80. ズレた世界
帰ってきた。
息を吸い込む。冷たく乾いた空気じゃない。暖かく淀んだ、日常の匂いだ。
ずっと帰りたかった場所。
ついさっきまでいたあの光景が、嘘のようだった。
――待てよ。
窓の上の広告に目が留まる。
『春の新作』『卒業旅行はこれで決まり!』
卒業式前の時期か。
俺があの研究所の警備員になるのは、ここからまだ先のはずだ。
もし、就職先の書類を破り捨てたら。
研究所に行かなければ、あの夜に巻き込まれることもない。
俺が未来へ飛ばされなければ、マリアも――。
『過去を変えることはできません』
耳の奥で女神の声が響いた。
それでも。別の道を選べば、何かが変わるかもしれない。
そうだ。リゼは?
彼女もこの時代へ戻ったはずだ。レオンと向き合うために。
……助けに行くべきか。
無意識に両拳を強く握りしめていた。
爪が食い込み、鈍い痛みが走る。
ギアはない。今の俺はただの無能者。
人外バトルに首を突っ込んだところで、ひねり潰されて終わりだ。
「……颯太? どうしたの?」
灯が覗き込んできた。
久しぶりに見る顔。やっぱりかわいい。
どうして俺なんかと付き合ってたんだろうって、何度思ったことか。
「え、あ、いや……なんでもないよ。ちょっと寝ぼけてただけ」
無理やり口角を上げる。
「そう? なんだか、魂だけうーんと遠くの宇宙の果てまで行っちゃってたみたいな顔、してたよ」
灯は小さく首を傾げ、まっすぐこちらを見る。
昔からそうだ。ふわふわしているようで、他人の心の揺れを見逃さない。
「宇宙って大げさだな。昨日の夜、ちょっとゲームやりすぎただけだって」
「ふふ、颯太らしいね。でもダメだよ。受験が終わったからって、夜更かしばかりしちゃ」
灯はくすくす笑い、膝の上のカバンをきゅっと抱き直した。
その仕草を見た瞬間、記憶が浮かび上がった。
卒業式前。夕暮れの電車。
並んで座る。
忘れるわけがない。
これは、俺が灯にフラれた日だ。
このあと、俺たちは次の駅で降りる。
海岸沿いの砂浜。波の音。沈みかけた夕日。
そして。
『キス、しよっか』
あのとき俺は石みたいに固まった。触れることも、気の利いた言葉も出なかった。
彼女は寂しそうに俯いて、去っていった。
何度も思い出しては夜中にのたうち回った。
もしあの瞬間に戻れるなら、今度こそ迷わず肩を抱き寄せる。そう誓っていた。
今ならできる。やり直せる。
なのに。
無意識に唇に指が触れた。
そこにはまだ血がべったりと張り付いている気がした。リゼと交わしたあの感触が離れない。
何もできず、目の前でマリアが闇に吸い込まれた瞬間が焼き付いて消えない。
無理だ。そんな気分にはなれない。
『次は、海浜公園前。海浜公園前です』
車内にアナウンスが流れる。
「あ」
灯が小さく声を漏らし、俺の袖をちょんと引いた。
「ねえ、颯太。次の駅でちょっと降りよ」
少しだけ上目遣いの、その表情。
記憶と同じだ。
ドクン、と心臓が脈打った。
今の俺には応えられない。
また同じことを繰り返す。でも仕方ない。
「あ、ああ。降りよう」
短く息を吐き、立ち上がる。
夕日に伸びた影が床に濃く落ちていた。
改札を抜けると視界が開けた。
遮るもののない海と砂浜。ホームから数歩で砂浜に降りられる珍しい駅だ。
ざざん、と波が寄せては返す。水面がオレンジ色に揺れていた。
砂を踏む感触。潮風が制服の裾をパタパタと揺らす。
「今日、久しぶりに学校行ったねー。みんな進路決まっててさ、もうすぐ別々の道に進むんだって、楽しいのに寂しい感じ」
隣を歩く灯の声に、「ああ」「そうだな」と生返事を返すことしかできない。
手のひらに汗が滲む。
心臓の音が波よりも大きく感じられた。
いよいよだ。
あと数メートル歩けば、あの錆びた防波堤のそばで彼女は立ち止まる。
そして、夕日を背にあの言葉を口にする。
全身がこわばっていく。
仕方ないのは分かってる。
傷つけないように、でもはっきりと断るしかない。
砂を踏む音が止まった。
振り返る。
逆光が柔らかな灰白色の髪を縁取っていた。
少しだけ上目遣いの瞳が俺をじっと見つめていた。
来た。
ごくりとつばを飲み込む。
「ねえ、颯太」
唇が、ゆっくりと動く。
「今度の木曜、水族館に行かない?」
……は?
張り詰めていた空気が間抜けな音を立ててしぼんだ。
「……えっ?」
「隣の駅の水族館。ほら、この前リニューアルしたでしょ。混んでるし、平日行ける今がチャンスかなって。ペンギンが可愛いって評判で、行ってみたかったんだ」
少しだけ言い淀み、灯が首を傾げる。
「……どうしたの? 颯太」
水族館。
デートの誘い。
キスじゃない。
「いや、えっと……俺、てっきりフラれるのかと……」
考えるより先に声が出た。
「えっ!? 何言ってるの?」
灯は目を丸くする。本気で意味がわからない、という顔だった。
「どうして私が颯太をフるの? いきなりそんなこと言うなんて、ひどくない?」
「だって、春から進路も違うし……俺たち、別々になるだろ?」
俺は警備会社に就職し、D級とはいえ、能力者である彼女は上の世界へと進む。そういう未来だった。
「進路が違う? 大学、同じところに行くじゃない。合格発表、一緒に見に行ったのに忘れちゃったの? これからもずっと一緒でしょ?」
大学。同じところ。これからも一緒。
記憶にある過去とまったく噛み合わない。
「待て、待ってくれ。だって俺は無能者だし……灯みたいに能力者と同じ進路になんて行けるわけがないだろ?」
そう言った瞬間、灯の表情がすっと消え、純粋な疑問符だけが浮かび上がった。
「……のうりょくしゃ? なにそれ」
「え?」
「アニメの話? それとも昨日のゲーム? ……颯太、今日ほんとに変だよ。ずっとボーッとしてるし。ちゃんと寝ないとダメだよ」
通じていない。
能力者という言葉が存在しない。
この世界を支配している特権階級。それが、ない。
どういうことだ。
「……ごめん。ちょっと、寝ぼけてたみたいだ。変なこと言って悪かった」
「もう、びっくりさせないでよ。……で、水族館、行ってくれる?」
「ああ。行くよ。木曜だな」
「うんっ! じゃあ、また後で連絡するね!」
灯はほっとしたように笑顔を見せ、小さく手を振る。そのまま夕暮れの海辺を去っていった。
俺はその背中が見えなくなるまで動けなかった。
波の音だけがやけに大きく響いていた。
日が落ち、街灯がぽつぽつと灯る道をひとりで歩いていた。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
能力者がいない世界。
俺と灯が同じ大学に進む世界。
魔法という理不尽な力が存在しない、平和な日常。
何が起きた?
女神がこの世界から魔法を封じた?
いや、それはもっと未来のはずだ。
……なら。
ここは俺の知っている過去じゃない。
似て非なる、別の世界だ。
考えに沈んだまま歩き続け、気づけば見慣れたアパートの前に立っていた。
二階の角部屋。
母さんと、入院中のひなたを支えながら暮らしていた場所。
――母さん。
半年ぶりくらいだろうか。ずいぶん久しぶりに感じる。
と言っても現時点の俺にとっては今朝ぶりなんだろう。
泣くな。
いつも通りでいい。
高鳴る鼓動を押さえつけながら、鉄の階段を上る。
ポケットの中を探り、鍵を取り出そうとした。
手が、止まった。
「……え?」
視線がドア横の小さな表札に吸い寄せられる。
俺の家だ。父が死んでからずっと過ごしてきた場所だ。
それなのに――そこにあったのは、『秋月』じゃない。
見知らぬ、他人の名字だった。




