81. ただいま
冷たい夜風が学生服の隙間から入り込む。
どういうことだ。
俺の家がない。
俺という存在そのものが、この世界では無かったことに?
いや、待て。落ち着こう。
灯は俺を「颯太」と呼んだ。顔も知っていたし、同じ大学に行くとも言った。
俺は確かに存在し、この世界の日常に組み込まれている。
だったら、なぜここに住んでいない?
記憶を探る。
母さんとひなたとこのアパートに引っ越してたのは、俺が十歳の頃だ。
――まさか。
「……ッ」
踵を返し、階段を駆け下りる。
もしこの予感が正しいなら、あそこに――。
駅へ戻り、電車に飛び乗る。
流れていく夜の街並みを見つめながら、膝の上で両手を握り合わせた。
手汗が滲んでいる。
十歳の時に手放した、一軒家。
父さん念願のマイホームだった。
新しい木の匂いがする部屋を、まだ小さかったひなたと一緒に走り回って母さんに怒られたっけ。
父さんはそれを見て、目を細めて笑っていたな。
『颯太、今日からここが俺たちの家だ』
父さんの大きな手が頭を撫でる。
『つらいことがあっても、この家に帰れば安心できる。そんな場所にしよう』
父さんの死と一緒に失われ、ずっと思い出の奥に閉じ込めていた過去だ。
電車が駅に着く。
改札を抜け住宅街へ向かった。
街灯に照らされたアスファルト。記憶の中の景色と、目の前の風景が重なっていく。
角のタバコ屋。錆びたカーブミラー。少し傾いたブロック塀。
どれも子供の時に毎日見ていた景色と同じだ。
角を曲がる。
道の突き当たりから三軒目。
自然と足が遅くなった。
もし別の家が建っていたら。
もし知らない誰かが住んでいたら。
期待が膨らむほど、怖い。
一歩、また一歩。
息を潜めながら前へ立つ。
暗闇の中に見覚えのある二階建てが浮かんでいた。
少し色褪せた外壁。父さんが買ったあの家だ。
リビングの窓からオレンジ色の明かりが漏れている。
門柱の表札へ目を向ける。
街灯の明かりを頼りにその文字を確かめる。
――『秋月』
あった。
間違いない。俺の家だ。
「……ははっ」
震えた息が笑いになってこぼれた。
目の奥が熱くなる。
門を開け、玄関までのアプローチを歩く。
ほんの数メートルなのにやけに遠い。
玄関の前に立ち、インターホンへ手を伸ばす。
指先が小刻みに震えてうまく押せない。
深呼吸をひとつ。
ボタンを押し込んだ。
ピンポーン。
足音が近づいてくる。
普段どおり。普段どおりでいいんだ。
ガチャリ。
「はいはーい」
少し高めの柔らかな声。
顔を出したのは――母さんだった。
「あら、颯太。おかえり。どうしたの、鍵忘れたの?」
呆れたようないつもの声。
相変わらず子ども扱いする眼差し。
俺の知っている母さんだった。
ただ、ひとつだけ違う。
記憶の中の母さんはいつも疲れていた。父さんが死んでからは昼も夜も働いて、ひなたの看病まで背負って。
でも、目の前の母さんの顔にはその影がない。
皺はあるけど穏やかだった。
ここは、奪われなかった世界なんだ。
「颯太? どうしたの、突っ立って」
母さんが小首を傾げる。
平気なふりをしようとした。
鍵忘れちゃってさ、っていつものようにおどけてみせようとした。
無理だった。
「……かあ、さん」
視界が歪む。涙がこぼれた。
「えっ……ちょっと、颯太!? どうしたの、何かあったの!?」
母さんが慌ててドアを大きく開け、顔を覗き込む。
その瞬間、何かが切れた。
「なんでもない……なんでも、ないんだ……」
制服の袖で涙を拭いながら、子どものように泣きじゃくった。
「ただいま。……母さん、ただいま……っ」
トントン、と小気味よい包丁の音が響く。
カツオ出汁の匂い。テレビから流れる芸人の高い笑い声。
部屋の隅にはコードが絡まったゲーム機が転がっている。
ダイニングの椅子に腰を下ろしたまま、その光景をぼんやり見つめていた。
エプロン姿の母さんがコンロの火加減を調整しながら鼻歌を歌っている。
ドタドタドタッ!
二階から騒がしい足音が響いてきた。
「兄ちゃん、おかえりー!」
バンッ、と勢いよくリビングのドアが開く。
スウェット姿のひなただった。
無造作に結んだポニーテールが揺れ、日焼けした頬がつやつやと光っている。
俺の記憶にあるのは病室と、真っ白なシーツだった。
細い腕に繋がれた点滴。痛みを隠すように浮かべた、弱々しい笑顔。
目の前のひなたはそのどれとも無縁だった。元気いっぱいで騒がしい。
「あれ? 兄ちゃん、なんか目ぇ赤くない?」
スリッパをペタペタ鳴らして近づき、顔を覗き込んできた。
「あー、さては灯ちゃんにフラれたなー? 灯ちゃんかわいいもんねー。兄ちゃんじゃつり合ってないし」
「ち、違うって! 目にゴミが入っただけだ!」
「はいはい言いわけ、言いわけー。お母さーん、兄ちゃんが失恋して泣いてるー!」
「こら、ひなた。お兄ちゃんをからかわないの」
キッチンから母さんの笑い声が飛んでくる。
妹にからかわれてむきになって言い返す。
ただそれだけの他愛ないやり取り。
胸の奥が温かい。
でも、その隣で何かが疼いている。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
低く、少し疲れの滲んだ男の声。
その声が耳に届いた瞬間、呼吸が止まった。
リビングのドアが開き、グレーのスーツ姿の男が入ってくる。
少し混じった白髪。緩められたネクタイ。
「ん? どうした颯太。まるで幽霊にでも会ったような顔をして」
男は上着を脱ぎながら、不思議そうに俺を見た。
その目尻には穏やかな皺が刻まれている。
――父さん。
記憶の最後にある姿より年を重ねている。
本来なら、決して見ることは叶わない。
声が出ない。
息を吸うことすら忘れていた。
「……いや。なんでもないよ。おかえり」
ようやく絞り出した声はひどく掠れていた。
過去は変えられない?
だったら、この光景はなんだ? また夢か? それとも幻か?
目の前で父さんが母さんに「今日のメシはなんだ?」と尋ねている。ひなたが冷蔵庫から麦茶を取り出している。
空気も、匂いも、生活の雑音も、全部本物だ。
「さて、ご飯にしましょうか」
食卓にはハンバーグと山盛りのポテトサラダが並べられた。
箸を割り、ひと口。肉汁とナツメグの香りが口の中に広がった。
話題は自然と、俺の『失恋疑惑』へと流れていく。
「で、本当にフラれたわけじゃないのか?」
父さんがビールグラスを片手に、ニヤニヤとこっちを見てくる。
「だから違うって。木曜に水族館に行く約束してるし」
「じゃあ、そこでフる予定なんだ!」
「そんなことのためになんでわざわざ水族館まで行くんだよ」
「灯ちゃん、本当にいい子よねえ。可愛くて、礼儀正しくて。颯太にはもったいないわ」
「母さんまで……」
「そうだな。お前、あんな子逃したら一生後悔するぞ。男ならビシッと決めるところは決めないとな」
笑い声が響くたびに、肩の力が抜けていった。
……もう、いいじゃないか。
俺はただの一般人だ。あんな化け物たちと戦う理由なんて最初からなかった。
目の前にはずっと欲しかった家族の食卓がある。
たとえ幻でも、別の世界でもいい。
この温かさの中に沈んでいれば、もう何も痛い思いはしなくて済む。
緩みそうになる口元を隠すように、ポテトサラダを口に運んだ。
木曜日の朝。
空は青く、冷たい春風が襟元を撫でていく。
「いってきまーす」
玄関でスニーカーの踵を鳴らし、ドアを開けた。
「気をつけてねー。灯ちゃんによろしくね。ちゃんとリードするのよ」
「分かってるって」
母さんの声に、軽く手を挙げて応える。
足取りが驚くほど軽い。
感じていた重苦しさはいつの間にか綺麗さっぱり消えていた。
そもそも、どうしてそう感じていたのかすら分からない。
何か大事なことを忘れている?
まあ、いいか。
今は目の前のことに集中しよう。
水族館はどう回ろう。昼は海の見えるカフェがいいかもしれない。
もし、並んで歩いている時に手が触れたら……。
待ち合わせの改札が見えてきた。
少しだけ、歩調を速めた。




