88. おかえり
ウゥゥゥゥゥッ——!
鼓膜を劈くような甲高いサイレンが迫ってくる。
そうだ。
初めてこの街——いや、未来へ来た時もこうやって始まった。
石畳のざらついた感触が掌に伝わる。
もし本当にスタート地点まで戻ってきたのなら。
今度こそ、誰も死なせない。
「そこまでだ、動くな!」
人垣を掻き分け、制服姿の警官たちが駆け寄ってきた。
一人が怪訝そうに俺を見下ろし、小型端末を俺の顔へかざす。
ピピッ。
無機質な電子音が鳴る。
さて、ここからまた『登録なしの不審者』として牢に放り込まれる、あの流れをもう一度やるのか。
そう思い、両手を差し出そうとした——その時だった。
「……ソウタ=アキツキ。ヴァンガード中央本部付け、フリーライセンス」
警官は端末の画面を読み上げると、眉をひそめた。
「身元は確認できたが……おい。ヴァンガードの隊員が街のど真ん中で全裸で何やってんだ」
「……え?」
差し出しかけた両手が空中で止まった。
俺のデータが登録されている?
転移直後ならまだ女神の登録なんてされていないはずだ。
やり直しだと思っていたけど——まさか。
「ほらよ、これでも着ときな」
「……どうも」
鉄格子の隙間から見覚えのある簡素な服が差し出された。
受け取って、冷たい牢の床に座ったまま袖を通す。
服を差し出したのは、初めて転移した日にいろいろと世話を焼いてくれた、あのお巡りさんだった。
「しかし、久しぶりだなあ、兄ちゃん。前は転移障害だって言ってたが、やっぱり本当はそういう趣味なんじゃねえのか」
鉄格子越しに俺を見て、呆れたように笑う。
俺のことを知っている。
やっぱりあの日じゃない。もっと先の時間だ。
「あの……お久しぶりです。前に会ったのって、いつでしたっけ?」
「なんだよ急に。……確か、一年とちょっと前くらいじゃなかったか」
シャツのボタンを留めていた指先が止まる。
「……一年?」
俺が未来にいたのは、転移してから二か月ほどだ。
そこから、さらに一年が経過している——?
周囲を見回す。
牢の天井ではマギアを光源としたランプが淡い光を放ち、お巡りさんの腰では通信用ギアが規則正しく明滅している。
ここへ来るまでのパトカーも以前と同じように走っていた。
……おかしい。
あの時、女神ソラは完全に消滅したはずだ。
マナの制限は解け、カイムは魔法を行使していた。女神がいなければ街のマギア機能せず、人々の生活は成り立たない。そういう話だったはずだ。
「あの、女神様は……?」
鉄格子にしがみつき、身を乗り出す。
「女神様? 女神様がどうかしたのか?」
「女神様は……消滅したんじゃないんですか!?」
お巡りさんは不可解そうに俺を見つめ、それから小さく肩をすくめた。
「何を言ってる。また錯乱してるのか? 女神様なら健在だぞ。現に、お前の登録データだってちゃんと照会できただろ」
——健在。
女神が生きている。それとも、誰も女神の不在に気づいていないだけなのか。
「しかし、ヴァンガードになったんだな。やるじゃねえか。あの時見せてくれた限界突破、ありゃ普通じゃなかったもんな」
お巡りさんは天井を見上げ、懐かしむように呟いた。
「っと、それより」
何かを思い出したように、再びこちらへ視線を戻す。
「早速、お迎えが来てるぞ」
「お迎え……?」
「ああ。さっき受付で会った時に『お久しぶりです』なんて丁寧に挨拶されたが……あんなベッピンさん、知り合いにいたかな。兄ちゃん、なかなかやるねえ」
ベッピンさん。
真っ先に浮かんだのはセシルの顔だった。
ヴァンガードの情報網なら、俺の出現を察知して駆けつけてきても不思議じゃない。
あれから一年、彼女はどうしているのか。
「ほら、出ろ。面会室でお待ちだ」
重い鉄格子が開く。
石造りの廊下を一歩ずつ進む。
迎えがセシルだとして、この先どうする。
もし今が本当に一年後なら、やり直しなんてできない。
だったら、ここにいても仕方がない。
再び元の時代へ戻り、灯との約束を果たす。
あの理不尽な世界を終わらせる。
俺がやるべきことはそれだけだ。
面会室の前で足を止める。
初めてここへ来た時、このドアの向こうにいたのはリゼだった。あの時は本当に驚いた。
またリゼが立っていたりして……ってそんなわけないか。
一呼吸して、小さなドアノブへ手をかけた。
ガチャリ。
ドアを押し開け、部屋の中へ足を踏み入れる。
そして。
窓から差し込む光の中に、その姿があった。
息が止まった。
小柄な背丈。
腰まで届く赤い髪。
忘れもしない。あの日俺が不器用に選んで贈った、あの白いワンピース。
瞬きを忘れていた。
その乾きを潤すように、視界が滲んでいく。
何がどうなってる。
やっぱり俺は灯と一緒にあの爆発で死んで、ここは死後の世界なんじゃないか。
「あ、あれ……おかしいな。俺、やっぱり、死んで——」
「何言ってんの」
凛とした声が遮った。
わからない。ありえない。
でも、目の前にあるものが本当なら今すぐ信じたい。
なのに、信じきれない。
目尻が下がり、呆れたように少し睨んだ目つきが優しいものへと変わる。
そして、彼女の唇がゆっくりと動いた。
「おかえり」
優しくて、どうしようもなく愛おしい笑顔だった。
その瞬間。
俺の中でせき止めていたものが溢れ出した。
「ああ……あぁぁぁぁぁぁっ……!!」
止められない。いや、止めなくていい。
人目もプライドも、どうでもよかった。
俺はただ、子どものように声を上げて泣いていた。




