98. 届かない世界
賑やかだった食堂の喧騒も、夜が深まるにつれて静かに引いていった。
隊員たちは明日の任務に備え、それぞれの個室へと引き上げていく。
それにしても、このキャビリンの収容力には改めて驚かされる。
広い食堂や談話スペースだけでなく、二十名分の個室まで完備されているそうだ。
空間圧縮技術の粋を集めたとはいえ、これだけの設備をポケットサイズのキューブに収められるんだから、大したものだ。
ルミナがスティグに半ば強引に買わせたというのも、あながち間違ってない気がする。
これがあるのとないのとでは、遠征の疲労度が天と地ほど違う。
俺とセシルは居住エリアの奥にあるスティグの執務室へ向かった。
挨拶と、本日の討伐の報告を兼ねてのことだ。
ノックをして扉を開けると、部屋の奥でスティグが一人、書類に目を通していた。
椅子に深く腰掛けているというのに、他者を寄せ付けない空気は寸分も緩んでいない。
「遅い時間にすみません。本日はありがとうございました」
俺が頭を下げると、スティグは書類から視線を上げ、短く顎を引いた。
「無事に合流できたようで何よりだ」
「はい。それにしても」
俺は隣に立つセシルをちらりと見た。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。
「セシルがあそこまで強くなっているなんて、本当に驚きました。あのフロストベヒモスを二体も、一瞬で……」
「いえ、そんな……私なんて、まだまだです」
セシルが慌てて両手を振る。
「スティグさんのご指導のおかげです。私一人の力では、ここまで動けるようにはなれませんでしたから」
スティグは謙遜するセシルを一瞥した後、再び書類に視線を落とし、淡々と言い放った。
「私は何もしていない。あのゲイルの娘だ。最初から、私が教えるようなことなど何一つない」
ゲイル。
セシルの父親であり、過去のノクセイアで絶望的な戦いを繰り広げた、あの圧倒的な大剣使い。
ヴァンガードの歴代最強と謳われた伝説の男だ。
「スティグ支部長は、セシルの親父さんをご存じなんですか?」
俺の問いにスティグは書類をめくる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その鋭い眼光が、何かを思い出すように遠くを見つめる。
「ああ。一度だけ手合わせをしたことがある」
一度だけ。
果たしてどちらが強かったのだろうか。
あの黒槍の芸術的な一閃と、ゲイルの豪快かつ神速の大剣。
頭の中で二人の激突を勝手に想像する。
「初めて知った。世の中には、逆立ちしても届かぬ世界があるのだと」
ドキリとした。
思考が完全に顔に出ていたらしい。
慌てて表情を取り繕おうとしたが、スティグの眼差しは俺を咎めるようなものではなかった。
あのスティグが逆立ちしても届かないとあっさり認めるほどの圧倒的な実力差。
過去のノクセイアの記憶で、グリムハルトの重力に抗い大剣を振り回していた彼の姿を思い出す。
あの理不尽な次元の戦いに足を踏み入れていた男だ。
当然と言えば当然なのかもしれない。
スティグは視線をセシルへと移した。
「息子がいるのは知っていたが、娘もここまでとは。私を現役最強などと称す者もいるが、そんなものはとうの昔に虚構となっていたようだな」
「スティグさん……」
セシルは目を丸くしたあと、表情を引き締めると、深くお辞儀をした。
「あの……」
少しの沈黙のあと、セシルが再び口を開いた。
「ソウタさん、無事に戻ってきてくれたんですね。でも……リゼさんは?」
彼女の視線が、俺の隣の空いた場所を彷徨う。
俺が戻ってきてからずっと、セシルは気にかけていたのだろう。
いつも俺のそばで、時には保護者のように、時には手のかかる妹のように引っ付いていた、リゼがいないことを。
「リゼは多分、元の時代に残ったままだ。あの弟……レオンと決着をつけるつもりだと思う。だから俺も戻る。……あいつを助ける。一人にはしておけないから」
「女神の娘か。……残念だったな」
不意にスティグが低く重い声で呟いた。
——残念。
そうか、この人も知ってる。
女神が消滅したこと、そしてリゼがその悲劇を目の当たりにしたことを。
この世界を支えていた柱が、すでに失われていることを。
「女神とは、会話はできたのか」
スティグがペンを置いてこちらを真っ直ぐに見た。
その鋭い眼光の奥が、ほんのわずかに揺れた気がした。
「ええ……少しだけですが」
「そうか」
スティグは椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「これで奴も、少しは報われたか」
「……奴って、ルミナの親父さんのことですか?」
俺の問いに、スティグは窓の外、分厚い壁の向こうに広がる雪原へ遠い目を向けた。
「あいつは、外で魔物に襲われて死にかけていたところをヒルダに拾われたんだ。記憶を失っていてな。自分の名前すら分からない状態だった」
「記憶喪失……?」
「ああ。だが、マギアに関する知識だけは異常なほどに残っていた」
スティグはさらに続けた。
「そして、何かに取り憑かれたように繰り返していた。あの天の柱に行かねばならない、と」
記憶はなくとも、そこに大事な何かがある、そう強く感じていたってことだ。
つまり、ルミナの親父さんは女神と関係がある……?
一体何者なんだ。
考えに耽っていると、スティグが視線をセシルへと戻した。
「セシル」
「はい」
「明朝、ソウタと共に街へ戻れ」
「えっ……?」
唐突な指示に目を瞬かせるセシル。
「でも、まだ任務が残っています」
「旧友との再会だ。休め」
有無を言わせぬ短い命令。
素っ気ない言葉だったが、心なしか声の抑揚はいつもより柔らかい気がした。
セシルは少し戸惑ったように俺を見たが、やがて諦めたのか深くお辞儀をした。
「……分かりました。ありがとうございます」
翌朝。
俺とセシルはロムサの街へ戻ってきた。
転移ステーションから街の通りを抜ける。
「なんだか、不思議な気分です。思えば平和な時にこんな風にソウタさんと並んで歩くなんて、初めてですよね」
セシルが少しはにかむように笑う。
ショートヘアが風に揺れる。その横顔からは戦場で見せる緊張感がすっかり消えていた。
「たまにはこういうのも悪くないだろ。それにしてもルミナのやつ、大丈夫かな。ギアの解析ちゃんと進んでるといいけど」
「きっと、寝る間も惜しんで頑張ってくれていると思いますよ」
そんな会話を交わしながら、俺たちはルミナの家の門をくぐった。
センサーが反応し、玄関の扉がガチャリと開く。
「帰って来たー! ……って、お?」
出迎えてくれたルミナはいつものダボダボの白衣を羽織っていた。
昨日のお嬢様モードは一日限定だったのだろうか。
ルミナは玄関先に並んで立つ俺とセシルを交互に見比べた。
そして、ニヤリと最高に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「夕べはお楽しみ……?」
「違うわ!!」
俺の全力の叫びが、春空に虚しく響き渡った。




