第2話 告白の下準備!!
僕には、好きな人がいる。
きっと簡単には叶わない恋だ。それでも、もしかしたらと願わずにはいられない。彼女の姿を見かけるだけで胸が高鳴り、名前を呼ばれただけで、その日一日が特別なものになる。
そんな、我ながら単純で、ひどく眩しい恋だった。
笹浪さんとの昼食を終えた僕は、彼女と並んで第二校舎の渡り廊下を歩いていた。
初夏の風が開け放たれた窓から吹き込み、少し乱れた笹浪さんの髪を揺らしている。午後の授業が始まるまでにはまだ余裕があり、僕たちは急ぐこともなく、静かな廊下を進んでいた。
その時だった。
曲がり角の向こうから、一つの人影が勢いよく飛び出してきた。
「わっ……!」
こちらが身を引くよりも早く、その人物も急停止する。靴底が床を擦り、甲高い音が廊下に響いた。
あと一歩でも互いに前へ進んでいれば、間違いなく衝突していただろう。
「ごめん! 急いでて、周り見てなかった!」
顔の前で両手を合わせながら、少女は快活な声で謝罪した。
軽井沢天音さん。
学校中で『五人の才女』と呼ばれている少女たちの一人だ。
陸上、水泳、球技を問わず、ほとんどのスポーツを人並み以上にこなし、助っ人として参加した大会で全国出場を決めたことさえあるという。運動部の生徒からは半ば英雄のように崇められているらしい。
健康的に焼けた褐色の肌。短くまとめられた髪から覗く端正な顔立ち。体操服の上からでも分かる引き締まった体は、同じ高校生とは思えないほど均整が取れていた。
何より、周囲まで明るくしてしまいそうな笑顔が眩しい。
僕とは、明らかに住む世界が違う人だ。
「怪我してない? どこかぶつけたりした?」
「だ、大丈夫です。触れてもいないですから」
「そっか! よかった!」
屈託なく笑う軽井沢さんに、僕は反射的に見入ってしまった。
決して下心があったわけではない。
ただ、学校中で噂になるような美少女が突然目の前に現れれば、多少は目を奪われても仕方がないと思う。
しかし、隣に立っていた笹浪さんはそう考えてくれなかったらしい。
「痛っ……」
僕の腕が、細い指で強くつねられた。
横を見ると、笹浪さんはいつもと変わらない無表情のまま、僕の腕の皮膚を摘まんでいる。
「笹浪さん、痛いんだけど」
「知らない」
「知らないって、摘まんでるのは笹浪さんだよね?」
「気のせい」
明らかに気のせいではない痛みに耐えながら、僕は軽井沢さんへ曖昧な笑みを返した。
「本当に大丈夫ですから。軽井沢さんも、急いでいるなら行ってください」
「でも、こっちの不注意だったしなぁ……」
軽井沢さんは少し考え込んだあと、何かを思いついたように手を打った。
「じゃあ、今度お礼する! 絶対だから!」
「えっ、お礼なんて――」
「またね!」
僕の返事を最後まで聞くことなく、軽井沢さんは廊下を駆けていった。
数秒もしないうちに、その背中は曲がり角の向こうへ消える。
まるで嵐のような人だった。
「相変わらず、綺麗な人だね。軽井沢さん」
思わず零れた僕の感想に、笹浪さんの指へさらに力が込められた。
「痛い、痛いって」
「綺麗なんだ」
「え?」
「何でもない」
笹浪さんは僕の腕から手を離し、ぷいと顔を逸らして歩き出した。
前髪に隠れて表情はよく見えない。それでも、どことなく不機嫌そうに見えた。
僕は理由を尋ねようとしたものの、午後の授業を知らせる予鈴が鳴り始めたため、慌てて彼女の後を追った。
※ ※ ※
放課後。
帰り支度を終えた僕は、一人で昇降口へ向かった。
周囲には部活動へ向かう生徒や、友人同士で帰ろうとする生徒たちの姿がある。僕はその誰とも言葉を交わすことなく靴を履き替え、校舎を出ようとした。
「影久なつめくん」
背後から、聞き覚えのない声がした。
それでも、呼ばれたのが自分だということだけは分かった。
この学校で僕と同じ名前の生徒がいるとは聞いたことがない。何より、姓だけでなく名前まで呼ばれている。
影の薄い僕を、いったい誰が呼んだのだろう。
不思議に思いながら振り返った瞬間、僕は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、姫月三郷さんだった。
学校を代表する『五人の才女』の一人にして、『氷の女王』と恐れられている少女。
艶のある黒髪は腰まで真っ直ぐに伸び、透き通るような白い肌との対比が、彼女の美しさをより際立たせている。整いすぎた顔には感情らしい感情がなく、切れ長の瞳が真っ直ぐに僕を見据えていた。
彼女がそこにいるだけで、昇降口の温度が数度下がったように感じられる。
周囲にいた生徒たちも、何事かと足を止めていた。
姫月さんが男子へ声をかけること自体、珍しいのだろう。ましてや相手は、学校でも有名な男子でもなければ、成績優秀な生徒でもない。
教室の背景として処理されるような僕だ。
「何を固まっているの?」
「あ……す、すみません」
「謝らなくていいわ。少し来てもらえるかしら」
拒否を許さない口調だった。
頼みというよりも命令に近い。それでも、僕に断れるはずがない。
「ぼ、僕に何か用ですか?」
「私ではないわ」
姫月さんは小さく息を吐き、僕から視線を逸らした。
「天音があなたを呼んでいるのよ」
「軽井沢さんが?」
「ええ。理由までは知らない。直接本人に聞いて」
それだけ告げると、姫月さんは返事も待たず校舎内へ戻っていった。
僕は周囲から突き刺さる好奇の視線に耐えながら、その背中を追いかける。
夕日に照らされた校舎は、本来なら暖かな橙色に染まっているはずだった。けれど姫月さんの後ろを歩いていると、凍りついた洞窟の中を進んでいるような錯覚を覚える。
足音だけが、静かな廊下に規則正しく響く。
姫月さんは一度も振り返らなかった。
「ここよ」
やがて彼女が立ち止まったのは、一年五組の教室だった。
僕とは別のクラスだ。
「軽井沢さんが、どうして僕を……」
「知らないと言ったでしょう」
「そうですよね」
「それにしても」
姫月さんは扉へ手をかけたまま、横目で僕を見た。
「あなた、本当に何も聞いていないのね」
「何のことですか?」
「……いいえ。何でもないわ」
意味深な言葉を残したまま、姫月さんは教室の扉を開けた。
放課後の教室には、ほとんど人が残っていなかった。
傾いた夕日が窓から差し込み、机や椅子の長い影を床へ落としている。その中央で、体操服姿の軽井沢さんが屈伸をしていた。
「おっ、来た来た!」
僕に気づいた軽井沢さんが、大きく手を振る。
「あ、あの……僕に何か用ですか?」
「そんな怯えなくていいって! 取って食べたりしないから!」
軽井沢さんは豪快に笑うと、準備運動をやめて僕の前まで歩いてきた。
近くで見ると、昼休み以上に圧倒される。
僕が無意識に一歩下がると、姫月さんが呆れたようにため息を吐いた。
「いやさ、昼休みにぶつかりそうになったでしょ? こっちが悪かったのに、何もせず終わるのは気持ち悪くてさ」
「でも、本当に怪我もしていませんし」
「それじゃ私の気が済まないんだよ。だから、何かお礼させて!」
「天音。そもそも、廊下を走らなければ済む話でしょう」
「反省してるって!」
「あなたの反省は三分も保たないじゃない」
「今日は五分くらい保つよ!」
「大差ないわ」
二人のやり取りを見て、僕は少しだけ驚いた。
姫月さんの冷たい言葉を、軽井沢さんはまるで気にしていない。むしろ気心の知れた友人同士のように、遠慮なく笑いかけている。
軽井沢さんは両手を腰へ当てると、僕へ向き直った。
「ということで、影久くんの願いを一つ叶えます!」
「願いを……?」
「私たちにできる範囲でね。力仕事でも、勉強でも、誰かへの頼み事でも、何でもいいよ!」
「どうして私まで含まれているの?」
「三郷も暇でしょ?」
「暇ではないわ」
「でも来てくれたじゃん」
「あなたを一人にすると、何をしでかすか分からないからよ」
姫月さんは不満そうだったが、その場から帰ろうとはしなかった。
願いを一つ叶える。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは一人の少女の笑顔だった。
神木蜜璃さん。
彼女へ気持ちを伝えたい。
けれど、今のまま告白したところで、受け入れてもらえる自信などない。そもそも、自然に想いを伝える方法すら分からない。
しかし、この学校でも指折りの有名人である二人に協力してもらえるのなら、僕にも少しくらい可能性が生まれるのではないだろうか。
都合のいい考えだとは分かっている。
それでも、僕はその機会に縋りたかった。
「あの……」
「うん?」
「笑わないで、聞いてもらえますか」
「もちろん!」
軽井沢さんは即答した。
隣の姫月さんも無言でこちらを見ている。
二人の美少女に見つめられ、口の中が急速に乾いていく。逃げ出したくなる気持ちを必死に押し殺しながら、僕は震える声で告げた。
「僕の恋を、手伝ってほしいです」
「恋?」
「……は?」
軽井沢さんが目を丸くし、姫月さんの目がわずかに細められた。
今さら後戻りはできない。
僕は顔が熱くなるのを感じながら、蜜璃さんを好きになった経緯と、告白したい気持ちを二人へ説明した。
最初こそ驚いていた軽井沢さんだったが、話を聞くにつれて、その瞳には楽しげな光が宿っていった。
一方、姫月さんは腕を組み、感情の読めない顔で僕を見ている。
「なるほど!」
すべてを聞き終えた軽井沢さんが、勢いよく机を叩いた。
「神木蜜璃さんとの恋を成就させたいってことだね!」
「こ、声が大きいです!」
「いいじゃん! 恋愛相談なんて初めてだし、燃えてきた!」
「……面倒ね」
姫月さんは露骨に眉を寄せた。
その反応は当然だと思う。ほとんど初対面の男子から、突然恋愛を手伝ってほしいと言われたのだから。
「やっぱり、無理ですよね」
「そうは言っていないわ」
「え?」
「天音がやると言い出した以上、止めても無駄でしょう。それなら、私も手伝う」
意外な言葉に、僕は思わず彼女を見つめた。
姫月さんは僕と目が合うと、わずかに顔を背ける。
「ただし、中途半端な覚悟ならやめなさい。相手に想いを伝える以上、どんな結果になっても受け入れる必要があるわ」
「……はい」
「告白する勇気がないからといって、途中で投げ出すことは許さない。それでもいいの?」
「お願いします」
僕が頭を下げると、姫月さんはしばらく黙っていた。
「分かったわ」
「珍しいなぁ。いつもの三郷なら、『面倒だから帰る』って言いそうなのに」
「そこまで冷たい人間ではないわ」
「もしかして、恋愛話が好きとか?」
「違う」
「じゃあ、影久くんに興味がある?」
「天音」
姫月さんの声が一段低くなる。
軽井沢さんは楽しそうに笑いながら、僕の背中を勢いよく叩いた。
「よし! そうと決まれば、明日から特訓開始だ!」
こうして僕は、学校でも有名な二人の美少女と、奇妙な協力関係を結ぶことになった。
この二人の力を借りれば、手の届かない高嶺の花にも、いつか手が届くかもしれない。
当時の僕は、そんな淡い期待を抱いていた。
※ ※ ※
それからの三日間は、僕にとって地獄のような日々だった。
まず姫月さんから、身だしなみを徹底的に叩き直された。
乱れた髪を整えること。制服の皺を伸ばすこと。猫背にならず、相手の目を見て話すこと。清潔感を損なう要素を一つずつ取り除き、立ち方や歩き方まで細かく指導された。
姫月さんの評価は常に厳しかった。
「背筋を伸ばして」
「は、はい」
「視線を下げない」
「でも、姫月さんの顔を見ると緊張して……」
「なら、私を神木さんだと思いなさい」
「余計に無理です」
「口答えする余裕はあるのね。最初からやり直し」
軽井沢さんからは、会話の訓練を受けた。
明るい挨拶の仕方や、話題を途切れさせない方法、緊張しても声を小さくしないこと。時には廊下ですれ違う生徒へ声をかけさせられ、そのたびに僕の精神は削られていった。
帰宅する頃には毎日、全身から力が抜けていた。
そんな僕を見かけた笹浪さんから、何をしているのかと何度も尋ねられた。
僕は告白の準備だと説明した。
すると彼女は、それ以上何も聞かなくなった。
ただ、以前よりも僕のそばにいる時間が長くなり、昼食中も頻繁にこちらを見つめるようになった気がする。
三日目の帰り際には、僕の袖を掴み、消え入りそうな声で告げた。
「告白なんて、しなくてもいいと思う」
その理由を尋ねても、笹浪さんは答えなかった。
そして月が替わり、七月。
告白すると決めた日が訪れた。
朝から心臓が落ち着かず、授業の内容もほとんど頭に入らなかった。それでも、姫月さんと軽井沢さんの期待に応えたいという気持ちが、逃げ出しそうになる僕をどうにか教室へ繋ぎ止めていた。
放課後になったら、蜜璃さんを呼び出す。
そして、自分の気持ちを伝える。
何度も頭の中で練習した言葉を思い返しながら、僕は蜜璃さんへ声をかける機会を窺っていた。
ところが、昼休みが終わる直前。
僕が話しかけるより先に、蜜璃さんのほうから僕の机へやってきた。
「ね、ねえ、影久くん」
いつも明るい蜜璃さんらしくない、どこか落ち着かない声だった。
「は、はい! どうしました?」
蜜璃さんは胸の前で指を絡ませ、頬を薄く赤らめている。
視線は何度も僕から逸れ、それでも決意したようにこちらへ戻ってきた。
その姿はまるで、好きな相手を前にした少女のようだった。
「あのね。今日の放課後、時間あるかな?」
「あります」
考えるより早く、言葉が口から飛び出していた。
蜜璃さんは驚いたように瞬きをしたあと、恥ずかしそうに笑った。
「よかった。少しだけ、付き合ってほしいんだけど」
「もちろんです」
僕の胸は、これまでにないほど激しく高鳴っていた。
もしかすると、姫月さんか軽井沢さんが何かしてくれたのかもしれない。あるいは蜜璃さんも、僕に伝えたいことがあるのかもしれない。
期待するなと言い聞かせても、都合のいい想像ばかりが膨らんでいった。
恋の神様。
本当に存在するのなら、ありがとうございます。
この時の僕は、心の底からそう感謝していた。
けれど、神様など最初からどこにもいなかった。
僕に差し伸べられたように見えたその手は、救いでもなければ、恋の始まりでもない。
ただ僕を高い場所まで持ち上げ、より深く傷つけるために用意されたものだった。
放課後に待っていた出来事を知った僕は、恋の神様に願った自分の愚かさを、嫌というほど思い知らされることになる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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