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82. ゆらぎ

 ゲートをくぐると、一面の青い世界だった。

 薄暗いエントランスの天井や壁には水面のゆらぎが投影され、まるで海の底を歩いているみたいだ。

 ひんやりとした空気と、かすかに聞こえる水音。


「わあ……綺麗……!」


 隣を歩く灯が目を輝かせながら辺りを見回す。

 青い光を反射して、彼女の髪がキラキラと揺れていた。


 リニューアル直後らしく、平日にもかかわらずそこそこ賑わっていた。

 俺たちはパンフレットを片手に、順路の始まりへ向かう。


「あっ、颯太! 見て見て、あれ!」


 灯が小走りで向かった先には、巨大なペンギンのモニュメントが鎮座していた。

 見上げるほど大きく、妙にリアルな質感をしている。


「せっかくだし、写真撮ろ?」

「ええ……これと?」

「うんっ! ほら、早く早く」


 袖を引っ張られ、モニュメントの前まで連れていかれる。

 灯がスマホを起動し、ぴたりと肩を寄せてきた。


 近い。

 シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。

 肩越しに伝わる体温に身体が固まった。


「もう、颯太。顔硬いよ。はい、チーズ!」


 パシャリ。

 画面には満面の笑みでピースサインを作る灯と、ぎこちない笑みの俺が映っていた。

 どこにでもいるごく普通の高校生カップルだ。


 「仕方ないな」

 

 そう言いつつ、頬が緩むのを抑えきれなかった。



「急がないと席埋まっちゃうよ!」

「おい、走ったら危ないって」


 館内を夢中で回っているうちに、気づけばイルカショーの時間が迫っていた。

 

 スタジアムに着くとすでに観客席は半分以上埋まっていた。

 俺たちは空いていた前列から三列目の席へ腰を下ろした。

 座席には『水しぶきに注意』というステッカー。

 まあ少しくらいなら大丈夫だろう。


 それが甘かったと気づいたのは、ショーが中盤に差しかかった頃だった。


「それでは皆さん、イルカたちの特大ジャンプをお楽しみください!」


 MCの明るい声と共に、三頭のイルカが水面から跳び上がる。

 空中で美しい弧を描き、そのままプールへダイブした。


 ザバァァァンッ!!


 想像を超える水柱が立ち上がり、水しぶきが観客席へ降ってきた。


「えっ、ちょ――」


 逃げる間もなかった。

 頭上からバケツをひっくり返したような水が直撃する。


「っ、冷たっ!」


 思わず顔を覆う。

 隣を見ると、灯が前髪を額に張り付かせたまま目をぱちぱちさせていた。カーディガンもびしょ濡れだ。


「あはははっ! 颯太、前髪変だよ!」

「お前もな。完全にずぶ濡れじゃないか」


 滴る水も気にせず顔を見合わせて笑った。



 ショーを見終えたあと、館内のレストランで少し遅めの昼食をとることにした。

 店内は照明はほどほどに、壁一面の水槽が青い光を放っている。

 色鮮やかな熱帯魚や小さなサメが静かにテーブルの横を泳いでいく。そのたびに水面の揺らぎが天井へ映った。


 スパゲッティを頬張りながら、向かいに座る灯をぼんやりと眺める。

 青い光に照らされた横顔は教室で見る時より少し大人びて見えた。


 そういえば、俺と灯が付き合い始めたのは高二の秋だった。

 それまで接点なんてほとんどなかった。

 成績優秀でいつも友達の中心にいた灯。

 俺は特に目立つわけでもなく、将来の夢もない、ごく普通の高校生だった。

 それなのにある日の放課後、突然彼女の方から話しかけてきた。

 『一緒に帰らない?』と。


「そういえばさ」


 俺が口を開くと、ストローをくわえていた灯がわざとらしくと首を傾げた。


「なんで、俺だったの?」

「……え?」

「いや、付き合い始めた時のこと。灯の方から声かけてくれただろ。ずっと不思議に思ってたんだけど、なんで俺だったのかなって」


 灯はストローから口を離した。少しだけ頬を赤くして、フォークの先でオムライスをつつく。


「だよね……やっぱ覚えてないかあ」

「ん? 何を?」


 灯は小さく息を吸い、水槽の中を泳ぐエイへ目を向けた。


「中学生の時ね、駅前のカラオケに行ったの。その時、不良みたいな人たちに絡まれて、すっごく困ってたの。怖くて、声も出せなくて……」


 カラオケ? 不良?


「その時、颯太が偶然通りかかって……助けてくれたんだよ。『俺の連れなんで』って言って、手引いて走ってくれて」


 彼女の瞳が青い光を反射した。


「あの時ね、背中を見て、かっこいいなって思ったの。名前も知らなかったけど、また会いたいってずっと思ってて。……そしたら、偶然同じ高校に入学してて」


 灯は少し恥ずかしそうに続ける。


「チャンスだ! って思ったんだよ。でも、いざ同じ学校になると、なんだか恥ずかしくて全然話しかけられなくて……。結局、二年生の秋になっちゃったんだけどね」


 助けた……? 俺が?

 記憶を必死に探る。

 どれだけ思い返しても出てこない。


「どうしたの? 黙っちゃって」

「あ、いや……」


 俺は曖昧に笑い、アイスティーのグラスに手を伸ばした。


「そんなこと、あったような……なかったような」

「えー! ひどい! 私はずっと覚えてたのに!」


 灯が頬をぷくっと膨らませる。

 その仕草が可愛くて、胸の奥にあった違和感はふっと消えた。


「ごめんごめん。でも、そうだったんだな。知らなかったよ」

「もう、颯太は本当に鈍感なんだから。……でも、そういうところも好きだけどね」


 最後の言葉だけ小さな声で付け足し、灯は照れ隠しみたいにオムライスを頬張った。



 レストランを出て順路を進むと、屋外スペースに出た。

 ちょうど『ペンギンのお散歩タイム』が始まるところらしい。


「あっ、来た来た!」


 灯がパッと顔を輝かせ、観覧ロープの最前列へと駆け寄る。

 飼育員に先導され、十羽ほどのペンギンがペタペタと短い足で歩いてきた。

 途中で立ち止まってキョロキョロと首を振ったり、よちよち歩きで列を乱したり。その愛嬌のある姿に、周囲から「かわいい!」という声とシャッター音が上がる。


「颯太、見て! あの子、歩くの遅れてる!」

「本当だ。マイペースなやつだな」

「颯太みたいだね!」

「なんでだよ。さっきの話はどこ行った」


 列の最後尾で一羽のペンギンが立ち止まり、羽をパタパタと動かして毛繕いをしている。飼育員が苦笑しながら促す様子を見て、灯は声を立てて笑った。

 春の日差しを受けたその横顔は眩しかった。


 この時間がずっと続けばいいのに。



 ペンギンの散歩を見終えたあと、お土産コーナーへ入った。

 海の生き物をモチーフにしたぬいぐるみや文房具、キーホルダーが所狭しと並んでいる。


「あ、これ可愛い!」


 灯が手に取ったのは、どこか間の抜けた顔をしたペンギンのキーホルダーだった。

 丸っこいフォルムと、気の抜けた表情。妙に愛嬌がある。


「ねえ、颯太。これ買って!」


 両手で持ち、上目遣いで俺を見上げてくる。


「……しょうがないな」


 苦笑しながら受け取り、レジへと向かった。

 会計を済ませ、小さな紙袋を提げて灯の元へ戻る。


「はい、これ」

「ありがとう!」


 灯は嬉しそうに紙袋を受け取ると、ふふっと笑った。


「じゃあ、私からも」


 背中に隠していた手を差し出す。

 掌に乗っていたのは、俺がたった今買ったのと同じペンギンのキーホルダーだった。色違いの青いリボンがついている。


「颯太がレジに行ってる間に買っちゃった。お揃いだね」


 にっこりと笑う灯。


 ――ドクン。


 心臓が、嫌な音を立てた。


 『お揃いね』


 頭の中で別の声が重なる。


「マリア……」


 無意識にその名前がこぼれた。

 俺は、何か忘れている?


「……颯太? どうしたの? マリアって、誰?」


 灯が不安そうにこちらを見る。

 その声で、ハッと我に返った。


「あ、いや……なんでもない。ちょっと、ゲームのキャラ名とごっちゃになっただけ。気にしないでくれ」

「またゲーム? ……もう、今くらい忘れてよ。ほら、最後の大水槽に行こ!」


 灯は俺の腕を引いて歩き出した。



 順路の最後にあったのは、壁一面を覆う大水槽だった。

 深いマリンブルーの光が薄暗い空間を満たしている。


 銀色のイワシの群れが大きな渦を描きながら泳ぐ。

 その間を縫うように、エイがゆったりと羽ばたき、サメが静かに回遊していた。

 まるで、本物の海をそのまま切り取って閉じ込めたような光景だった。


「すごく広いし、綺麗だね」


 俺は巨大な水槽を見上げながら素直に呟いた。

 灯はガラスにそっと指先を触れ、泳ぐ魚たちを静かに眺めている。


「……この水槽って、魚たちにとっては広いのかな」


 ぽつりと灯が呟いた。

 その声はいつもと少し違った。


「他の世界を知らないのかな。……幸せなのかな」


 その言葉が、なぜか胸に刺さった。


 外の世界を知らない魚たち。

 安全なガラスの中でただ泳ぎ続ける命。

 外の海には嵐があり、捕食者がいて、理不尽な死だって溢れている。

 それでも、そこには自由がある。

 どちらが幸せなんだろう。


 その問いは、今の俺自身へ向けられているようにも思えた。


「……魚の気持ちはわからないけど」


 ガラスの向こうでの群れを見つめながら、ゆっくりと返す。


「幸せだったらいいなと思うよ」


 循環ポンプの低い音だけが、空間に響いていた。

 揺れる青い光が波紋みたいに俺たちの顔を撫でる。


 灯が、ゆっくりとこちらを向いた。

 落ち着いた瞳が、真っ直ぐに俺を見る。


 正面に立ち、ほんの少しだけ背伸びをした。

 シャンプーの香りが近づく。

 

 そして。


「キス、して」


 初めてのことなのに、なぜだかそんな気がしなかった。

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