第1話 恋の神様……いますか?
「おはよ、影久くん!」
朝の喧騒に満ちた教室で、不意に僕の名前を呼ぶ明るい声が響いた。
自分が呼ばれたのだと理解するまで、ほんの少し時間がかかる。なにしろこのクラスで、わざわざ僕に声をかけてくる人間など、ほとんどいないからだ。
顔を上げると、僕の机の前に神木蜜璃さんが立っていた。
肩口で柔らかく揺れる鮮やかな茶髪。誰に対しても物怖じしない凛とした立ち姿。そして、教室の窓から差し込む朝日さえ霞ませてしまいそうな整った顔立ち。
入学して間もなく、クラスの男子たちから『マドンナ』と呼ばれるようになった少女だ。
「お、おはようございます。蜜璃さん」
「もう。クラスメイトなんだから、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
蜜璃さんは可笑しそうに笑いながら、僕の机に両手をついた。
ふわりと甘い香りが漂ってきて、僕の心臓が無駄に大きな音を立てる。顔に出ないよう平静を装っているつもりだったけれど、どうやら上手くはいかなかったらしい。
「また緊張してる?」
「してません」
「嘘。目が泳いでるよ?」
「これは、その……朝だから、視力がまだ起きていなくて」
「なにそれ。影久くんって、たまに面白いこと言うよね」
くすくすと笑う蜜璃さんを前にして、僕はますます顔を熱くした。
僕には友達がいない。
別に周囲から嫌われているわけではないと思う。ただ、僕は昔から人付き合いが苦手で、自分から誰かに話しかける勇気もなかった。
休み時間になれば一人で本を読み、移動教室では誰とも並ばず、昼食も人目につかない場所で済ませる。
そんな影の薄い僕に、入学当初から何度も声をかけてくれたのが蜜璃さんだった。
最初は、たまたま席が近かったから。
次は、僕が落とした消しゴムを拾ってくれたから。
その次は、授業で分からないところがあるから教えてほしいと言われた。
そうして一度、二度と会話を重ねるうちに、蜜璃さんは毎朝のように僕へ挨拶をしてくれるようになった。
高校に入学して、およそ二か月。
彼女の笑顔を近くで見ることが日常になり、声をかけてもらえることを期待しながら登校するようになった頃には、僕はすっかり蜜璃さんを好きになっていた。
我ながら単純だと思う。
けれど、誰からも見向きもされなかった人間にとって、自分を見つけてくれる存在というのは、それだけで特別になってしまうものなのだ。
蜜璃さんだけが、僕を教室の風景ではなく、一人の人間として見てくれた。
だから僕は、彼女が好きだ。
胸の内に抱えているこの想いを、いつか伝えられたらいい。
そんな浮ついたことを考えていると、廊下のほうから突然、ざわめきが聞こえてきた。
「来たぞ」
「今日もすげえな……」
「五人揃ってるの、久しぶりじゃない?」
教室にいた生徒たちの視線が、一斉に廊下へと集まる。
僕もつられるように顔を向け、思わず目を細めた。
朝日に照らされた廊下を、五人の女子生徒が並んで歩いている。
学年どころか、学校中に名前を知られている少女たちだった。
学年首席を一度も譲ったことがない才女。
全国大会への出場経験を持つ運動部のエース。
読者モデルとして雑誌に掲載されたことのある女子生徒。
教師からの信頼が厚い生徒会役員。
そして、その中心を歩いているのが、姫月三郷さんだった。
腰まで伸びた艶やかな黒髪と、雪のように白い肌。長い睫毛に縁取られた瞳は鋭く、近寄り難いほどに端正な美貌を持っている。
その冷淡な雰囲気から、ついたあだ名は『氷の女王』。
本人が他人と親しく話す姿を見た者はほとんどおらず、男子から告白されても、表情一つ変えずに断るという噂まである。
住む世界が違う。
僕とは一生関わることのない人たちだ。
そう思いながら眺めていた、その時だった。
姫月さんの顔が、わずかにこちらへ向けられる。
冷たい瞳が、僕を真っ直ぐに捉えた。
「……っ」
背筋に、氷でも差し込まれたような寒気が走った。
単に視線が重なっただけではない。
睨まれている。
明確な敵意――とまでは言い切れないものの、少なくとも好意的ではない鋭さが、その瞳には宿っていた。
僕、姫月さんに何かしただろうか。
会話をした覚えすらない。そもそも、彼女が僕の名前を知っている可能性さえ低いはずだ。
戸惑いながら記憶を探っていると、突然、視界が茶色い髪に遮られた。
「影久くん」
蜜璃さんが、僕と廊下の間に割って入っていた。
先ほどまでと同じ笑顔を浮かべているものの、声にはどこか探るような響きが混じっている。
「あの中に、好きな人でもいたの?」
「えっ?」
「ずっと見てたから」
蜜璃さんは冗談めかして首を傾けた。
けれど、その瞳は僕の顔から離れない。
「そ、そんなわけないですよ!」
僕は反射的に、勢いよく首を横に振った。
「僕には、その……もう、心に決めている人がいますから」
「心に決めてる人……?」
蜜璃さんの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
それはあまりにも短い変化で、次に瞬きをした時には、いつもの明るい表情に戻っていた。
「そっか」
蜜璃さんは僕の机から手を離し、胸の前で指を組む。
「叶うといいね、その気持ち」
「はい。ありがとうございます」
「……うん。ちゃんと叶うといいね」
二度目の言葉は、一度目よりも小さかった。
まるで自分自身に言い聞かせているような声だったけれど、その時の僕は緊張のあまり、深く考えることができなかった。
蜜璃さん本人に、あなたのことですと伝える勇気さえあれば。
僕の高校生活は、きっとこの瞬間から大きく変わっていたのだろう。
けれど臆病な僕は、胸の奥にある想いを飲み込んだまま、彼女の笑顔を見つめることしかできなかった。
廊下へ目を向けると、姫月さんたちの姿はすでに消えていた。
ただ、先ほど向けられた冷たい視線だけが、妙に胸の内へ残り続けていた。
※ ※ ※
昼休み。
教室ではいくつものグループが机を寄せ、弁当を広げていた。
笑い声と話し声が飛び交う中、僕は弁当袋を手に、誰にも気づかれないよう教室を出る。
向かったのは、現在ではほとんど使用されていない第二校舎だった。
古い校舎へ続く渡り廊下を進むにつれ、生徒たちの賑やかな声が遠ざかっていく。第二校舎は特別教室が中心で、昼休みに足を運ぶ生徒は少ない。
階段を上がり、廊下の最奥にある空き教室の扉を開ける。
「お待たせ、笹浪さん」
窓際の席に、一人の少女が座っていた。
手入れをしていないのか、肩まで伸びた茶髪はあちこちに跳ねている。長い前髪の隙間から覗く瞳は眠たげで、いつ見ても気力が感じられない。
笹浪寿羽さん。
一か月ほど前にこの学校へ転校してきた、僕のクラスメイトだ。
「うぅん。私も今来たところだから」
「それならよかった」
僕は彼女の隣の席へ腰を下ろし、弁当袋から弁当箱を取り出した。
笹浪さんは転校初日からクラスに馴染めず、休み時間になるたび一人で過ごしていた。そんな彼女を心配した担任が、同じく一人でいることの多い僕に声をかけたのが、僕たちが話すようになったきっかけだ。
『影久、笹浪に学校のことを教えてやってくれ』
僕に人の世話を任せるなんて、先生も随分と思い切ったことをする。
当初はそう思っていたけれど、笹浪さんとは不思議と話が合った。
互いに大人数が苦手で、静かな場所を好み、無理に会話を続けようとしない。沈黙が訪れても気まずくならない相手というのは、僕にとって貴重だった。
彼女に恋愛感情はない。
似た者同士としての親近感と、友人としての好意があるだけだ。
少なくとも、僕はそう思っている。
「ねえ、なつめくん」
笹浪さんは弁当箱の蓋を開けながら、僕の名前を呼んだ。
僕の名字は影久で、名前はなつめ。
クラスでは名字で呼ばれることが多い中、彼女だけは初めて会った時から僕を名前で呼んでいる。
「まだ、神木さんに気持ちを伝えてないの?」
「……うん。まだかな」
「どうして?」
「どうしてって言われても……怖いから」
僕は箸で卵焼きを摘まみながら、曖昧に笑った。
「蜜璃さんはクラスの人気者で、僕は友達すらいない。どう考えても釣り合わないよ。僕にとっては、高嶺の花みたいな人だから」
「でも、神木さんはなつめくんによく話しかけてる」
「蜜璃さんは優しいからね。僕みたいな人間を放っておけないだけだと思う」
「……そうかな」
「そうだよ」
自分で口にして、胸の奥が少しだけ痛んだ。
蜜璃さんが僕に声をかけてくれる理由を、僕は知らない。
特別な意味があるのではないかと期待したことも、一度や二度ではなかった。けれど、それはきっと僕に都合のいい想像だ。
彼女は誰にでも優しい。
僕が勝手に好意を抱き、勝手に期待しているだけなのだ。
「私が神木さんだったら」
笹浪さんが、弁当箱へ視線を落としたまま呟いた。
「なつめくんでも、いいと思うけど」
「笹浪さん」
「なに?」
「それを思春期真っ只中の男子高校生に言うのは、あまりよくないよ」
「どうして?」
「勘違いするから」
できるだけ冗談めかして答えると、笹浪さんはゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗く瞳が、僕を真っ直ぐに見つめている。
普段は何を考えているのか分からない彼女が、珍しく真剣な表情をしていた。
「勘違いじゃないのに」
「え?」
「……なんでもない」
聞き返した途端、笹浪さんは僕から顔を背けた。
白い頬が、わずかに赤くなっているように見える。
「今、何か言った?」
「言ってない」
「でも――」
「聞こえなかったなら、言ってないのと同じ」
それだけ言うと、笹浪さんは会話を拒むように黙々と弁当を食べ始めた。
僕は首を傾げながらも、それ以上追及することはしなかった。
窓の外では、初夏の穏やかな風に揺られ、校庭を囲む木々の葉がさらさらと音を立てている。
恋の神様。
そんな都合のいい存在が、本当にこの世界にいるのなら。
どうか僕の願いを、一つだけ聞いてほしい。
僕の想いが、いつか蜜璃さんへ届きますように。
彼女の隣に立つことを許される日が、いつか訪れますように。
この時の僕は、本気でそう願っていた。
自分の恋心が、これからどれほど無残に踏みにじられるのかも知らずに。
そして、傷ついた僕を巡って、学校中の注目を集める美少女たちが動き始めていることにも、まだ気づいていなかった。
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