95. 再び前へ
工房の中はひんやりとしていて、独特の匂いが漂っていた。
あの飛行船が鎮座していたスペースはぽっかりと空き、周囲の作業台は工具が散らかったままになっている。
「……ルミナ?」
もう一度呼びかけてみる。
耳を澄ませても物音ひとつしない。
ふと奥にあるコットへ目を向けると、明らかに不自然なものが見えた。
丸くこんもりと盛り上がった毛布の山。
微動だにしない。でも、怪しい。
どう見ても中に人が丸まっている形だ。
毛布の山の前で立ち止まる。
なんて声をかけるべきか少しだけ迷った。
いつも明るく前向きなルミナだ。
こんな姿、本当は見られたくないに決まってる。
「……お嬢様。セバスチャンでございます。いかがなさいましたかな?」
わざとらしく声を低くし、恭しく尋ねてみた。
工房はしん、と静かなまま。
そして数秒の間を置き、毛布の中からくぐもった声が返ってきた。
「……キャラ違うし。セバスはそんなこと言わない」
「そうなのか? セバスチャンって執事だろ? こんな感じだと思ったんだけどな」
「全然違う。セバスはもっと無愛想で、でも誰よりもお嬢様を理解してるの。そんなテンプレ執事と一緒にしないで」
毛布越しでもわかる、不貞腐れた口調。
でも、声を返してくれたことに少しホッとする。
「なるほど、奥が深いんだな。……貸してくれよ、その漫画。俺も気になるからさ」
「……」
毛布の山がもぞっと動く。
「……全巻読む?」
「もちろん。面白さはみんなが保証してくれてるしな」
バサッ。
毛布がめくれ上がり、中からルミナが顔を出した。
清楚なワンピースは少しシワになり、綺麗に結われていたリボンも解けかかっている。
いつもキラキラしている瞳がうっすらと赤く腫れていた。
「……ごめんね、たー坊」
ルミナは毛布を抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。
「いきなり逃げるような態度とって……怒ってるよね」
「怒ってないよ。ただ、どうしたのか気になってる」
俺が作業台の丸椅子を引き寄せて座ると、ルミナは視線を膝に落とした。
「……怖かった」
静まり返った工房に小さな声が響く。
「北極で、あの時……みんなが本当に死んじゃうかもしれないって思った。たー坊も、マリアっちも、セシルたんも……ボク自身も。生まれて初めて、死がすぐそこにあるって感じた」
彼女の手が、毛布をぎゅっと握りしめる。
「たー坊のギアのメモリーには、あの時の映像がある。……ううん、それだけじゃない。たー坊が元の時代へ帰った時も、きっと辛いことがあったんだよね」
「わかるのか?」
「わかるよ。たー坊、一年前と変わったもん。何かに急いでて、無理してる」
隠していたつもりだったけど、顔に出てしまっていたんだろうか。
それにしても、クロスタの言っていた通りだ。
死の淵に立った瞬間の生々しい感情。
それを追体験することへの恐怖。
それらがルミナを遠ざけている。
「戦闘ギアを手掛ける以上、使用者の『死のデータ』と向き合うことだってある……。それは分かってたつもりだった」
ぽつり、ぽつりと、ルミナは言葉を紡ぐ。
「より強いギアを作るため、どんなデータにだって冷静に向き合わないといけない。その覚悟はできてるって、そう思ってた。でも……違った。大切な友達を失いかけた記録を冷静に分析するなんて、ボクにはできない」
彼女は天才だ。
どんな複雑な術式も、未知の概念も、まるで遊びのように形にしてきた。
でも本当は、優しくて友達思いの年相応の女の子に過ぎない。
「怖くて当然だ。俺だって、あの時のことを思い出すと手が震える。マリアを助けたくて、それでも届かなかったあの瞬間は今でも夢に見る」
「たー坊……」
「でも、俺は助けられたんだ。ルミナと、ルミナが作ってくれたこのギアに」
ルミナがはっと顔を上げる。
「だから今もこうして生きている。前を向いていられる。ルミナがいたからだ。そして、もう一度前へ進むために、お前の力が必要なんだ」
ルミナの瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
彼女は袖で乱暴に目を擦り、小さく頷いた。
「……ありがとう」
そして、ルミナは深く息を吸った。
俯いていた顔が持ち上がる。
潤んだ瞳にいつもの光が戻りかけていた。
「……ねえ、たー坊」
「ん?」
「たー坊の時代、あんな化け物みたいな奴らがいっぱいいるんだよね? どうしてそんな時代に帰りたいの?」
俺は右手のギアへ視線を落とした。
「大切な人との約束を、果たすためだ」
灯の冷たい手が、俺の手を握ったあの感触。
『世界を壊して』——あの言葉に込められた願い。
「元の世界には、守りたい人がいる。俺の帰りを待ってる家族がいるんだ」
母さんの穏やかな顔。
元気だった頃のひなたの笑い声。
「それに……」
俺は顔を上げ、ルミナの目をまっすぐに見つめ返した。
「友達を、リゼを助けるためだ」
「リゼっちを……?」
「ああ。あいつは一人で、自分の運命と向き合おうとしてる。たったひとりで、勝つ見込みのない戦いに身を投じているんだ」
「だから俺は帰る。帰って、全部ぶっ壊して、リゼをひとりぼっちにはさせない。……そのために、お前の力が必要なんだ」
ルミナはそっと毛布を退け、立ち上がった。
その瞳からはさっきまでの怯えが消え、強い光が戻っていた。
「……わかった」
ルミナは両手で自分の頬をパンッと叩き、気合を入れる。
「たー坊がそこまで言うなら、ボクも覚悟を決める! 恐怖を振り返るんじゃない。友達を助けるため、生き抜くためにね!」
「ルミナ……」
「任せて! ボクが必ず、たー坊を元の時代へ帰す術式を引っ張り出してみせる!」
いつもの、少しおどけた明るい笑顔だ。
「ああ、頼む。ルミナならできるって信じてる」
「よし! じゃあ、さっそくたー坊のメモリーをこじ開けちゃうぞー! ささ、ギア貸して」
腕まくりをして、すっかりやる気満々のルミナ。
「い、今!? ちょっと急すぎないか?」
切り替えが早すぎるのはまあ……ルミナらしいというか。
「あっ、ゴメンゴメン。善は急げって思ってつい……あ、そうだ!」
ルミナがふと動きを止めた。
もじもじと両手を組み合わせ、それから上目遣いでこちらをチラリと見た。
「ねー、たー坊。作業にとりかかる前に、ひとつだけお願いを聞いてほしいんだ」
「お願い? いいぜ。なんだって」
「えへへ……。前にやってくれたみたいに、また、たー坊のギアで頭を撫でてほしいなーって」
……あれか。
何でもいいって言った手前、ダメとは言えない。
「これからすっごく重ーい気分になるからさ。その前にたっぷり癒やし成分を補給しておきたいなーって。……ダメ?」
仔犬のようにウルウルとした瞳で見つめてくる。
あれ、ちょっと気恥ずかしいんだけどな。
でも、ルミナの言う通りこれから色んな意味でしんどい作業が待ってるんだろう。
これくらいで協力してもらえるのなら安いものだ。
「……わかったよ。ちょっとだけだぞ」
俺は右手のギアにマナを流し込み、癒やしのイメージを構築した。
淡い光を帯びた手で、ルミナの水色の髪をそっと撫でる。
「あぁ~……。これ、これだよぉ……」
ルミナは目を閉じ、全身の力が抜けたようにへにゃりとだらしなく笑った。
脳が溶けてしまうんじゃないかと心配になるほどの緩みっぷりだ。
撫でながら、ふと嫌な既視感を覚えた。
リュキア本社で徹夜明けのルミナに頼まれ、今と同じように頭を撫でていた時。
悪寒がして振り返ると、そこには汚物を見るような目をしたマリアが立っていて、危うく心臓が止まるかと思った。
でも、今回はマリアはいない。
まさか、こんな北の果ての工房で同じことが起こるわけがない。
……ないよな?
ありえないと分かっていても不安になる。
恐る恐る後ろを振り返った。
そこには、扉の枠にもたれかかり、完全に心を無にしたクロスタの姿があった。
視線が交わる。
その瞳は一切の感情を放棄していた。
「……」
「……」
無言。
それが何よりも雄弁に軽蔑を物語っていた。
「ち、違うんだ! これは、あの、ルミナのモチベーションを上げるために必要な儀式というか……!」
必死の弁明は、静かに背を向けて立ち去るクロスタの後ろ姿に虚しく消えていった。




