86. ごめん
闇の中から這い出したムカデ型の魔物たち。
そのうちの一匹が不意に動きを止めた。
カチ、カチカチカチッ。
鎌のような大顎を打ち鳴らし、長い胴体の前半分をゆっくりと持ち上げる。
紫色の複眼が真っ直ぐこちらを向いていた。
……え?
背筋に悪寒が走る。
……目が合っている?
いや、そんなはずはない。これは過去の映像で、俺はただの観測者。干渉できないし、向こうから認識されることもないはずだ。
でも、そのムカデは違った。
複眼は微動だにせず俺を捉え、大顎を鳴らし続けている。
カシャカシャカシャッ!
床を滑るように這い、数メートルあった距離を一瞬で詰めてくる。
「うおっ!?」
反射的に跳び退こうとして足がもつれた。
尻餅をつく。
視界いっぱいにムカデの巨体が映る。
嘘だろ!?
咄嗟に右手をかざす。が、当然ギアはない。
今の俺はただの高校生だ。
戦う術なんて何ひとつ持っていない。
「くそっ、離れろっ!」
振り下ろされる頭部を両腕で受け止めようとする。
止まらない。抵抗にもならなかった。
「がはっ……!!」
大顎が脇腹を挟み込んだ。
激痛が走る。血が溢れ、制服をじわじわと染めていく。
痛い。痛い。
幻覚じゃないのか? ここで死んだら現実の俺はどうなるんだ?
視界の端が暗く滲む。
気づけば、周囲は無数のムカデで埋め尽くされていた。
這いずる音と顎を鳴らす音が四方八方から迫ってくる。
逃げ場はない。戦う力もない。
——完全に、詰んだ。
「こんなこと、したくない」
暗闇の中から声が響いた。
激痛に喘ぎながら顔を上げる。
闇の中に、ぽつりと灯が立っていた。
「ここで、ずっと一緒にいよう?」
悲痛な声だった。
「何も考えなくていい。悲しいことも、何もない世界。ふたりでずっと平和に暮らせる、優しい世界」
今なら少しだけ分かる気がした。
灯も絶望してたんだ。この世界に。
過去も傷も全部置き去りにして、理想の世界だけを生きる。それは楽かもしれない。。
——それでも。
「……嫌だ」
「どうして!?」
「俺が逃げたら……誰があいつを助けるんだ」
脳裏にリゼの顔が浮かぶ。
あいつはきっと今も戦ってる。理不尽と。自分の運命と。
「リゼが……まだ戦ってる。ここで俺がどうしようと、あいつには関係ないかもしれない。それでも、俺だけ逃げるわけにはいかない……っ」
血を吐きながら続ける。
「マリアが消えた。セシルも、ルミナも……俺のせいで、あんな目に遭った」
「だから! そんな酷い現実になんて戻る必要ないじゃない!」
「違う……!」
激痛に抗いながら、灯を真っ直ぐ見据えた。
「俺がここで偽物の過去に浸っても、現実は何ひとつ変わらない。でも、本当の過去からやり直せば……未来の大切な人を、救えるかもしれないんだ」
女神は『過去は変えられない』と言った。原因と結果は同時に存在するのだと。
それでも、まだ諦めていない。諦められるか。
灯の顔がぐしゃりと歪んだ。
「どうして……どうして私じゃだめなの!? 私じゃ、颯太を幸せにできないの!? どうして私の世界を否定するの!?」
「……ごめん」
それしか言えなかった。
君の世界を否定して、ごめん。
君の寂しさに気づけなくて、ごめん。
君の想いに、応えられなくてごめん。
灯の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
『……本当はこんなことしたくなかったのに』
彼女が静かに目を伏せる。
その瞬間、脇腹に食い込んでいた大顎が、ギチリ、と嫌な音をたてた。
「が、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
肋骨が砕け、内臓が押し潰される。
痛い。苦しい。
このまま死ぬしかないのか。
——いや。
ここは現実じゃない。
何らかの形で引きずり込まれた精神世界。俺の身体は別にあるはず。
今の俺は無能者なんかじゃない。
あの未来で、確かに手に入れたものがある。
絶望を覆すための力。理不尽に抗うための力。
それが今ここにないのは、俺自身が「自分はただの高校生だ」と思い込まされているからだ。
思い出せ。
ルミナとリゼが徹夜で組み上げてくれた。
カイムの氷槍に串刺しされそうになった、あの瞬間。
俺の『生きたい』という意志に応えるように、右手に顕現したギア。
そこから溢れ出した無限の可能性。
幻じゃない。確かな現実だ。
「俺は……無力なんかじゃない!!」
右手が眩い光を放った。
肉を噛みちぎろうとしていたムカデの動きがぴたりと止まる。
「……っこの野郎!」
痛みをねじ伏せ、ムカデの甲殻に右手を叩きつけた。
相手はマナで構成された魔物だ。
なら、マナの結合そのものを断ち切ればいい。
浮かんだのは、セシルの剣技。
『霧の妖精』が持つ、マナそのものを霧散させる特性。
このギアならそれを再現することだってできるはずだ。
「霧散しろ……!!」
右手のギアが白銀に光る。
魔物の体を構成する黒いマナに干渉し、解体するイメージ。
脇腹に食い込んでいたムカデの巨体が形を失い、黒い霧となって散った。
「いける……!」
よろめきながら立ち上がり、周囲を見回した。無数のムカデたちが這い寄ってくる。
一匹ずつじゃ埒が明かない。元凶を絶つ。
右手を高く振り上げ、床の黒い闇へと、掌を思い切り叩きつけた。
「全部、消えろッ!!」
持てる限りのマナを霧散のイメージに変換して流し込む。
白銀の閃光が黒の上を放射状に走り抜けた。
ムカデたちが一斉に黒い霧となって崩れ、足元の闇が晴れ本来のコンクリートの床が姿を現す。
光が収まり、そこには無音の空間が広がっていた。
数メートル先にひとりの少女が立つ。
白い病衣を着た幼い頃の灯だ。
彼女は驚いたように自分の両手を見つめ、それから顔を上げた。
そして、ふわりと笑った。
「……ありがとう」
満たされた、優しい声だった。
何かを返そうと口を開いた、その瞬間。
——プツン。
古いテレビの電源が落ちたように世界が暗転した。
コンクリートの冷たい感触が背中から伝わってくる。
「うっ……」
重い瞼を押し上げると、灰色の天井が目に入った。
ゆっくりと上体を起こす。
「……っ痛てて」
脇腹が熱を帯びたようにズキズキと痛む。幻覚だったはずのムカデに噛まれた場所だ。
自分の身体を見る。
高校の学生服ではない。あのとき未来で着ていた服だ。
あちこちが裂けている。
右手を見る。『無限の手』が装着されていた。
戻ってきたんだ。
あの偽りの世界から、現実へ。
ふらつく足で立ち上がり、周囲を見渡した。
薄暗い非常灯がぼんやりと辺りを照らしている。
見覚えのある光景だ。
海上研究所のエントランス。
俺が未来へと飛ばされたあの日、初めてリゼと出会った場所。
でも、ひとつ違っていた。
「隔壁が……壊れてない」
入り口を振り返る。
あの夜、分厚い隔壁は粉々に吹き飛んでいた。
でも今、目の前にある隔壁は傷ひとつない。
ということは、まだリゼはここへ来ていない?
爆発が起きる前の過去に戻ってきたということなのか?
——そんなことより。
目の前に、メインラボに通じる両開きの鉄扉がそびえていた。
あの夜のリゼの言葉が蘇る。
『……中は、見ないほうがいい』
扉の向こうで何が起きていたのか。
リゼは誰に会いに来たのか。
今なら、知ることができる。
ゴクリ、と喉が鳴った。
恐くないと言えば嘘になる。この扉を開ければ、取り返しのつかない現実と向き合うことになるかもしれない。
それでも、開けるしかない。
リゼは言っていた。俺ならいつか意味が分かる時が来ると。
きっと今がその時だ。
深く息を吸い込む。
重い金属音が響く。
俺はその扉を押し開けた。




