みを作った。


「特訓してもらったのに、無駄にしてしまってすみません。それじゃあ、僕はこれで」


 もう誰とも話したくなかった。


 一人になって、今日のことをすべて忘れたかった。


 姫月さんの隣を通り過ぎようとした時、その冷たい声が背中へ突き刺さった。


「まだ話は終わっていないわ」


「……でも」


「あなた、悔しくないの?」


 足が止まる。


「騙されて、笑われて、夢見すぎだと馬鹿にされた。そのまま泣き寝入りして終わるつもり?」


「悔しいですよ」


 自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。


「悔しいに決まってます。でも、僕が何かしたところで、余計に笑われるだけです。仕返しなんて考えても、虚しくなるだけですよ」


「仕返しができないと、最初から諦めているのね」


「僕は姫月さんたちとは違うんです」


 声が少しだけ強くなる。


「特別な才能もない。人気者でもない。神木さんたちに何か言い返せるほど強くもない。だから、もう放っておいてください」


 これ以上惨めになりたくなかった。


 そんな願いを無視するように、姫月さんの手が僕の肩を掴んだ。


 細い指だった。


 それなのに、振り払うことのできない強さがあった。


「あなたは、昔から変わらないわね」


「……昔?」


 姫月さんの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。


 氷のように冷たい表情の奥に、悲しみにも怒りにも見える感情が浮かんだ。


「僕たち、昔どこかで会いましたか?」


「今はどうでもいいことよ」


「でも――」


「それより」


 姫月さんは僕の肩から手を離し、逃げ道を塞ぐように目の前へ立った。


「私と天音が三日間もあなたに付き合ったのよ。それを、あんなくだらない女たちの遊びで終わらせられるのは癪だわ」


「癪って……」


「あなたが自分のために怒れないのなら、私が代わりに怒る」


 姫月さんの声は、これまで聞いたことがないほど冷たかった。


 けれど、その冷たさは僕へ向けられたものではない。


 神木さんたちへ向けられた、明確な怒りだった。


「復讐するわよ」


「復讐……?」


「少し違うわね」


 姫月さんは静かに目を細めた。


「彼女たちが二度と、あなたを見下して笑えないようにするの」


「そんなことが、僕にできるわけ……」


「できるかどうかではないわ。するのよ」


 逃げることを許さない瞳が、僕を射抜く。


「あなたを、神木蜜璃が嘘の告白をしたことを一生後悔するような男にする」


 姫月さんは、当然のことを告げるように言い切った。


「これは復讐ではないわ」


 窓から差し込む夕日が、その白い横顔を赤く染める。


「あなたを馬鹿にした人間たちを、正しい場所から見返すだけよ」


 あまりにも突拍子のない言葉だった。


 けれど、その瞳はどこまでも真剣だった。


 傷つき、何も信じられなくなった僕の前へ、氷の女王だけが手を差し伸べている。


「さあ、影久なつめ」


 姫月さんが、僕へ向かって右手を差し出した。


「今度こそ、あなた自身のために変わりなさい」


 その手を取れば、きっと僕の日常は二度と元には戻らない。


 それでも僕は、差し出された白い手から目を逸らすことができなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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