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87. 第0話

 視界から色が抜け落ちた。

 そこは白の世界だった。

 壁も、床も、天井も。どこからどこまでが平面で、どこからが奥行きなのか。境界線すら曖昧に溶け合っている。

 音もなく、果ての見えない白だけが広がっていた。


 その中央に、ひとつだけ浮かび上がるように置かれているものがあった。

 ベッドだ。


 ——まさか。


 目にした瞬間、足が重くなった。

 直感がやめろと言っている。

 それでも。


 音の立たない床を一歩、また一歩。

 ベッドへと近づく。

 やがて、そこに横たわる人の姿が見えた。


 ——ドクン。


 声の代わりに胸が大きく脈を打つ。

 眠っていたのは、ひとりの女性だった。

 俺の知っている彼女じゃない。

 色素の薄かった茶色い髪は完全に色を失い、雪のように真っ白になっている。

 頬はこけ落ち、シーツの外に投げ出された腕は骨と皮だけ。

 呼吸をしているのか疑いたくなるほど、その胸の上下はかすかだった。


「灯……だよな」


 間違いであってほしかった。


「なんで、こんな……」


 俺の声に反応したのか、真っ白なまつ毛が微かに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。

 灯はぼんやりと天井を見つめたあと、視線をこちらへ向けた。


「……颯太」


 今にも消えてしまいそうな声だった。


「私、フラれちゃったね」

「なんで……。どうなってるんだよ。お前、その身体……」


 頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉が出てこない。


「さっきまで颯太がいた世界、私がみんなの記憶から集めて作ったの。……現実ではほんの一瞬の出来事でも、あの世界の中なら、永遠に近い時間に引き伸ばすことができるから」

「作った……? 灯が……?」

「私ね、本当はD級じゃないの。本当の等級はS級。二つ名は——“夢幻”。他人の記憶を読むのと同時に、その人から魔素を奪うこと。そして……奪った魔素と記憶から、新らしい『もの』を生み出すこと。それが私の力」


 灯がS級。リゼやあのグリムハルトと同格だというのか。

 信じられない。

 でも、この状況を前にしては信じるしかなかった。


「ごめんね、ずっと……嘘ついてて」


 彼女の瞳が少しだけ揺れた。


「最後に、颯太と一緒に過ごしたかったの。あのまま、ずっと……。でも、ダメだったね。断られちゃった」

「最後って……どういうことだよ」


 『最後』という言葉に思わず強い声が出た。


「最後ってなんだよ! こんなところで、ひとりで、こんなボロボロになって……!」

「私、もうすぐ死ぬんだ」


 息が止まる。


「死ぬって……どうして! 病気なのか!? 治せないのか!?」

「ううん。病気じゃないの」


 灯は小さく首を横に振った。


「私ね、御影博士に作られたの」

「作……られた……?」

「うん。博士の望みを叶える能力を持つように、遺伝子を組み替えられて。だから……最初から、普通の人みたいに長くは生きられない身体なんだ」


「私が外の世界で集めてきた記憶と魔素を使って、新しい世界を作る。そして、その世界では、博士は死なない。老いることもない、神様みたいになれる。それが計画だった」

「なんだよそれ……。そんなことの為にお前が犠牲になるなんておかしいだろ!」

「ありがとう。でも、失敗に終わったんだ」


 灯はふっと息を吐いた。


「世界をひとつ生み出すにはね、その世界そのものよりもっとたくさんの魔素が必要なの。私が集められた量じゃ、具現化までは無理だった。だから、精神世界でやっとだったの」


「それにね、外の世界で見た怖いもの……蜘蛛とかムカデのイメージが、どうしてもノイズとして干渉しちゃって、変なのがたくさん生まれちゃったの。博士、すごく怒ってたな」


 彼女の瞳が白い天井を彷徨う。


「だからね、この部屋は真っ白なの。余計なものを見て、また変なイメージが混ざらないように。……ほんと、退屈でひどいよね」


 乾いた笑い声が、白い空間に響いた。


「……何を、言ってるのか分からない」


 俺は震える手で彼女の細すぎる指先を握った。

 冷たかった。


「こんなふざけた話があるか……! ここを出よう。早く医者に診せれば、まだ……!」


 動揺のまま灯の手を引こうとした——その時。


 突如、地の底から響くような重い振動が、部屋全体を揺らした。

 天井の照明が微かに明滅し、白い空間に少し影ができて消えた。


「……来てくれたんだ」


 灯がかすれた声で呟いた。

 その視線の先。扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。


 扉の向こうから現れたのは、忘れるはずのない少女だった。

 黒く艶やかな髪。白い肌。

 そして、感情の色を映さない碧い瞳。


「リゼ……!」


 俺は弾かれたように駆け寄った。

 リゼなら。あいつなら何とかしてくれるはずだ。


「頼む、リゼ! 灯を助けてやってくれ! お前ならできるだろ!?」


 必死に訴えても、リゼは何の反応も示さなかった。

 碧い瞳がじっと俺を見つめる。


「……誰」


 氷のように冷たい声。

 その一言で全身の熱が一気に冷める。

 このリゼは、まだ俺のことを知らない。


「リゼちゃん」


 背後から灯が優しく呼んだ。


「彼が、颯太。……前に話した、私の王子様」

「……王子様」


 リゼはその言葉を確かめるように繰り返した。

 そして、首を横に振る。


「わたしには、灯を生き永らえさせることはできない」

「そんな……! 友達なんだろ!? 何とかできないのかよ!」


 最後の希望が崩れ落ちる。

 リゼでさえ無理なら、どうしたらいいんだ。


「いいの。わかっていたから」


 灯は穏やかに笑い、細い腕をゆっくりと持ち上げた。


「リゼちゃん、こっちに来て」


 リゼは静かに歩み寄り、ベッドの傍らに立った。

 灯がリゼの小さな手を取る。

 指先が触れ合った瞬間、白い空間を霞ませるほどの眩い光が溢れ出した。

 灯の身体から、光が帯となってリゼの身体へ流れ込んでいく。


「外にいる颯太に……渡してほしいの」

「……わかった」


 リゼは短く頷いた。

 灯の顔を見つめ、それから俺を一瞥し、無言のまま部屋を後にした。


 扉が閉まり、再び部屋には俺と灯の二人だけが残される。


「今のは一体……?」

「私が集めた魔素をリゼちゃんに渡したの。世界ひとつ分。それを、外にいる颯太へ届けてもらうために」

「世界ひとつ分……!?」

「そう。だから今も颯太の中に残ってる。私が集めた世界、その全部が」

「俺の中に……?」


 俺みたいな何の変哲もない無能者がなぜ規格外のマナを持っているのか。

 あれは、灯が——。


「未来で、大変だったね。痛くて、苦しかったよね」


 灯は、目を細めて俺を見つめた。


「見てたよ。未来での颯太、すごく楽しそうだった」


 声に、ほんの少しだけ寂しさが混じる。


「マリアちゃんに、セシルちゃん、ルミナちゃん。みんな可愛くて、強くて……颯太、みんなと一緒にいるとき、すごくいい顔して笑ってた。……私も、あの中に混ざりたかったな」


 彼女の目から一筋の涙がこぼれた。

 痩せた頬を伝い、白いシーツへ落ちる。


「マリアちゃんには……どうしても、嫉妬しちゃうなあ」


 灯は少し困ったように笑った。


「灯……ごめん、俺……」

「謝らないで。颯太が楽しそうなの、私、すごく嬉しかったから」


 灯はシーツの上で、微かに右手を動かした。


「手、握ってくれる?」


 俺はベッドの傍らに跪き、彼女の手を両手で包み込んだ。

 指先はもう、ほとんど体温が失われている。


「私ね、最後に颯太に会いたくて。颯太がこの研究所へ派遣されるように、博士にお願いしたの」

「じゃあ、俺がここに配属されたのは……」

「うん。私がいつも見ていた景色を颯太にもみてほしかったの。颯太、いつも『退屈だー』って嘆いてたね。ほんと、ごめんね」

「いや……うん。でも、悪くなかった。海、綺麗だったし」

「無理しなくていいって。私も退屈だったから」


 灯は少しだけ笑った。


「私が死ぬと、ここは爆破される仕組みになってるの。巻き込んじゃって……本当にごめんね」


 あの爆発の意味。あれは、あの瞬間、灯の命が——。


「謝るのは俺の方だ。俺、何も知らなかった。知ろうともしなかった」

「ううん。いいの。聞かれても本当のことは言えなかったから」


 言葉が途切れる。

 けれど、その沈黙は永遠のように長かった。


「最後に、お願いがあるの。聞いてくれる?」


 俺は強く頷いた。

 どんなことだってする。


「ひとつは、最後までこの手を離さないで」

「ああ。絶対に離さない」


「ふたつ目は……その力で、リゼちゃんを助けてあげて。あの子、ずっとひとりだから」

「ああ。必ず助ける」


 灯は安心したように笑った。

 そして少しだけ間を置き、今までで一番澄んだ声で告げた。


「最後に——この世界を壊して」


 ——世界を壊す。

 その言葉の意味。

 その願いの重さ。

 その無謀さ。


 今の俺には、痛いほど分かる。


「……約束する。俺が必ず、ぶっ壊してやる」


 俺は彼女の冷たい手を、痛くないように、けれど離さないように強く握り返した。


「ふふ……。最後にわがままいっぱい、聞いてくれてありがとう」


 灯の瞳がゆっくりと閉じられる。

 俺はただ、その手を握り続けた。




 ——ガヤガヤと人の声が聞こえる。


 頬を撫でる乾いた風。

 背中にはゴツゴツとした石の感触。


 ゆっくりと目を開けた。

 視界に広がったのは、青空だった。

 その下にはレンガ造りのクラシカルな建物が並び、石畳の上を人々が行き交っている。


 見覚えのある光景だ。


 身体を起こし、周囲を見渡す。

 通行人たちが怪訝そうな顔でこちらを見下ろしていた。

 驚いたような声を上げ、慌てて目を逸らす女性もいる。


 ——ああ、またか。


 視線を下ろす。

 そこにあったのは、傷ひとつないまっさらな自分の身体。

 あの時と同じく、一糸纏わぬ姿だった。

 唯一、右手に装着されたギアを除いて。

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