第4話 仮交際決定!?
この世界は、いつだって残酷だ。
弱い人間がささやかな希望を抱けば、そんなものは身の程知らずだと嘲笑い、氷のように冷たい現実を突きつけてくる。
少しだけ優しくされたことを特別だと勘違いし、勝手に恋をして、ありもしない未来を夢見た。
その結果が、あの嘘の告白だった。
だから、もう誰かの好意を信じるのはやめようと思っていた。
けれど、そんな冷たい現実に打ちのめされた僕へ手を差し伸べたのは、誰よりも氷の似合う少女だった。
「それで、どうするの?」
姫月さんは、僕へ右手を差し出したまま問いかける。
「このまま何もせず、神木蜜璃に笑われたままでいる? それとも、自分を変えて見返す?」
冷たい声音とは対照的に、その表情には優しい微笑みが浮かんでいた。
学校中から『氷の女王』と呼ばれている彼女が、普段なら決して他人へ見せないであろう、穏やかな笑顔。
それを自分だけへ向けられている。
その事実が、傷ついた心の奥へ温かなものを流し込んだ。
「僕は……」
神木さんたちの笑い声が、頭の中で蘇る。
『夢見すぎなんだよ』
あの言葉を思い出すだけで、胸が締めつけられた。
何もなかったことにして逃げれば、傷はこれ以上深くならないのかもしれない。
けれど、きっと一生、自分のことを嫌いなままだ。
「やり返したいです」
僕は震える手を伸ばし、姫月さんの手を握った。
「もう、あんなふうに馬鹿にされたくない。僕は……変わりたいです」
「それでいいわ」
姫月さんは満足そうに目を細めると、僕の手を強く握り返した。
「なら、今日一日、あなたを私に預けなさい」
「今日一日ですか?」
「ええ。頭の先から足元まで、私の望む形に変えてあげる」
どこか誤解を招きそうな言い方だった。
僕が戸惑っている間にも、姫月さんは手を離さず歩き始める。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たないわ。あなたは考える時間を与えると、すぐに逃げるでしょう?」
「否定はできませんけど……」
「なら、黙って私についてきなさい」
引かれる手は、簡単には振りほどけないほど強かった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、彼女が絶対に僕を置いていかないと伝えてくれているような気がした。
※ ※ ※
「それで、私のところへ来た……と?」
姫月さんに連れられて訪れたのは、一年四組の教室だった。
放課後ということもあり、生徒の姿はほとんどない。夕日に染まった窓際の席に、一人の女子生徒だけが残っていた。
立花凛花さん。
姫月さんや軽井沢さんと同じく、『五人の才女』と呼ばれる少女の一人だ。
青みがかった艶のある黒髪に、見る者を安心させる柔らかな瞳。読者モデルとして雑誌に掲載された経験があり、過去にはドラマへ出演したこともあるらしい。
整いすぎた容姿でありながら、姫月さんのような近寄り難さはない。
優しげな微笑みを浮かべる姿は、女神と呼んでも差し支えないほどだった。
「ええ、立花さん。あなたの力を借りたいの」
「姫月さんが私に頼み事なんて、珍しいこともあるのね」
立花さんは頬杖をつきながら、楽しそうに僕たちを眺めている。
ただ、その視線が姫月さんと僕の繋がれた手へ向けられた瞬間、笑顔が僅かに固まった気がした。
「それで、その子は?」
「影久なつめくん。私の……」
姫月さんはそこで言葉を止めた。
僕との関係をどう説明すればいいのか、迷ったのだろう。
「知り合いよ」
「知り合いにしては、随分と仲がよさそうだけど?」
言われて初めて、僕たちはずっと手を繋いだままだったことに気づいた。
「す、すみません!」
慌てて離そうとしたものの、姫月さんの指に強く握り込まれる。
「どうして謝るの?」
「いや、だって……」
「私が離していないのだから、あなたが気にする必要はないわ」
姫月さんは平然と言い切った。
立花さんの笑顔が、さらに深くなる。
「へえ。そうなんだ」
柔らかな声だった。
けれど、なぜか逃げ出したくなるような圧力を感じた。
「それで、私に何をさせたいの?」
姫月さんはようやく僕の手を離すと、神木さんから嘘の告白をされた件を簡潔に説明した。
告白も、これまでの優しさも、すべて罰ゲームだったこと。
僕が想いを伝えた姿を、神木さんの友人たちが陰から見て笑っていたこと。
そして僕が、自分を変えて彼女たちを見返したいと考えていること。
立花さんは途中で口を挟まず、真剣な表情で話を聞いていた。
「嘘告、か」
すべてを聞き終えた立花さんは、顎へ手を当てた。
「神木さんって、そういうことをする子だったんだ」
その声からは笑みが消えている。
立花さんはしばらく考え込んだあと、僕の顔をじっと見つめた。
「影久くんは、まだその子が好きなの?」
「……分かりません」
「分からない?」
「好きだった気持ちが、急になくなるわけじゃないです。でも、あれが全部嘘だったと分かったら、何を信じればいいのか……」
「そっか」
立花さんは立ち上がると、僕の前まで歩いてきた。
そして、前髪の隙間から覗く僕の目を確かめるように、顔を覗き込む。
「大丈夫だよ」
柔らかな声だった。
「そんな子のこと、すぐに考えられなくなるくらい変えてあげるから」
「え?」
「なんでもない」
立花さんは花が咲くように笑うと、姫月さんへ振り返った。
「いいよ。協力する」
「随分とあっさり決めるのね」
「面白そうだし。それに、こういう原石を磨くのは好きだから」
そう言いながら、立花さんは僕の前髪へ触れる。
細い指が髪を持ち上げ、額を露わにした。
至近距離から見つめられ、僕は思わず視線を逸らした。
「やっぱり」
「何がですか?」
「ちゃんと整えれば、かなり格好よくなると思う」
「僕がですか?」
「うん。だから、まずはショッピングモールへ行こう。服を買って、そのあとは髪を切るの」
「今からですか?」
「思い立ったが吉日って言うでしょ?」
立花さんは僕の腕を取り、楽しそうに教室を出ようとする。
その反対側の腕を、姫月さんが掴んだ。
「待ちなさい」
「どうしたの?」
「なつめくんを勝手に連れていかないで」
「なつめくん?」
立花さんの目が僅かに細められる。
「いつの間に、そんな親しい呼び方になったの?」
「あなたには関係ないでしょう」
「そうだね。今は、だけど」
二人とも笑っていた。
それなのに、僕の両腕を掴む力だけが、徐々に強くなっている。
僕は早くも、自分が二人へ協力を頼んだことを後悔し始めていた。
※ ※ ※
ショッピングモールへ到着すると、僕たちはそのまま男性向けの服を扱う店舗へ向かった。
立花さんは慣れた様子で商品を眺め、姫月さんも真剣な表情で服を選んでいる。
「ところで、影久くんは普段どんな服を着るの?」
「実は、あまり服を持っていなくて……家では適当なシャツとズボンを」
「好きな色は?」
「特には……目立たない色なら、何でも」
「その考え方から変えないとね」
立花さんは僕の肩幅や身長を確かめるように眺めると、迷いなく数着の服を手に取った。
「これと、これ。あと、このシャツも似合いそう」
「そんなに買うんですか?」
「まだ少ないくらいだよ」
「立花さん。派手すぎるわ」
姫月さんが立花さんの選んだ服を一着、元の場所へ戻す。
代わりに落ち着いた色合いのジャケットを持ってきた。
「なつめくんには、こちらのほうが似合う」
「それ、姫月さんの好みじゃない?」
「似合うものを選んだだけよ」
「ふうん?」
立花さんは意味ありげに笑ったあと、姫月さんが選んだ服と同じものを色違いで手に取った。
「じゃあ、こっちも買おうよ。私とのデートでは、こっちを着てもらうから」
「デ、デート?」
「服選びに付き合ったお礼。それくらい、いいよね?」
「まだ何も終わっていないでしょう」
姫月さんの声が一段低くなる。
「それに、彼を連れ回す予定があるなら、まず私を通してもらえるかしら」
「どうして姫月さんの許可が必要なの?」
「私が最初に拾ったからよ」
まるで僕が捨て猫であるかのような言い方だった。
しかし、二人の視線は冗談とは思えないほど鋭い。
「拾ったものは、自分のものってこと?」
「少なくとも、他人へ簡単に渡すつもりはないわ」
姫月さんが僕の腕を抱き寄せる。
制服越しに伝わる体温に、僕は言葉を失った。
立花さんはしばらく僕たちを見つめていたが、やがて何事もなかったように微笑んだ。
「そっか。だったら、奪わないとね」
「何か言った?」
「ううん。服を選ぼうって言っただけ」
僕には、とてもそうは聞こえなかった。
※ ※ ※
大量の服を購入したあと、立花さんは僕の前髪をさらりと持ち上げた。
「次は髪だね」
「まだ何かするんですか?」
「ここまで来たら徹底的にやるよ」
立花さんは僕の手を取り、そのまま歩き始める。
「行きつけのお店が近くにあるから、ついてきて」
「あの、手は繋がなくても……」
「はぐれたら困るでしょ?」
「子供じゃないんですが」
「私が繋いでいたいの」
あまりにも自然に言われ、反応が遅れた。
背後から、冷たい視線を感じる。
振り返ると、姫月さんが無表情のまま僕たちの手を見つめていた。
「立花さん」
「なに?」
「なつめくんの手を離して」
「嫌だけど?」
二人の間で、目に見えない火花が散った気がした。
結局、僕は右手を立花さんに、左手を姫月さんに掴まれたまま、店まで歩くことになった。
※ ※ ※
「ここだよ」
立花さんが指したのは、物語に登場する古い洋館のような美容室だった。
深い色合いの木製扉と、蔦の絡んだ外壁。僕だけでなく、初めて来たらしい姫月さんも僅かに目を見開いている。
立花さんは慣れた様子で扉を開けた。
「白須さーん、いる?」
「その声は凛花ちゃんか」
奥から現れたのは、落ち着いた雰囲気を持つ女性美容師だった。
「今日は珍しく男の子も一緒なんだね」
「この子を格好よくしてほしくて」
「あなたの彼氏?」
「今は違うよ」
立花さんは僕の肩へ手を置き、嬉しそうに笑う。
「でも、これからどうなるかは分からないかな」
「立花さん」
姫月さんの低い声が響いた。
「冗談だよ。今はね」
今という部分を、妙に強調した気がした。
僕は慣れない空気に戸惑いながらも、美容師に案内されて椅子へ座った。
立花さんは僕の髪質や顔立ちを確認し、細かな要望を伝えていく。
前髪を短くしすぎず、目元が見えるように整えること。
横と後ろは清潔感を意識しつつ、派手になりすぎないこと。
姫月さんも途中から意見を出し、二人による長い相談の末、ようやく散髪が始まった。
※ ※ ※
すべてが終わり、鏡へ映った自分を見た瞬間、僕は言葉を失った。
目元を覆っていた前髪が整えられ、これまで隠れていた顔がはっきりと見える。服も姫月さんたちが選んだものへ着替えており、鏡の中には以前とはまるで別人のような男子が立っていた。
「これ、本当に僕ですか?」
「そうだよ」
立花さんは満足そうに頷くと、僕の顔を左右から眺めた。
「想像以上かも」
「変じゃないですか?」
「逆。すごく格好いい」
立花さんの瞳が、熱を帯びたように僕へ注がれる。
「私好みだよ、なつめくん」
「り、立花さん?」
「凛花でいいよ」
「でも……」
「私だけ名字で呼ばれるの、嫌だな」
笑顔は優しい。
しかし、断るという選択肢が最初から存在していないような口調だった。
「凛花さん……」
「うん。これから、たくさん呼んでね」
凛花さんは嬉しそうに微笑んだ。
その直後、姫月さんが僕たちの間へ割って入る。
「立花さん、近すぎるわ」
「そう?」
「そうよ。それとなつめくんも、簡単に他の女子を名前で呼ばないで」
「姫月さんが言ったんじゃ……」
「私以外は駄目」
「え?」
「何でもないわ」
姫月さんは顔を逸らした。
ただ、僕の袖を掴む指には、僅かに力が込められている。
美容室を出たところで、凛花さんは迎えに来た父親の車を見つけた。
「今日はここまでだね」
「ありがとうございました。服代も散髪代も、必ず返します」
「出世払いでいいよ」
凛花さんは車へ向かいかけたものの、何かを思い出したように振り返る。
「ねえ、なつめくん」
「はい」
「明日、私のところへ来て」
「明日ですか?」
「うん。嫌な思いは絶対にさせないから」
凛花さんは自分の唇へ人差し指を当て、妖艶に微笑んだ。
「それに、私のことをもっと知ってほしいの。神木さんのことなんて、思い出せなくなるくらいにね」
優しい言葉のはずなのに、なぜか背筋へ甘い寒気が走った。
「必ず来てね」
「は、はい」
「約束を破ったら……迎えに行くから」
最後の言葉だけは、冗談には聞こえなかった。
凛花さんは満足そうに車へ乗り込み、僕たちの前から去っていった。
※ ※ ※
残されたのは、僕と姫月さんだけだった。
先ほどまで三人でいたせいか、急に周囲が静かになったように感じられる。
「今日は、本当にありがとうございました」
僕は姫月さんへ頭を下げた。
「僕なんかのために、ここまでしてもらって……」
「その言い方はやめなさい」
姫月さんは僅かに眉を寄せる。
「『僕なんか』ではないわ。少なくとも、私はあなたのためだから、ここまでしたの」
「姫月さん……」
「自分を卑下する癖は、これから直してもらうから」
厳しい言い方だった。
それでも、僕のためを思ってくれていることが伝わってくる。
その時、二人組の若い男が僕たちの進路を塞いだ。
「ねえ、君、すごく可愛いね」
「このあと空いてる? 俺たちと遊ばない?」
明らかなナンパだった。
姫月さんは男たちを一瞥すると、面倒そうにため息を吐いた。
「どいてくれるかしら。私は暇ではないの」
「そんな冷たいこと言わないでさ」
「ちょっとだけでいいから付き合ってよ」
男の一人が姫月さんの肩へ手を伸ばす。
まずい。
そう思った瞬間には、体が動いていた。
僕は男の腕を掴み、姫月さんとの間へ入る。
「触らないでください」
「あ?」
男に睨まれ、足が震えた。
怖くないわけがない。
それでも、姫月さんを置いて逃げるという選択肢は浮かばなかった。
「この人は……僕の彼女なので!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
男たちが呆気に取られている隙に、僕は姫月さんの手を掴む。
「走ります!」
返事を聞くより先に、僕たちはその場から駆け出した。
背後から男たちの声が聞こえたものの、振り返らずに走り続ける。
十分に距離を取ったところで、僕はようやく足を止めた。
「はぁ……大丈夫でしたか、姫月さん?」
「ええ」
姫月さんは息一つ乱していなかった。
その代わり、繋がれた僕たちの手をじっと見つめている。
「それより、あなた」
「はい?」
「よく咄嗟に、私を自分の彼女だと言えたわね」
「あっ……」
先ほど口走った言葉を思い出し、顔が一気に熱くなる。
「す、すみません! ほかに思いつかなくて……嫌でしたよね」
「嫌だとは言っていないわ」
「え?」
姫月さんは僕の手を握ったまま、顔を背けた。
夕日に照らされた頬が、僅かに赤く染まっている。
「むしろ……悪くなかった」
氷の女王らしからぬ仕草に、僕は何も言えなくなった。
「ねえ、なつめくん」
「は、はい」
「一つ、提案があるのだけれど」
姫月さんは繋いでいた手へ指を絡ませる。
逃がさないようにするかのような繋ぎ方だった。
「私と付き合ってみない?」
「……え?」
「もちろん、仮交際という形で」
あまりにも予想外の言葉に、思考が完全に停止した。
姫月さんは僕を見上げ、優しく微笑んでいる。
けれど、その瞳の奥には、仮という言葉には似つかわしくないほど重く、濃い感情が宿っていた。
「神木蜜璃を見返すには、それが一番効果的でしょう?」
「で、でも、姫月さんにそんな迷惑を……」
「迷惑ではないわ」
姫月さんは僕の手をさらに強く握る。
「私は、あなたの恋人になりたいの」
一度そこで言葉を止め、彼女は小さく言い直した。
「……仮の、だけれど」
仮という言葉を付け足した時だけ、姫月さんの表情が僅かに曇った。
まるで、本当はその二文字を口にしたくなかったかのように。
「どうして僕なんかと……」
「また、その言い方」
姫月さんの笑顔が消えた。
「あなたを低く扱うのは、神木蜜璃だけで十分よ。あなた自身まで、あなたを馬鹿にしないで」
「すみません……」
「それと、勘違いしないで」
姫月さんは僕との距離を縮める。
吐息が触れそうなほど近くで、氷の瞳が僕だけを映した。
「仮交際だからといって、他の女と好き勝手に仲よくすることは許さないわ」
「仮なのにですか?」
「恋人は恋人でしょう?」
「でも、仮で……」
「何か問題がある?」
声は穏やかなのに、断れば二度と逃がしてもらえない気がした。
「返事を聞かせて、なつめくん」
姫月さんは僕の胸元へ手を置き、心臓の鼓動を確かめるように指を滑らせる。
「私の恋人になってくれるわよね?」
それが仮交際の申し出であるはずなのに、彼女の言葉はまるで永遠の契約を求めているようだった。
「え、ええええええっ!?」
夕暮れの街へ、僕の間抜けな叫び声が響き渡った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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