90. 消えない称号
「それにしてもソウタさん、本当に全裸でやってきたんですね。街中に裸の変質者が出たって知らせが来たとき、お姉様はソウタさんだって飛び出していきましたけど、正直、信じられませんでした」
「うぐっ……それは、その……不可抗力というか……」
せっかくの感動的な空気が一瞬で吹き飛ぶ。
一年経っても『変態』という不名誉な称号はリセットされていないらしい。
「ソウタ様ぁぁぁっ!!」
突然、背後から聞き覚えのある大声が響いた。
振り返る暇もなく、何かが勢いよく背中へ飛びついてくる。
「お会いしたかったですぅぅぅ! 生きてたんですね! 私、ずっとお待ちしてましたから!」
背中にしがみついているのはルーティだった。
俺の腰に両腕を回し、顔を背中へグリグリと押し付けてくる。
「ちょ、ルーティ!? 何やって……! 離れ——」
「嫌です! もう二度と離しません! 私は一生、ソウタ様の忠実な犬ですから!」
……いや、犬は俺のほうね。
飼い主になった覚えはないぞ。
でも、元気そうでよかった。
「……ルーティさん? 離れなさい。ソウタさんが困っているでしょう」
エミリアが冷静な声でたしなめる。
「ちぇっ……エミリアのケチ」
「……何か言いました?」
「うぐっ。な、何でもないです……」
「ケチで結構です。それより、フィオナさんのことをちゃんと見ておくように言ったはずですが?」
その言葉に、ルーティは「あっ」と声を漏らし、見るからにばつの悪そうな顔をした。
「……フィオナ?」
思わず聞き返す。
「やだなぁ、ちょっと目を離しただけですよぅ。ほら、あそこにちゃんと……」
ルーティが指差した先。
聖堂の入り口の少し外れた日陰のテラス席に、車椅子に乗ったひとりの少女がいた。
桃色のゆるく波打った髪。
間違いない。フィオナだ。
だが、様子がおかしい。
彼女はピクリとも動かない。
車椅子に深く身を預けたまま、虚空をぼんやりと見つめている。
その瞳に光はなかった。
まるで魂が抜けてしまったような顔だった。
「えーと、元気……?」
なわけないよな、と心の中でツッコみつつ声をかける。
だが、俺の呼びかけにもまつ毛ひとつ動かない。
「無駄よ」
背後からマリアが告げた。
「彼女、記憶を失ってるの」
「記憶を……?」
「ええ。自分の名前も、過去も、カイムのことも。……何もかも全部、頭の中から抜け落ちてしまってるわ」
——『カイム様ぁぁぁぁっ!!』
——『死ね! 死ね死ね死ね死ね死ねぇぇっ!!』
あの日の絶叫が脳裏に蘇る。
カイムの死。
グリムハルトの圧倒的で理不尽な暴力。
彼女のすべてだった男が、虫けらのように踏み潰されたあの光景が。
彼女の心は、それに耐えられなかったんだ。
「今はエミリアやルーティが面倒を見てくれているわ」
「そうなのか……」
もう一度、車椅子に座るフィオナへ目を向ける。
憎しみも、悲しみもない、空っぽの瞳。
これは彼女にとって救いなのか。それとも、今なお続く地獄の最中なのか。俺にはわからなかった。
「なあ、マリア」
「何?」
「セシルやルミナは……」
ずっと聞けずにいたことだった。
俺が帰った後、どうなったのか。
皆は生き延びたのか。
マリアは一瞬だけ視線を伏せた。
そのわずかな間が俺の心臓を鷲掴みにする。
「……無事よ」
マリアは真っ直ぐに俺を見て、はっきりと言い切った。
「いろいろあったけど、全員生きてる。五体満足でね」
「……っ」
全身から力が抜けた。
膝から崩れ落ちそうになるのをどうにか踏みとどまる。
生きてる。
「そうか……よかった。本当によかった……」
最悪の結末だけは避けられたんだ。
「会いに行く? 案内するわよ」
——会いたい。
その一言に胸の奥から抑えきれない衝動が込み上げる。
——でも、ダメだ。
俺は本来ここに居ちゃいけない。
それに、元の時代でやるべきことがある。
会えば、きっと揺らいでしまう。
「いや。無事だとわかればそれでいい。それより——」
もうひとつ、どうしても確かめなければならないことがあった。
「女神がまだ居るって、お巡りさんが言ってた。それに、マギアも使えてるよな。どういうことなんだ? あの時、確かに女神は死——」
「黙って」
言い終わる前にマリアの手が俺の口を塞いだ。
ふわりと髪が揺れ、甘い香りが鼻先をかすめる。
(声が大きい)
(いや、でも気になる)
(そのことを知ってる人は殆どいないの。女神様はもういない。でも、その役目を引き継いでる人がいる)
(え!? 誰なんだ、それ)
(知らない。私も会ったことはないわ)
(どこにいる?)
(中央。……ってあんたまさか)
「あのー、お姉様? ここは聖堂です。あまり人前でいちゃつかれるのはどうかと……」
「え、いや、違っ……これは」
エミリアの声に、マリアが慌てて俺から離れる。
気づけば周囲の視線が集まっていた。
その中でルーティだけが据わった目でこちらを睨んでいる。
俺としてはもう少しあのままでも良かったんだけど。
まあ、次の行先は決まった。
「エミリア、ルーティ。久しぶりに会えてよかったよ」
「ええっ! まさか、またどこかへ行っちゃうんですか!?」
ルーティが慌てて俺の腕にしがみつく。
「もう少しゆっくりしていってもいいじゃないですかぁ。美味しいお茶も淹れますよ! あ、何なら私の部屋に泊まっていきませんか!? ベッドも広いですよ!」
「ごめん、ルーティ。俺、行かなきゃ」
「諦めなさい。仮に時間があっても、あんたみたいなのに構ってる暇はないわ」
「むーっ! マリアの意地悪! やっぱり嫌い!」
「気が合うわね。私もよ」
二人が言い争っている隙に、そっとその場を離れる。
ふと、エミリアと目が合った。
「……大変そうだな」
「ええ、本当に」
そう答える彼女の表情は穏やかだった。
きっと、この賑やかな日常こそが彼女にとって何より大切なものなんだろう。
さて、行くとするか。
女神の代わりを担っている人物。そいつがきっと、再び元の時代へ帰る鍵になる。
「ソウタさん、お元気で」
「ああ、エミリアも」
「ルーティのこと、甘やかしすぎないように。それから、フィオナに変化があったら知らせて」
「はい。お姉さまも気を付けて」
「さ、行くわよ」
「そうだな。って、え……?」
違和感に気づく。
いつの間にかマリアが当然のように俺の隣に並んでいた。
「何きょとんとしてんの」
「えっ、いや……なんで?」
「なんでって、私がいたら都合悪いの?」
「そうじゃないけど」
ここから先は、もう俺一人の問題だ。
これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。
「だったら問題ないじゃない」
「でも、これは俺の——」
「何言ってんの」
強い口調で遮られる。
その眼差しは真剣そのものだった。
「リゼを助けるんでしょ。友達を助けに行くのに、人任せなんてしない。当然、私も行く」
——友達。
そうだ。俺だけじゃなかったんだ。
リゼを、あいつのことを心配してるのは。
「ほら、さっさと行くわよ」
強引に手を掴まれ、そのまま引っ張られる。
引かれながらエミリアとルーティ、そして車椅子のフィオナへ軽く手を振った。
そういえば。
こんなことが前にもあった気がした。




