93. お嬢様
柔らかな風が頬を撫でる。
視界を埋め尽くしていた白銀の世界はどこにもなく、代わりに瑞々しい新緑があちこちに芽吹いていた。
木々の葉がさらさらと揺れ、日差しが石畳を照らしている。
……春だ。
気候制御のないロムサだからこそ、季節がこれほどはっきり変わるんだろう。
かつて凍えるほどの寒さに震えたのが嘘みたいに、今のロムサは穏やかで爽やかな春の景色に包まれていた。
深呼吸をすると、土と若草の匂いが肺を満たす。
普通なら、「いい天気だな」と伸びでもしたくなる。
でも、気分はちっとも晴れなかった。
空の青さとは対照的に、心の中はどんよりと曇っていた。
前を向いたまま視界の端で隣を盗み見る。
そこを歩いているのは、マリア——ではなく。
白いコートを羽織り、顔の上半分を覆うのっぺりとした仮面を被ったクロスタ博士だった。
天才技師としてその名を知られ、今では犯罪者。
顔が割れると面倒だと仮面を被っているそうだが。
……いくら顔を隠すためとはいえ、その怪しい格好のほうがよっぽど目立つんじゃないかと言いたかったが、口にはしなかった。
気が重いのは、この息の詰まるような沈黙のせいだけじゃない。
——『私がロムサに行っている間、彼の管理をお願いするわ。トレーニングメニューとドリンクの調合レシピはここに入れてあるから』
クロスタに代わり、ヴァイルの管理をマリアが引き受け、中央に残ることになったのだ。
よりによってマリアとヴァイルが、あの密室みたいな区画で二人きり?
もちろんマリアに限ってどうにかなるなんてことはない……と思いたい。
でも、一緒に過ごすうちに昔の気持ちが蘇ったら。
……ああ、クソ。
考えれば考えるほどモヤモヤする。
なんで俺はここで、顔も分からないお面女と無言で歩いてるんだ。
「……ねえ」
「えっ?」
不意にクロスタが口を開いた。
低く、抑揚のない声。
「あなたのその苛立ち。どうにかならないのかしら」
「い、いや、別にイライラなんて……」
「あなたがあの子を好いているのは丸わかりよ。そんなに気になるなら、今から引き返したら?」
「そんなことは……」
鋭い。普通にしてたつもりなのに見抜かれていた。
感情を見せないくせに、人の感情の機微には聡いのか。
「……自分だけだと思わないことね」
「へ?」
それだけ言うと、再び彼女は口を閉ざした。
——自分だけだと思うな。
それって、どういう意味だ?
さらにモヤモヤが膨らむ。
これ以上、余計なことで気を乱されるのは御免だ。
マリアのことも気になるし、一刻も早く用事を済ませて中央へ戻ろう。
俺は歩調を早め、ルミナの実家へ向かった。
街外れにあるルミナの家は、以前訪れた時と変わらず、どっしりと建っていた。
裏手には工房の屋根が見える。ルミナ、あそこで徹夜して船を完成させてくれたんだよな。
「……あ」
門の前に立ってから、俺は致命的なミスに気がついた。
……連絡してなかった。
元の時代から全裸で転移してきたとき、服と一緒に通信用ギア『リンリンくん』も焼失してしまっていた。
もちろん、マリアの端末から事前に連絡してもらうこともできた。
でも、マリアを置いていく焦りやら何やらですっかり抜けていた。
いきなり押しかけて、不在だったらどうしよう。
いや、それ以前にルミナは今、どうしているんだろうか。
グリムハルトとの戦いで大怪我を負っていたはずだ。
今は回復して、元気にしているだろうか。
落ち着かないまま門の前に立つ。
ピピッ、と電子音が鳴った。
『照合しました。ソウタ=アキツキ様。しばらくお待ちください』
門に備え付けられたセンサーが俺を認識する。
ガチャリ。
奥の玄関扉が開き、人影が姿を現した。
水色のロングヘア。
間違いない、ルミナだ。
思わず頬が緩む。
「ルミナ!」
声を張り上げる。
だが、近づいてくる彼女の姿がはっきりと見えるにつれ、緩んだ頬が強張っていく。
……誰?
そこにいたのは、俺の知っているルミナじゃなかった。
いつものダボダボのパーカーや白衣ではなく、レースをあしらった淡い水色のワンピースを纏っている。
髪は丁寧に整えられ、上品なリボンでハーフアップにまとめられていた。
姿勢はまっすぐ伸び、歩き方までどこぞの令嬢のように洗練されている。
「ごきげんよう。ソウタ=アキツキ様……ですね。当家に何か御用でしょうか」
まるでよそ行きの声。
そして、初対面の不審者を見るような、乾いた視線。
「え……?」
ごきげんよう? 当家に何か御用?
ルミナは……何を言っている?
「いや、どうしたんだよ。俺だよ、俺。ソウタだよ。ほら、お前にギアを作ってもらった——」
「……」
必死に言葉を並べる俺に対し、ルミナは小首を傾げ、薄い唇を小さく開いた。
「わたくしに殿方の友人はおりませんが……。もしかして、わたくしと懇意になりたいがために、適当に知人を装っておられるのですか?」
「は……?」
「はるか昔に、オレオレなんとかという戯れが流行ったと聞いたことがございます。そのような詐欺まがいの手法で近づこうなど、随分と恥ずかしいお方ですこと」
オレオレ詐欺。
まさか未来の世界で、こんな清楚な格好のルミナの口からその単語を聞くとは思わなかった。
……いや、そこじゃない。
一体どうなってるんだ。
もしかして、あの戦いで頭を強く打って記憶喪失にでもなったのか?
それとも、人格が変わってしまった?
俺が過去に行っていた一年の間に、彼女に何があったんだ。
混乱で言葉を失っていると、ルミナの視線がふと俺の背後へとずれた。
ピタリ。
彼女の優雅な顔が凍りつく。
「あ……」
大きく見開かれた瞳。
「ほ、本物……!?」
ルミナは口をパクパクとさせながら、俺の後ろ——仮面を被ったクロスタ博士を指差し、震え始めた。
その顔は、憧れのアイドルを前にした熱狂的なファンのようだった。
「どどど、どうして!? あああっ、サイン、サインもらわないと……!!」
ルミナはくるりと背を向けると、そのまま玄関へ向かって猛ダッシュを始めた。
さっきまでの優雅な歩き方はどこへやら。
完全にドタバタ走りだ。
「ど、どうぞ! 早く上がってー!」
走りながら、背中越しに叫んでくる。
「おい、ルミナ! どうしたんだよ!」
そう尋ねても、彼女は振り返ることもなく、バンッ!と玄関の扉を開け放ちながら叫んだ。
「いいから、たー坊も早く来て!」
……。
今、たー坊って言ったよな……?
俺は開け放たれた扉を見つめたまま、心の中でツッコんだ。
記憶喪失でも、人格が変わったでもない。
どうやら、ただの『清楚なお嬢様』のキャラだったらしい。
「どうやら歓迎してくれるみたいね」
背後でクロスタが淡々と呟く。
俺は小さく肩をすくめ、騒がしいお嬢様の待つ家へと足を踏み入れた。




