83. 偽りの楽園
深いマリンブルーの光に包まれた大水槽の前。
灯の言葉に、俺の足は反射的に半歩後ろへ退いていた。
キュッ、とスニーカーの底が床を擦る。
ここで?
薄暗いとはいえ、順路の最後だ。背後には家族連れ。他のカップルたちも行き交っている。
視線を泳がせながら、無意識にポケットへ手を突っ込んでいた。
さっき買った紙袋を押し込もうとする。指先が強張り、袋の口がポケットの縁に引っかかった。
コロン。
何かが滑り落ち、硬いタイルの上で乾いた音を立てた。
「あっ」
屈み込み、足元に転がったキーホルダーを拾い上げる。
水槽の青い光が手の中のプラスチックを照らした。
……ん?
親指でなぞった感触に引っかかる。ペンギンじゃない。
丸っこいフォルム。どこか間の抜けたヘンテコな顔。
これ、どこかで……。
脳裏に、照れたように笑う女性の顔がよぎった。
ズキリ。
こめかみをに鋭い痛みが走り、俺はキーホルダーを握りしめたまま片膝をついた。
やっぱりだ。
俺は何かとてつもなく大事なことを忘れている。
「……颯太?」
頭上から声が降ってくる。
顔を上げると、灯がこちらへ屈み込んでいた。
背後の水槽からの光で彼女の表情は暗く沈み、目元に影が落ちている。
「どうしたの?」
灯の手がそっと俺の頬に触れる。
冷たい。
さっきまでの温もりが嘘みたいに、その指先は冷え切っていた。
「い、いや……ほら。周り、人が……」
「周りなんて、気にしなくていいのに」
囁くような声と一緒に、彼女の顔がゆっくり近づいてくる。
「ちょ、ちょっと待――」
彼女の肩を押し返そうとして、俺はふと気付いた。
……音が、ない。
さっきまで聞こえていた足音。館内に流れていたBGM。
すべてが消えていた。
視線を巡らせる。
巨大なアクリルガラスの前には、俺と灯しかいない。
聞こえるのは循環ポンプの重低音だけだ。
「ほら、誰もいないよ。ここには私と颯太だけ」
「他の人はどこに――」
「そんなの、どうだっていいよ。……あ、もしかして」
灯の顔がさらに近づく。
「キスだけじゃ足りない?」
吐息が耳をくすぐる。
「なら……その先も。全部、颯太の好きなようにしていいよ」
冗談、だよな。灯が急にこんなこと言い出すはずなんてない。
あんなに照れ屋で、今まで手も満足に繋げなかったのに。
「だから、遠慮しないで。ずーっと一緒にいよう? ここで、永遠に」
白い両腕がゆっくりと俺の首へ回される。
その時。
コツン、と。
背後から硬い靴音が響いた。
灯の動きが止まる。
俺は息を呑み、振り返った。
そこには、見慣れない少女が立っていた。
黒く艶やかな髪。
白い肌。
碧い瞳。
見慣れない? 違う。俺はこの子を知っている。
「……灯」
少女が抑揚なく灯の名前を呼んだ。
「リゼちゃん。……邪魔するの?」
灯が低く呟く。
さっきまでの甘えるような声音はどこにもない。敵意を剥き出しに、目の前の少女を睨みつけている。
けど、少女の表情は少しも揺らがない。
「何もしない。颯太が、決めること」
それだけを告げると、少女の輪郭が砂のようにサラサラと崩れ、青い光の中へと溶けて消えてた。
――リゼ。
なんで、俺は忘れていた?
この世界は偽りだ。
現実はもっと残酷で救いがない。
大切なものを守ろうとしても、指の隙間から簡単にこぼれ落ちていく。
――それでも。
自分だけがぬるま湯に逃げ込んでいられるか。
深く息を吸い込み、ポケットの中のゴロりんのキーホルダーをぎゅっと握りしめて、灯に向き直る。
「なあ。この世界は、いったい何なんだ?」
「……え?」
「幻覚を見せられているのか? それとも、精神だけが別の空間に飛ばされているのか? ……本当の世界は、どうなってるんだ?」
灯はきょとんとした後、ふふっと笑った。
「そんなこと、どうだっていいじゃない」
一歩、近づいてくる。
「現実がどうなっていようと、ここには関係ないよ。ここで、ずっと一緒に暮らそ? 大学に行って、一緒に住んで、子どもを育てて……おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと手をつないで歩くの」
「……」
「颯太のお父さんも、お母さんも、ひなたちゃんも元気だよ。誰も死なない。誰も病気にならない。もし颯太が望むなら……この若い姿のまま、永遠みたいな時間を一緒に過ごすことだってできるんだよ?」
俺がずっと望んでいた世界だ。
だけど。
「……悪いけど、俺のいるべき世界は、ここじゃない」
灯の目をまっすぐ見た。
「どんなに辛くても、理不尽でも……俺には、待ってる人がいる。まやかしの夢に溺れて終わるわけにはいかないんだ」
「どうして……」
灯の顔から、すっと笑みが消えた。
足元の影が揺れる。
「どうして!? ただ、一緒に居たいだけなのに!!」
その声に呼応するように、空間がビリビリと震え始めた。
ミシッ……ピキキッ……。
背後から嫌な音がする。
振り返ると、巨大なアクリルガラスの表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
さっきまで水槽を埋め尽くしていた魚たちは一匹残らず消えている。
あるのは青く澱んだ水だけだった。
「灯……っ!」
手を伸ばしたその瞬間。
ピシャァァァンッ!!!
限界を迎えたガラスが轟音と共に砕け散った。
おびただしい水が押し寄せる。
「うおぉっ!?」
叩きつけられるような衝撃。
濁流に呑み込まれ、もみくちゃにされながら床を転がった。
鼻に水が入り、息ができない。
上下の感覚がなくなり、洗濯機の中に放り込まれたみたいに視界がぐるぐると回る。
最後に目に入ったのは、激流の中心で重力など関係ないように立ち尽くす灯の姿だった。
肺が限界に近づく。
必死に手足を掻き、光の差す方向へ泳いだ。
扉の枠に手をかけ、思い切り押し開ける。
ザバァァァッ!
水と一緒に外へ吐き出された。
「ゲホッ、ゴホッ! はぁっ、はぁっ……!」
硬い床に這いつくばり、激しく咳き込む。
水を吐き出しながら、ゆっくりと顔を上げた。
水族館のロビーじゃない。
手のひらに触れているのは、ざらついたコンクリート。
鼻を突くのは生臭い潮風の香り。
――ここは。
ふらつく足で立ち上がり、周囲を見渡した。
高い銀色のフェンス。
その向こうに、太陽の光を反射して煌めく青い海。
間違いない。
海上研究所のデッキだ。
どうして水族館からここに繋がっている?
困惑する俺の視界の端に白い影が映った。
フェンスのそば。
海風に白い服の裾をなびかせながら、ひとりの少女が佇んでいる。
陽の光に慣れていないような、透き通るほどに白い肌。今にも折れてしまいそうな細い身体。
リゼの記憶の中でババ抜きをしていた少女だ。
少女がゆっくりとこちらへ振り向いた。
「あ……か、り……?」
その顔は、俺の良く知っているものだった。




