99. 報せ
リビングに入ると、異様な光景が広がっていた。
いつも背筋を伸ばしていて隙を見せないセラさんが、ソファに深く沈み込んでぐったりとしている。
淹れたての紅茶はテーブルに置かれてたまま、白い湯気が力なく揺れていた。
その向かい側ではクロスタが腕を組み、目を閉じたまま微動だにしない。
その目元には濃い隈が落ちていた。
まるで、激しい戦いから生還した直後のような重い空気だ。
そんな中、一人だけテンションが高いのがルミナだった。
「たー坊が帰ってきたよ! セシルたんも一緒!」
「お邪魔します。というか、どうしたんだこの二人。死体みたいになってるけど」
「それが、ちょっと頭を使いすぎちゃったみたいでさー」
ルミナはからからと笑う。
「で、解析は終わったのか?」
「うんっ! ばっちり!」
「本当か!? じゃあ、これで帰るための術式が……」
思わず身を乗り出した。
ルミナは自慢げに胸を張り、「ふふん」と鼻を鳴らす。
「ボク一人じゃ流石に時間がかかりそうだったから、取り出した後の解析はセラたんとクロスタ先生にも手伝ってもらったんだ。三人で徹夜して、さっきようやく再構築が完了したところ!」
「なるほど……それで二人はこの状態なのか」
天才技師三人がかりで徹夜。
それでこれほど疲弊しているのだとしたら、よっぽどの作業だったに違いない。
「馬鹿げているわ」
不意に、目を閉じていたクロスタが低く呟いた。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、充血した目で俺を見る。
「時間跳躍の術式。その規模と複雑さは、これまでに類を見ないレベルだったわ。さすがの私も骨が折れた。あれを女神の娘——というか古代人は脳の演算だけでリアルタイムに行うなんて」
「あー……まあ、そうらしいな」
俺自身は何もできない無能者だ。実感なんて湧くはずもない。
でも、元の時代で能力者たちが使う魔法の理屈なら知識として知っている。
「魔法ってのは、よく『折り紙』に例えられるんだ」
「折り紙?」
「ああ。紙の大きさがマナの規模だとして。頭の中で完成品をイメージしながら、それに合わせて紙をどう折るか、その手順を即席で考えて実行するようなもの……らしい」
俺の説明を聞いて、ソファに沈んでいたセラさんが小さく、本当に小さく息を吐いた。
「その例えを借りるなら、今回の術式は地球くらいの大きさの紙を使って、ミリ単位の狂いもなく巨大な神殿を折り上げるようなものです」
「地球サイズ……」
さすがに想像を超えている。
リゼのやつ、そんなとんでもないことを頭の中でやってのけていたのか。
「まあ、そのあり得ないのをギアで使えるように組み直してくれたんだろ? 本当にありがとう。でも、その割にルミナは元気そうだな。三人とも徹夜なんだろ?」
俺が首を傾げると、ルミナの動きがピタリと止まった。
そして、ジト目になって俺を見上げてくる。
「……たー坊。ボクが元気そうに見える?」
「え? まあ、普段通りテンション高いし」
「無理してるに決まってるよ!」
ルミナは両手で自分の頬をベチッと挟んだ。
「言ったよね!? メモリーの解析って、たー坊が経験した死にそうな瞬間の絶望とか恐怖とか、そういう見たくないものを特等席で見ることだって! もうメンタルはボロボロだよ! 昨日の夜なんて、気持ち悪くて晩ご飯食べられなかったんだからね!」
「あ……ごめん。本当に、悪いと思ってる」
まず間違いなく、あの極北での戦いは追体験させられたはずだ。
それだけじゃない。もしかしたら元の時代に帰ったときのことまで覗かれたのかもしれない。
果たしてルミナはどこまで見たんだろうか。
「ボクたちはたー坊のためを思って徹夜してたのに」
ルミナのジト目が、さらに鋭さを増す。
「そんな中で、何の連絡もなくお泊りして、セシルたんと二人で楽しそうに朝帰りしてるし」
「なっ!?」
「ええ。随分と清々しいお顔をされていますね、ソウタさん」
ぐったりしていたはずのセラさんがいつの間にか背筋を伸ばし、冷ややかな目をこっちに向けていた。
クロスタに至ってはもはや汚物を見るような目だった。
「ち、違う! 色々あって、討伐にも参加してきたんだ。別にやましいことなんて何も……! なあ、セシル?」
「そうですね。ソウタさんの言うとおりです。今回は特に何もなかったですよ」
「ふーん。まあ、いいけどねー。たー坊がチョロいのは、もう今となっては当たり前だし。柳は緑花は紅たー坊チョロしって言うくらいだし」
「言わねえよ! 何場違いなもん付け足してんだよ。きれいな言葉が台無しじゃねえか」
暖かいはずのリビングなのに、その空気は雪の残っていた“外”よりも冷たく感じられた。
「あ、あのさ! とにかく術式が完成したなら、これで元の時代に帰れるんだよな?」
俺は必死に話題を本来の目的へと引き戻した。
だが、その言葉を口にした瞬間。
ルミナの顔から、からかうような色がすっと消えた。
「えっと、うん。まあ……帰れるよ。理論上はね」
クロスタが億劫そうに口を開き、腕を組み直す。
「解析して分かった。この術式には、ひとつ絶望的な問題があるの」
「絶望的な……問題?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「ええ。これを実行すれば、あなたは確実に——」
「ただいまー」
クロスタの声を遮るように、玄関のほうから明るい声が響いた。
がちゃりとリビングの扉が開き、大きな袋を両手に抱えたヒルダさんが姿を現す。
「あら、セシルちゃん。おかえりなさい」
「ただいま戻りました、ヒルダさん」
セシルが立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
ヒルダさんは袋をテーブルの端に置き、それから俺の方へと視線を移した。
「ソウタさん。久しぶりね、いらっしゃい」
穏やかな微笑み。
それを見た瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。
忘れるはずがない。
あの出発の夜、俺はこの人に「ルミナの同行を断る」と約束した。
それなのに、俺はその約束を守れなかったどころかルミナを危険にさらし、あまつさえ命を落とすところだったのだ。
顔向けできるわけがない。
「あの……ヒルダさん」
両手を膝の上で固く握りしめ、ゆっくりと頭を下げる。
「ルミナのこと……本当に、申し訳ありま——」
「セシルちゃん、大丈夫?」
俺の言葉に被せるように、ヒルダさんは心配そうな面持ちでセシルに顔を近づけた。
明らかに、俺の謝罪をわざと遮ったみたいだった。
「疲れてない? スティグさんに意地悪されたりしてない?」
「えっ? あ、いえ、大丈夫です。とてもよくしていただいてます」
「そう? ならいいんだけど。あの人、昔から口下手で不器用だから、若い子をいじめてないか心配でねえ」
クスクスと笑いながらセシルと話し込むヒルダさん。
俺は頭を下げた中腰の姿勢のまま、置いてけぼりを食らっていた。
謝罪の言葉は喉の奥に引っかかり、行き場を失っている。
俺の戸惑いを察したのか、セシルが小さく手招きをした。
「あの、ソウタさん。私、こっちに異動してきてからずっとヒルダさんのご厚意でこの家にお世話になっているんです」
「そうだったのか?」
「はい。セラさんも。私のギアのメンテナンスのために、一緒にこちらに滞在していて」
「二人ともすっごくいい子。ずっとうちに居ていいのよ」
「ありがとうございます。私も一人暮らしが長かったので、懐かしい感じがして嬉しいです」
そういえば、セシルは中央では一人暮らしだったんだ。
ルミナの実家が受け入れてくれて、本当に良かった。
「ソウタさん」
「は、はいっ!」
ヒルダさんに声をかけられ、思わず声が裏返る。
「あの日、ルミナのわがままを許したのは私です。無事旅立てるよう、お手伝いもしました。ですから、あなたが気に病む必要はありません」
「ですが……」
ヒルダさんなりの気遣いだと、頭ではわかっている。
でも、素直に頷けない。
浅はかな考えで娘を危険な目に合わせた俺なんかが甘えていいはずない。
「この話は終わり。そんなことより、あなたには別に気にしてほしいことがあるの」
「別に……?」
「ええ。思わせぶりな態度でうちの娘がその気になったらどう責任をとるつもりなのか、そこをはっきりしておいてもらわないと」
えっと……そう来る?
この手の話はさっきまでで終わったんじゃなかったのか?
「そ、それは……」
「ちょっとママ! 何言ってるの!? ボクがたー坊になんて、あるわけないよ!」
全否定。
前にも似たようなことを言われた気がするけど、やっぱり傷つくぞ。
「大体、たー坊にはマリアっちがいるんだから」
「マリアって、あの気の強そうな子?」
「そうだよ。なんせ、女神様のもとへ向かう途中にチューしようとしてたんだから!」
「ちょ、何言ってんだお前!」
ヤバい。
コイツ、絶対見てる。
メモリーの解析であの時のことを。
「へえー」
口元を緩ませるヒルダさん。
セシルは……目を見開いてこちらを見ている。
ほかの二人は何も言わず、ゴミでも見るような視線を向けていた。
地獄だ。
控えめに言って地獄だ。
早くここから脱出しなければ。
「なぁ、ルミナ」
一刻も早く場の空気を変えたくて、強引に話を戻す。
「さっきの話だけど。術式の抽出ができたってことは、俺は元の時代に帰れるってことだよな?」
ルミナがビクッと肩を揺らす。
視線を泳がせながら、クロスタの方をちらりと見た。
クロスタは重くため息をつき、視線を逸らした。
「……う、うん。まあ、そうだね」
「よし」
俺は勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、さっそく準備して試してみる。今すぐだ」
「ええっ!?」
ルミナが慌てて両手を振る。
セシルも驚いたように目を丸くして立ち上がった。
「ちょっと待って、たー坊! いきなりすぎるって!」
「そうです、ソウタさん! いくらなんでも急すぎます!」
「でも、もたもたしてる暇はないんだ」
いつまでもここでのんびりはしていられない。
一刻も早くあの時代に戻らないと。
「そんなに急いでどうするのよ」
ヒルダさんが俺の肩にそっと手を置いた。
「せっかく来てくれたんだから。せめて今日くらい、ゆっくり泊まっていきなさい。美味しいご飯、たくさん作るから」
「でも……」
「ダメよ。こんな疲れた顔で帰っても、大切な人を守れないわよ」
その言葉に、喉まで出かかった言い返しが引っ込んだ。
「……分かりました。お言葉に甘えます」
その日の夜。
日付が変わる頃には、家の中はすっかり寝静まっていた。
俺はリビングのソファで毛布にくるまり、暗闇の天井を見つめていた。
目を閉じると、マリアがブラックホールに飲み込まれる瞬間がフラッシュバックする。
そして、クロスタが言いかけた言葉。
『絶望的な問題』っていったいなんだ。
……だとしても、やるしかないんだ。
眠れない。そう思って寝返りを打った、その時だった。
「……ソウタさん!」
バサッ、と毛布が剥ぎ取られる。
肩を激しく揺さぶられ、俺は弾かれたように上半身を起こした。
「うおっ!? な、なんだ!?」
暗がりの中にセシルが立っていた。
部屋着のまま肩で荒く息をしている。
「一体どうしたんだ。こんな夜中に……」
尋ねる俺の腕を、セシルが震える手で強く掴んだ。
「ソウタさん……起きてください。緊急事態です」
上擦った声。余裕なんてなかった。
「討伐隊の拠点が……魔物の急襲を受けて、壊滅状態に陥っているって。緊急の応援要請が……!」




