89. 一年ぶり
「……落ち着いた?」
「ん……ズズッ……あ、ああ……」
鼻をすすり、どうにか声を絞り出す。
窓から差し込む斜光が筋を描き、埃がその中できらきらと舞っていた。
あの日、届かなかった。目の前で消え去ったはずの彼女が、今、確かにここにいる。
何度も深呼吸を繰り返し、袖口で乱暴に涙を拭う。
ようやく彼女の顔がはっきりと像を結んだ。
「マリア……なんで」
「どうして生きてるのかって? こっちが知りたいくらいよ」
マリアは窓の外へ視線を投げ、小さく息をついた。
「あのとき、私も死んだと思ったわ。全身が押し潰されるみたいで、身体も意識も地の底に墜ちていくみたいで……。で、気づいたら中央の聖堂のベッドで寝てたの」
「聖堂のベッドで……?」
「そう。それから大変だったんだから」
マリアはこちらに視線を戻し、苦笑する。
「あの状態で私だけ放り出されて、みんなが心配で仕方なかった。その上、マギアが使えなくなって、街中は大騒ぎ」
やっぱり、あの時マギアは使えなくなっていたんだ。
なのに、今は何事もなかったかのように使えている。
「女神様って……もう、いないんだよな。でも今、マギアは使えてるみたいだけど、大丈夫なのか?」
「それね……。それについては、追って話すわ。それより——」
マリアがテーブル越しに身を乗り出す。
真っすぐな視線が俺を射抜いた。
「あんたこそ何で戻ってきてんのよ」
「あ……」
「リゼと一緒に消えたって聞いたわ。元の時代に帰ったんじゃないの? なのに、また全裸で広場に現れるなんて。せっかく帰れたのに、バカじゃないの」
「それは……」
言葉が出てこない。
元の時代で何があったのか。
背負い込んだものの重さが、喉の奥で固まっている。
黙ったままの俺を見て、マリアはふっと目元を和らげた。
「……どうせ、嫌なことがあったんでしょ」
「……」
「ろくな時代じゃないみたいだし。あんたの顔を見ればわかるわ。帰った先で、また理不尽な目に遭ったんでしょ」
マリアは椅子の背にもたれ、わざとらしく肩をすくめた。
「もう、ずっとこっちにいたら? この一年で色々落ち着いたし、あんたが居候するくらいの余裕はあるわよ。定期的に魔物退治に参加してれば、食いっぱぐれることもないし」
それは魅力的な誘いだった。
悪魔の囁きなんかじゃない。彼女なりの不器用な優しさだ。
傷ついた俺を見て、逃げ場所を差し出してくれている。
けれど。
「ありがとう、マリア。その気持ちだけで救われたよ」
姿勢を正し、彼女の目を見つめ返す。
「でも、帰る。……リゼを助けるんだ」
「リゼ……」
しばらく黙ったあと、マリアは静かに頷いた。
「……何があったか、聞かせて。もちろん、嫌なら無理には聞かない」
「いや。聞いてほしい」
息を深く吸い込み、ゆっくりと口を開いた。
俺はマリアに話した。
俺がどれほど弱く、情けない人間だったか。
それでもなお、リゼを助けに行く理由を。
もちろん、情報を共有する目的もあった。
これからどう動くべきか。再び過去へ戻る方法を探す上で、マリアの知恵が役に立つかもしれない。
でも、本当のところは違った。
ただ話したかったんだ。
マリアに聞いてほしかった。
後悔を。そして、ちっぽけな覚悟を。
すべてを話し終えると、面会室に重い静寂が落ちた。
「そう……」
マリアは俯いたまま、テーブルの上で両手を固く組み合わせていた。
軽口も、毒舌も飛んでこない。
やがて、マリアが顔を上げた。
その瞳にはいつもの強い光が戻っていた。
「……ありがとう。話してくれて」
そう言うと、椅子からすっと立ち上がった。
白いワンピースが、窓からの光を受けてふわりと揺れる。
その眩しさに、思わず少しだけ目を細めた。
「さ、行くわよ」
「え? どこへ?」
戸惑う俺に、マリアは呆れたように腰に手を当てた。
「聖堂。あんたが戻ってきたかもしれないって、みんな心配してるわ」
みんな。
セシルもルミナも無事なんだろうか。
マリアの様子を見る限り、大丈夫だと思いたい。
それに聖堂……エミリアには、謝らないと。
ローセルの街並みは、俺の記憶と何一つ変わっていなかった。
石畳を叩く靴音。レンガ造りの建物の間を吹き抜ける風。
道行く人々の服装や、街角で淡く光るマギアのランプまで、すべてそのままだった。
けれど、流れた時間は一年。
俺にとってはつい数日前の景色でも、この世界に生きる人々にとっては、365日分の日常が積み重なっている。
「ほら、立ち止まらないの。行くわよ」
前を歩くマリアが、振り返りもせずに急かしてくる。
その背中を追いながら、俺は小さく息を吐き、重い足で聖堂の敷地へ足を踏み入れた。
「お姉様!」
ホールに入るなり、聞き慣れた声が飛んできた。
駆け寄ってきたのはエミリアだった。
髪は以前よりも少し短く切り揃えられ、顔立ちもわずかだが幼さが薄れている。
一年という歳月は、確かに彼女を成長させていた。
「エミリア。ただいま」
「おかえりなさい、お姉様」
エミリアは嬉しそうにマリアの手を握り、それから俺の方へと視線を移した。
「……ソウタさん。お久しぶりです」
「ああ、久しぶり……」
エミリアの顔を見た瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
合わせる顔がない、とはまさにこのことだ。
あの日、俺はエミリアに『マリアは必ず守る』と大見得を切った。
胸を叩いて、安心してくれと言ったんだ。
なのに、結果はどうだ。
俺は何もできなかった。
マリアが生きているのは俺が守り抜いたからじゃない。
「……エミリア。ごめん」
気づけば俺は深く頭を下げていた。
「俺、約束を守れなかった。マリアを……守れなかったんだ。本当に、すまない」
床を見つめたまま、声が震えるのを必死に抑える。
しばらくの沈黙。
エミリアの靴がゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。
「頭を上げてください、ソウタさん」
澄んだ声に促され、恐る恐る顔を上げる。
そこに怒りはなかった。俺を見つめる瞳は柔らかく、どこか姉に似た優しさを湛えていた。
「お姉様から聞いています。ソウタさんが、自分の命を投げ出してでもお姉様を助けようとしてくださったことを」
「でも、結局俺は何も……」
「いいんです」
エミリアは微笑み、小さく首を横に振った。
「結果として、お姉様は生きて帰ってきてくれました。今こうして、私の前で口うるさく文句を言っています。私にとってはそれだけで十分です」
「ちょっと、エミリア。口うるさいって何よ」
マリアが横から不満そうに口を挟むが、エミリアはくすくすと笑うだけだった。
そのやり取りを見て、肩に入っていた力がふっと抜けていった。




