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96. 白銀の妖精

 ヒュッ、と風が鳴った。

 視界の端で、岩陰に潜んでいた影が音もなく跳躍する。

 鋭い牙が俺の首筋へ迫る。


 だが、その軌道は見えていた。


 半歩だけ軸足をずらし、牙を躱す。

 同時に、握っていた剣を一閃させた。


 硬い手応えの後、獣の首が胴体から離れ、宙を舞う。

 地面に転がったハイドウルフの身体は、瞬く間に黒い霧となり空気に溶けて消えた。


「やるねえ、あんちゃん」

「無駄がないね。あなた本当にフリー?」


 背後から、感心した声が飛んできた。

 声の主は俺と一緒に歩いていた三人の男女——いずれも、ヴァンガードの隊員たちだ。


 現在、俺はロムサの街の“外”を歩いている。


 事の起こりは、セシルに会うためロムサ支部を訪ねた時のことだった。

 受付で彼女の居場所を尋ねたところ、


『今は本隊と一緒に外へ出ている。人員が足りないから、合流して手伝ってきてくれないか』


 と、半ば強引に任務へ放り込まれてしまった。


 道案内役として三人が同行してくれたおかげで、道中はそれなりに気が楽だった。

 彼らは俺と同じくフリー所属で、小遣い稼ぎのためにロムサまで出稼ぎに来ているという。


 ただ、一つ大きな誤算があった。

 解析の為、“無限の手《インフィニティ・ハンド》”は、ルミナに預けてしまっている。

 支部で予備の汎用ギアを借りることはできたけど、あのチート級の相棒に比べると心許ない。


 どうせなら、預ける前にセシルに会いに行くべきだった。


「どうしたの? 浮かない顔して」


 チームの紅一点である女性隊員が、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。


「あ、いや。汎用ギア(これ)、本来の相棒じゃないからさ。街の外に出るなら持ってくればよかったなって」

「ふうん。でもさっきの太刀筋、すごく綺麗だったよ。普段から使い慣れてるって感じ」


 ありがたいけど、残念ながら剣術の心得なんてない。

 ただ、人よりマナが多いおかげで汎用ギアの性能を最大限引き出せてるってだけだ。

 それに、ハイドウルフとはつくづく縁があり、戦い慣れてるのもある。


 思えば、ハイドウルフと戦うのってフォルテリアでセシルと行動した時以来だな。


 セシル。


 その名前を思い浮かべると、少し足取りが軽くなった気がした。


 ルミナの話によると彼女は今、あの化け物じみた強さを誇るスティグ支部長に師事しているらしい。

 既にヴァンガードのエースとして絶対的な実力を持つ彼女が、あのスティグに鍛えられたら、一体どうなってしまうのか。


 想像するだけで空恐ろしくもあり、同時に楽しみでもあった。


「……そろそろ、目的地が近いわよ」


 女性隊員が手元の端末を操作しながら声を上げた。

 画面には討伐本隊の現在位置を示すマーカーが点滅している。


「あの尾根を越えれば、合流できるはず」

「了解。さっさと終わらせて、本隊のキャビリンで旨いメシでも食おうぜ」


 大柄な男の隊員が笑いながら伸びをした、その時だった。


 ——グオォォォォォォッ!!


 空気をびりびりと震わせる、地鳴りのような咆哮。

 鼓膜を殴られたような衝撃に、俺たちは一斉に動きを止めた。


「……ッ、なんだ今の!?」

「魔物だ!」


 即座に隊員たちが武器を構える。

 俺も慌てて汎用ギアを構え、気配のした方向――前方の雪と岩が入り交じる荒野の彼方を睨みつけた。


 遠く、視界の端に小さな白い影が見えた。

 点にしか見えなかったその影が、信じられない速度でこちらへ近づいてくる。

 雪煙を高々と巻き上げ、大地を削り取るような凄まじい勢いだ。


「おい、冗談だろ……! あいつは……」


 優男の隊員が引き攣った声を漏らす。


 瞬きをする間に、その影は輪郭をはっきりと認識できる距離まで迫っていた。


 見上げるほどの巨体。

 全身を分厚く覆う、青白い氷の鎧。

 地面を揺らす四肢と、凶悪な牙。


 忘れるはずがない。

 一年前、ルミナの母、ヒルダさんとスティグの連携でようやく倒すことができた、極北の絶対的強者。


「フロストベヒモス……!」


 なんでこんなタイミング——無限の手(ギア)がない時に限って、こんな大当たりのハズレくじを引くんだよ。


「散開しろ!! 正面から当たるな!」


 大柄な隊員が叫び、俺たちは咄嗟に左右へと飛び退いた。

 直後、俺たちがつい数秒前まで立っていた場所を、氷の巨体が新幹線のような速度で駆け抜けていく。

 凄まじい風圧と飛び散る氷塊が、頬を容赦なく切り裂いた。


 ズシンッ! と大地を揺らして急停止したフロストベヒモスが、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その濁った瞳が、獲物を定めるように俺たちをねめつけていた。


「おいおい……マジかよ。勝てるのか、これ」


 背中を冷たい汗が伝った。


「落ち着いて、お兄さん」


 隣で女性隊員が敵から目を離さず冷静に告げた。


「確かに厄介な相手だけど、幸い雪はそこまで深くない。奴の得意な地形戦に持ち込ませず、連携して対処すれば十分に狩れる相手よ」


 彼女の言葉に、残りの隊員も短く頷いた。

 その顔に恐怖はなく、むしろ稼ぎ時だと言わんばかりにそれぞれのギアにマナを流し込んでいる。


 稼ぎのためとはいえ、すすんでこんな危険地帯に来ているだけはある。

 俺みたいなにわか仕込みとは腹の括り方が違う様だ。


「俺とあんたで撹乱する。大将がチャージを終えるまでの時間稼ぎだ。行くぞ!」


 優男の隊員が短剣型のギアを構え、ベヒモスの側面へと走り出す。


 ——やるしかない。


 柄を握る手がじわりと汗ばむ。

 一度だけ深く息を吐き、俺も腹をくくった。


 手にした汎用ギアにマナを注ぎ込む。

 瞬時に、歴戦の剣士の感覚が身体に上書きされる。

 指先の震えが止まり、視界が鮮明になった。


「グオォォォォッ!!」


 咆哮と共に氷の巨腕が薙ぎ払われる。

 俺は姿勢を低くしてその一撃を潜り抜け、ベヒモスの懐へ踏み込んだ。

 硬い氷の装甲の隙間、わずかに露出した関節を狙い、刃を滑らせる。


「ガァッ!」


 浅いが、確かな手応え。

 怒り狂ったベヒモスがこちらを振り返るが、死角から優男の隊員が斬り込み、すぐさま離脱する。

 さらに後方からは女性隊員の放つ光弾が絶え間なく降り注ぎ、ベヒモスの意識を散らしていた。


「すげえな、あんちゃん。汎用でそんな動きができるなんて、どうなってんだ?」


 すれ違いざま、優男の隊員が感嘆の声を漏らす。


 凄いのはこのギアであって俺じゃない。

 そう思いつつ、悪い気はしなかった。


「今だ! いけっ!」


 女性隊員の放った一際大きな光弾が、ベヒモスの鼻面を正確に捉えて炸裂した。


「グギャァァァッ!!」


 視界を奪われ、巨体が大きくよろめく。


「もらったァッ!」


 後方でマナを限界まで溜め込んでいた大柄な隊員が、巨大な剣型ギアを振りかざす。


 渾身の一撃。

 これで決まる――確信した、その時だった。


 視界の端に、とてつもない速度でもうひとつの巨体が飛び出してくるのが映った。


 二体目……!?


 それは大柄な隊員めがけ、砲弾のような勢いで突進していた。

 このままじゃ直撃でミンチにされる。


「くそっ!」


 考えるより先に身体が動いていた。

 地面を蹴り、二体目の突進の軌道上へ割り込む。


 まともに受け止めれば即死だ。

 剣を斜めに構え、突進の勢いを強引に逸らす。


 凄まじい衝撃。

 剣身が悲鳴を上げ、両腕の骨が軋む。

 軌道を逸らすことには成功したが、圧倒的な質量は相殺しきれない。


「がはっ……!」


 身体が吹き飛ばされ、荒野の硬い地面を転がる。


「大丈夫か!?」


 大柄な隊員の意識が、吹き飛ばされた俺へ一瞬だけ向く。

 そのわずかな隙を、怯みから立ち直った一体目のベヒモスは見逃さなかった。

 大剣を振り下ろすより早く、凶悪な顎が迫る。


 間に合わない。

 痛む身体で無理やり立ち上がろうとしたが、足がもつれた。


 万事休す――。

 誰もがそう思った、その時。


 パキンッ、と。


 硬く澄んだ音が響いた。

 襲いかかろうとしていたベヒモスの巨体が、空中でピタリと静止する。


 そして。


 ズレるようにその巨体が斜め半分に滑り落ちた。

 断末魔すらなく、ベヒモスは一瞬にして黒い霧となって霧散していく。


「……え?」


 晴れていく黒い霧の向こう。

 そこに立っていたのは、アッシュグレーの髪を風になびかせる、ひとりの女性だった。


 肩口まであったはずの髪は、ボーイッシュなショートヘアに切り揃えられている。

 手には、以前よりも刀身が長く、鋭さを増した白銀の剣。


「セシル……!」


 思わずその名前が口からこぼれた。

 だが、再会を喜んでいる暇はない。


「グオォォォォォッ!!」


 相方を殺された二体目のベヒモスが、激昂の咆哮を上げる。

 凍てついたブレスが、セシル目掛けて一直線に放たれた。


「危ないっ!」


 俺が叫ぶより早く、セシルの身体が猛吹雪に飲み込まれた。

 凍りつき、真っ白な氷像と化す。


 ——が。


 氷像は、すぐに陽炎のように揺らぎ、霧となって掻き消えた。

 “霧の妖精(ミスティ・フェアリー)”の幻影だ。


「遅いです」


 凛とした声がベヒモスの頭上から響いた。


 空高く跳躍していたセシルが重力に従って急降下する。

 白銀の長剣が陽光を反射して煌めいた。

 刃がベヒモスの分厚い頭蓋を豆腐のようにあっさりと刺し貫く。


 崩れ落ちる巨体。

 そして、黒い霧となって消滅していく。


 静寂。

 荒野を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。


 俺も、三人の隊員たちも、ただ呆然とその光景を見つめていた。


 あのフロストベヒモス二体をたったひとりで、ほんの数秒の間に屠り去った。

 強くなっているだろうとは予想していたけど、これは次元が違う。


 黒い霧が完全に晴れ、セシルがゆっくりと振り返る。

 剣を優雅に振ってマナの残滓を散らし、そのまま鞘へと納めた。


「……ふう」


 一息ついた後、セシルはこちらを見てふっと目元を緩めた。


「お久しぶりです」


 苛烈で、可憐で、優雅で。

 その圧倒的なギャップと眩しさに魅入られ、すぐに気の利いた言葉を返すことができなかった。

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