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85. 黄昏

 どこかの家から、夕飯のカレーの匂いが漂ってくる。

 アスファルトに長く伸びた電柱の影をふたりの高校生が踏み越えていく。

 俺は数歩後ろからその背中を黙って追っていた。


 ポケットに両手を突っ込み、少し猫背で歩く過去の俺。

 その隣にはスカートのプリーツを揺らしながら歩調を合わせる灯がいる。

 手は繋いでいない。肩と肩の間には、不自然なほどの距離が空いていた。


「卒業まであと5か月か。もう半年もないんだな」


 過去の俺が前を向いたまま足元の小石を蹴り飛ばした。

 アスファルトの上を転がり乾いた音が響く。


「灯はもう、進路決まったのか?」


 灯の歩みがほんのわずかに遅れる。

 彼女はローファーのつま先へ視線を落としたまま、小さく頷いた。


「うん。……迷ったけど、国立の魔法大学に進むことにしたよ」


 過去の俺の肩がピクリと動いた。


「そっか。やっぱ、能力者限定の所の方がいいよな」


 平坦を装ってはいるが、ポケットの中の拳が固く握られているのを、今の俺は知っている。


「私、D級(ボーダー)だから。一般の大学も考えたんだけど」


 灯は俺の顔色を窺うように、少し早口で続けた。


「能力者としては序列がお尻の方だし……キャンパスも、たぶん田舎の方になると思うし」

「……」

「颯太は?」


 過去の俺はわざとらしく大きく息を吸い込み、鼻の頭をこすった。


「俺は、大学は諦めて就職するよ。早く母さんを支えたいしな」

「そっか……。颯太は、すごいなぁ」


 灯の目が、夕日を映した。


「全然すごくないって。ただの無能者、しかも高卒だぞ。就職先だって警備会社とか、そういうのしか選べないしな」

「ううん。家族のためにそうやって決断できるの、本当にかっこいいよ」

「え、あ、いや……うん。……ありがとう」


 過去の俺は耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。

 ふたりの間に沈黙が落ちる。


「……キャンパスが田舎になっちゃうと、会えなくなるね。寂しいな」


 灯は立ち止まり、オレンジ色の空を見上げていた。


「確かに、そうかもしれないけどさ」


 過去の俺が努めて明るい声を出す。


「永遠に会えなくなるわけじゃないだろ。時間を見つけて会いに行くからさ」


「……そうだね」


 少し間をおいて、灯は静かに笑った。

 震える唇を無理やり引き上げたような、脆い笑顔だった。


 再び歩き出す。過去の俺はポケットの中でもぞもぞと手を動かしながら、不自然に歩幅を小さくしていた。


「……あのさ」


 交差点の手前で立ち止まり、振り返った灯へ向けて小さな包みを差し出した。


「え?」


 灯はきょとんとして、包みと俺の顔を交互に見比べた。

 受け取ろうともせず、首を傾げる。


「どうしたの、これ?」

「いや……ほら、今日で俺たち付き合って一年になるだろ」


 過去の俺は視線をそらした。


「だからその……記念にと思ってさ」


 灯の目がみるみる大きく見開かれた。

 ぽかんと口を開け、まばたきすら忘れたように固まっている。


「……えっ。一年って、プレゼントしたりするものなの?」


 一年の記念日なんて、高校生なら少しは意識するものだ。

 なのに灯は、まるで初めて見る外国の文化に触れたように戸惑っていた。

 時間の積み重ねを祝う。そんな発想自体が彼女の中に存在しないようだった。


「あ、ごめん……。私、何も用意してない。どうしよう……」


 慌てた様子で視線を泳がせ、眉を下げる。


「いいから、気にすんなって。俺が勝手に用意しただけだから」


 半ば強引に彼女の手へ包みを押し付けた。


「開けてみて」


 灯は恐る恐るリボンを解き、包装紙を破らないようにそっと開いていく。

 中から現れたのは、小さな銀色の小箱。蓋を開けると、細いチェーンの先に青いガラス玉の石をあしらったネックレスが収まっていた。


「……きれい」


 灯は小さく息を呑み、ネックレスを両手で包み込んだ。

 青い石が夕日を受けて微かに光る。


 その光景を見て、あの時のことを思い出した。

 駅前のアクセサリーショップ。白い蛍光灯の下で、ショーケースに並ぶゼロの多い値札をみて冷や汗をかいた。財布のなけなしのバイト代と何度も見比べて、長い時間うろうろしたっけ。

 店員に怪しまれながらも、一番安いコーナーの端っこの箱を指差した。


「すごく嬉しい」


 灯はネックレスから目を離さないまま呟いた。


「でも、私が何も用意してなかったのが、すごく嫌だな」

「だから気にすんなって。そうだな……じゃあ、来年を楽しみにしてるよ」


 俯いていた彼女の顔に夕日の影が濃く落ちる。


「……うん」


 灯は消え入りそうな声で短く応えた。

 口元は笑っていた。でも、瞳は小さく揺れていた。


「今から来年が楽しみだなー。あ、でも無理して高いのにしなくていいからな」


 当時の俺は、その変化に欠片も気づかない。


「ごめん、今日バイトだから。ここで」


 そう言い残し、背を向けて駆け出す過去の俺。

 全力で殴り飛ばしたかった。

 気づけ。振り返れ。

 お前の彼女が今、どんな顔をしているか見ろ。


 過去の俺は振り返ることなく、夕暮れの角を曲がって消えた。


 交差点に残された灯は、俺の背中が見えなくなるまでずっと右手を振っていた。

 姿が完全に見えなくなると、その腕が力なく垂れ下がった。


「……っ」


 灯は銀色の小箱を両手で胸に抱きしめた。

 俯いた足元に、ポタ、ポタと、丸く黒い染みができていく。

 声も出さず、ただ肩を震わせていた。


「灯……」


 思わず手を伸ばした。

 指先は彼女の細い肩をすり抜ける。

 抱きしめることも、涙を拭うこともできない。

 ただ、見ていることしかできなかった。


 視界が、水に落ちたインクのように滲んでいく。

 夕暮れの交差点がぐにゃりと歪み、急速に暗転した。



 ジィィィ、という低い機械音が絶え間なく響いている。


 窓がひとつもない薄暗い部屋。壁も床も無機質なコンクリートだ。

 中央には、手術台のような無骨なベッド。その周囲を複雑な配線が繋がれたモニター群が囲んでいた。


 そこに、ふたつの人影が浮かび上がった。


 ひとりは灯だ。

 ゆったりとした白い病衣を着て、ベッドの縁に腰掛けている。


 もうひとりの影が、暗がりからゆっくりと歩み出た。


「外は、どうでしたか?」


 白衣を纏った男。

 感情の起伏を一切感じさせない、平坦な声だ。


 灯は焦点の合わない目で床を見つめたまま、ぽつりと言った。


「いろんなものが、見られた。……人の、醜いところも。でも……楽しかった」


 そう言って胸元をそっと押さえる。白い指の隙間から、あの青い石のネックレスが覗いていた。


「そうですか」


 男は短く応じた。

 モニターの青白い光が、顔を照らし出す。

 尖った顎。丸眼鏡の奥で光る、冷たい瞳。


 間違いない。

 俺が警備員として配属された海上研究所の所長。

 そして遥か未来のノクセイアでグリムハルトの傍らに立っていた男――御影博士。


「では、始めましょう」


 灯はその言葉に頷くと、立ち上がり、腕をだらりと下げて目を閉じた。


 足元からどろりとした黒い闇が滲み出す。

 床を覆い、壁を這い上がり、部屋全体に広がっていく。


「いよいよです。私が不死の王となる、その時が」


 恍惚とした笑みのまま、御影の姿が黒の中へ溶けるように呑まれていった。


 空間を埋め尽くした黒い闇が、ボコボコと不気味に泡立ち始める。

 隆起した闇が形を持ち始めた。

 節くれだった長い胴体。うごめく無数の脚。

 紫色の複眼。


「嘘だろ……」


 闇の中から次々と生み出されていく異形。

 未来のノクセイアを火の海にした、あのムカデ型の魔物だった。

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