84. 黒歴史
「……灯、だよな?」
潮風が吹き抜けるデッキの上で、俺は絞り出すように声をかけた。
少女は答えない。
波の音と風に服がはためく音だけが耳に届く。
リゼの記憶で見たあの少女。
あの子が灯だった?
だとしたら、灯はこの研究所と何か関係している。
……俺は何も知らなかった。
高校で話しかけられて、なんとなく付き合い始めて。
それだけで彼女を知った気になっていた。
家族のことも、過去のことも深く聞いたことはない。
ただ『可愛い彼女』として隣にいてくれるだけで満足していた。
彼女のことを何も見ていなかった。
……そりゃ、フラれるよな。
少女がゆっくりと背を向けた。
その瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
潮風の匂いが消える。
波の音が電子音じみたノイズへと変わっていく。
足元のコンクリートが安っぽいカーペットになり、見上げれば黄ばんだ天井のパネルが広がっていた。
――チカチカ。
頭上の蛍光灯が不規則に点滅している。
タバコのヤニと甘ったるい芳香剤が混ざった匂い。
「ここは……」
狭い廊下。両側に同じような扉がいくつも並んでいる。
カラオケボックスだ。
中学生の時、学校帰りに友達と入り浸っていた駅裏の古びた店。
ドタドタと廊下の奥から足音が近づいてくる。
「ははっ、マジかよそれ」
「いや絶対そうだって!」
数人の男子中学生のグループが笑いながら向かってくる。
ブレザーの制服。少し着崩したシャツ。
俺は思わず壁際に身を寄せたが、彼らは一向に避けるそぶりを見せない。
「うおっ」
身構えたが、衝撃はなかった。
俺の身体をすり抜けていった。
やはり現実じゃない。
ここは誰かの精神世界か、過去の記憶の再現映像だ。
俺はただ、見せられているだけらしい。
すり抜けていったグループの背中、その中の一人に視線が止まる。
少し猫背で、周りの会話に適当な相槌を打ちながら歩いている小柄な少年。
――俺だ。
中学二年の頃の、俺自身。
「おい……」
思わず声をかけるが、当然振り返らない。
金髪混じりのチャラそうな先輩格の男が、中学生の俺の肩に腕を回した。
「おい颯太、奥の部屋に来いよ。面白えもんがある」
「面白い?」
「ああ。ちょっとした『見世物』だよ」
ニヤニヤと悪意に満ちた笑みを浮かべる男に促され、中学生の俺はどこか居心地悪そうについていく。
気づけば現在の俺も無意識に後を追っていた。
彼らが入っていったのは、廊下の一番奥にある少し広めのパーティールームだった。
重い扉をすり抜けて中へ入る。薄暗い。
カラオケのモニターの青白い光だけが室内の人物たちの顔を照らしている。
テーブルの上には飲みかけのジュースや散乱したスナック菓子の袋。
コの字型に配置されたソファには制服を着崩した男女が数人、だらしなく腰を沈めていた。
その中心。
部屋の真ん中にひとりの少女が立たされていた。
肩をすくめ、俯いている。
明らかにこの部屋から浮いていた。
「お、来たな」
ソファの中央に座っていた男が、中学生の俺たちを見て下卑た笑みを浮かべる。
「颯太、紹介してやるよ。こいつ、同じ中学の奴なんだけどよ」
俺の肩を抱いていたチャラい男が少女を指差した。
「こいつ、『能力者』なんだぜ」
「同じ中学のくせに、ずっと隠してやがったんだよなぁ?」
ソファの男が空になったプラスチックのコップを少女の足元へ放った。
カラン、と音が響く。
少女はビクッと肩を震わせたが、顔は上げない。
「能力者様が、なんで俺ら底辺の無能者なんかに紛れてんだよ。エリート様の学校に行けばいいじゃねえか。なあ?」
男たちの笑い声が狭い密室に反響する。
そこにあるのはただの悪意だけじゃない。
能力者に対する劣等感と嫉妬。
その鬱屈が安全な標的に醜く牙を剥いている。
「しかもよぉ、聞いて驚くなよ」
チャラい男が中学生の俺の耳元へ顔を寄せた。
「こいつの能力、人の心の中を覗くことなんだとよ」
「キモくね? 俺らが何考えてるか、こいつ全部お見通しってわけだぜ。ストーカーかよ」
男たちがゲラゲラと笑う中、何かが引っかかった。
人の心を覗く。
灯も同じことができると言っていた。
制御できなかった頃は見たくもないものばかり見えてしまった。だから、ほとんど使わないのだと。
中学。カラオケ。
まさか。
俯いたままの少女の横顔をモニターの青白い光が照らしている。
唇が、血が滲むほど固く噛み締められている。
「……なぁ。お前、今俺が頭ん中で何してるか、分かるか?」
ソファの男が身を乗り出した。
少女の顔を下から覗き込むようゆっくり距離を詰める。
少女は答えない。
スカートの脇で握りしめた両手は指の関節が白くなっていた。
「おいおい、無視すんなよ。視えてんだろ? 俺が今、お前をどうやって……どんなふうに犯してるか」
鼓膜を腐らせるようなおぞましい言葉。
男は手を出していない。ただ、頭の中に描いた最低の妄想を能力越しに少女へ叩きつけている。
陰湿で、逃げ場のない暴力だ。
「ひひっ、いい反応すんじゃねぇか。顔真っ赤だぜ? もしかして、下の方濡れてきちゃったか?」
「うわ、先輩マジキモいんですけどー」
「サイテー。でもウケるー」
取り巻きの女子たちが手を叩いて笑う。
言葉では男を貶しつつも、その目には隠し切れないものがあった。
『無能者』が『能力者』を見下している。その状況に酔っている。
「でもさぁ、能力者様にあんなことして、後で仕返しとかされないの? ヤバくない?」
ひとりの女子が笑いながらも少し不安そうに言う。
男は鼻で笑い、コップの氷をカラカラと鳴らした。
「大丈夫だっつーの。こいつ、親とかいねーらしいし」
――親がいない。
知らなかった。
「なあ、颯太」
不意に、男の視線が中学生の俺へ向いた。
「お前、親父さん能力者に殺されたんだろ? 能力者のこと、すげぇ恨んでたよな」
男がニタリと笑い、手招きした。
「チャンスだぜ。親の仇の同類だ。お前も一発、いいこと想像してこいつに叩き込んでやれよ」
薄暗い個室。すべての視線が部屋の隅に立つ中学生の俺へ向けられる。
――思い出した。
あの頃の俺は能力者という存在が大嫌いだった。
父さんを奪った連中。力を持っているだけで俺たちを見下す特権階級。いつか絶対に復讐してやると本気で思っていた。
なのに。
目の前で震えている少女を見た瞬間。
湧き上がったのは復讐の快感でも、優越感でもなかった。
可哀想だと思った。
理不尽に踏みにじられているのは俺たち無能者だけじゃない。
この子だって別の形の理不尽に怯えている、ただの女の子じゃないか。
中学生の俺は俯いたまま拳を強く握りしめていた。
そして。
「……うおおおおおおッ!!」
鼓膜を破るような奇声を上げ、部屋の中央へ突撃した。
「き、急にどうした!?」
男たちが身を引く中、俺は震える少女の細い腕を掴んだ。
「ムラムラしてきた!! もう我慢できねえ!!」
……は?
思わず頭を抱えた。
おい、過去の俺。
お前、何を言っているんだ。
「お前らには渡さねえ! こいつは俺が美味しくいただくぜぇぇっ!!」
「お、おい颯太! 抜け駆けはズルいぞ!」
「あはは! あいつヤバ! ガチで発情してんじゃん!」
男たちの制止の声と女子たちの笑い声を背中で受けながら、中学生の俺は少女の腕を引っ張ったまま個室の扉を開け放ち、廊下へ飛び出した。
そのまま薄暗いカラオケの廊下を転がるように駆けていく。
あとに残された現在の俺はこめかみを押さえていた。
――いやいやいや。
さっきレストランで灯は言っていた。
『俺の連れなんで』って言って、手引いて走ってくれて。背中を見て、すごくかっこいいなって思った――と。
全っ然違うじゃねえか!!
どこが『俺の連れなんで』だ! 『ムラムラしてきた』って叫んでただろうが!
灯のやつ、俺の黒歴史を乙女フィルターで美化してたのかよ……。
「早く! 走れ!」
中学生の俺は、少女の手を引いたまま階段を駆け下りていく。
少女は何が起きているのかも分からないまま、それでも必死に、その背中を追いかけていた。
エントランスの自動ドアが見えてくる。
俺はそこで足を止め、少女の背中を外へ向けて勢いよく押した。
「帰るんだ! あんな奴らともう二度と関わるんじゃない!」
息を切らしながらそう叫んだ。
薄暗い廊下。
俯いたままの少女と、余裕なんて欠片もない俺。
まともに顔を見ることすらできなかった。
だから、高校で再会した時もあの時の少女が灯だと結びつかなかったんだ。
その背中が見えなくなった直後。
「てめぇ、颯太ァ!!」
階段の上から怒号と共にチャラい男が飛び降りてきた。
胸ぐらを掴まれ、壁へ叩きつけられる。
「ふざけんなよ! 逃がしたな!? 俺たちの獲物を逃がしやがって!!」
「ぐっ……!」
拳が頬にめり込んだ。腹を蹴られ、床にうずくまる。
それでも、この時俺はこの結果にどこか満足していた。
――そういえば、顔をパンパンに腫らして帰って、母さんにこっぴどく怒られたっけ。
ボコボコにされている過去の自分を眺めながら、他人事みたいに懐かしく思い返していた。
騒ぎを聞きつけた店員が駆け込んでくる。
怒号。悲鳴。遠くで鳴り始めるサイレン。
やがてその光景がジジッというノイズと共に暗転した。
空間が歪み、景色が塗り替わっていく。
冷たい風が頬を撫でた。
虫の鳴き声。夕暮れの匂い。
視界が晴れると、そこは学校から駅へと続く見慣れた通学路だった。
赤く染まった空。アスファルトの道。長く伸びる電柱の影。
少し先を、ふたりが並んで歩いてくるのが見えた。
少し距離を空けながら、時折照れくさそうに言葉を交わしている。
高校生の、俺と灯だった。




