76. 重なる心
何もない。
本当に、何もない。
伸ばした右手は冷たい虚空を掴んだまま止まっていた。つい数秒前までそこにマリアがいたはずなのに。
嘘だ。何かの間違いだ。
ここで女神と会って惜しみながらも皆と別れるはずだった。あいつだって「清々するわ」なんて悪態つきながら、ちょっと寂しそうな顔を見せたに違いない。
そうだ、これは夢だ。
最強のギアを手に入れたんだ。現実ならどんな相手にも負けるはずがない。これはあの悪趣味な夢の続きだ。
目が覚めたら「いつまで寝てんの」って声が飛んできて。でも最後に起きてくるセシルはお咎めなしで。ちょっとモヤっとしながら皆で朝食を囲むんだ。
いつも心を真っすぐに抉ってくる毒舌。ふと見せる優しさと天使みたいな笑顔。オーロラの下で見せた寂しそうな表情。
――もう会えないなんて、そんなはずがない。
でも目の前の空間は空っぽだった。どこまでも空っぽだった。
死んだ。
マリアが。
俺のせいで。
俺が「帰りたい」なんて願ったから。俺があいつに「ついてきてくれ」って頼んだから。
――俺が、殺した。
「あああ……」
「フハハハハ! いいドラマだったではないか。さて……これで少しは目を覚ましたか?」
グリムハルトの声がどこか遠くから聞こえる。
胸の奥で何かが溶けた。悲しみじゃない。恐怖でもない。もっと真っ黒なものだ。
「あァァァアアアァッ!!」
喉から声が出ていた。
理屈はいらない。計算もいらない。四肢がもげても構わない。目の前の化け物をこの手で八つ裂きにする。それだけだ。
ギアにマナを叩き込む。床を蹴り砕き、一直線に突進した。
「マリアを……返せぇぇぇっ!!」
振り上げた右拳に破壊のイメージを極限まで込める。
「やれやれ。本当にしぶといゴミだ」
グリムハルトが指を鳴らした。
瞬間。見えない壁が全身を横殴りに弾き飛ばす。防ぐ暇もなかった。
「が、はっ……!」
体が飛び、床に叩きつけられる。肺から空気が絞り出され、視界が明滅した。
「女が死んで悲しいか? 安心しろ、すぐに忘れさせてやる。想像を絶する痛みと恐怖で塗り替えてやろう」
立ち上がらなきゃ。あいつを殺さなきゃ。
言うことを聞かない体を動かそうと足掻く。
――ぽたり。
頬に冷たいものが落ちた。
血か? 違う。
視界が急に開けた。
そこには俺を見下ろす顔があった。
「……颯太」
「ごめん、リゼ……。俺、何も、できなくて……マリアを、守れなかった……」
泣きたかった。こんな結果を招いた自分自身を殴り殺したかった。
けれどリゼはゆっくりと首を横に振った。
「……ちがう。颯太のせいじゃない」
血塗れの頬をそっと包み込む彼女の手はひんやりと冷たい。それなのに、少しだけ温かく感じた。
「わたしのせい……。わたしが、弱かったから……」
大きな碧い瞳から涙が落ちていた。空虚な闇はもうない。悲しみと、怒りと、光が戻っていた。
「目覚めたか、“無限”。待ちわびたぞ」
俺たちを見下ろし、グリムハルトが歓喜に満ちた声を上げる。
「グリムハルト……」
まだ涙の乾かない瞳が真っすぐに前を向く。
「素晴らしい。その眼だ。その眼を絶望に染め、我が物とする。これで私はより完全へと近づける」
グリムハルトは一歩踏み出す。
「さて――まずは貴様の目の前で、そこのゴミ共を順に肉塊へ変えてやろう。その小僧にはあらゆる苦痛を与えた上で消し飛ばし、あの小娘共の首をねじ切る。そして最後に……絶望で完全に壊れきったお前を、ゆっくりと殺す」
リゼは退かない。
「私は、あなたを許さない」
静かで、一切の雑味が無い声だった。
「フハハッ! そうか。なら、どうする? 私を殺すか? だが、あの時の私と同じだと思わぬことだ」
グリムハルトがマナを開放する。周囲の空気が歪む。
「……どうした? 一瞬で縊り切れてしまうほど、隙だらけだぞ」
「わたしはもう、魔法は使えない」
「何を言っている? ……いや、そうか。この場所は、あの女の……」
グリムハルトは周囲を見渡し、低く呟いた。
「ククッ、傑作だ。あの女も消えていようとはな。加護を失い何もできなくなったか。本気の貴様を力で圧し潰したかったのだが……実に残念だ」
「わたしは戦えない。でも、颯太が、ここであなたを終わらせる」
「ソウタ……? まさか、そこのゴミのことか?」
一瞬、表情が止まった。次いで、腹を抱えて笑い出す。
「クハハハハッ! 傑作だな! その這いつくばるゴミが私を終わらせるだと? 正気を失って幻覚でも見ているのか?」
嘲笑が響く。
全身の骨が悲鳴を上げ、まともに呼吸するのすら辛い。奴の言うとおり俺に何かできるとは思えない。
リゼがゆっくりと俺の横にしゃがみこんできた。
「颯太、力を貸してほしい」
「……あいつに勝てるのか?」
「うん。でも、颯太にはつらいかもしれない」
つらい?
これ以上なんてない。
「なんでもやる……。あいつをぶっ殺せるなら、悪魔に魂だって売ってやる」
リゼは頷いた。
「……目を、閉じて」
言われるがまま目を閉じる。
次の瞬間。俺の唇に柔らかく温かいものが触れた。
――え?
思考が止まる。
キス。
間違いない。俺のファーストキス。ロマンチックとは程遠い最悪の状況。
……でも、不思議と嫌じゃなかった。
触れ合った唇を通して何かが流れ込んでくる。情報と感情の濁流。脳を直接かき混ぜられるような。リゼの感情が、そのまま入って来る。
『わたしのせい』 『俺のせいだ』
『わたしが逃げたから』 『俺が帰りたいと願ったから』
『あの時、わたしがグリムハルトにとどめを刺さなかったから』 『俺が弱かったから』
張り裂けそうな自責。俺の中にあるものと同じだった。
『わたしが』 『俺が』
『『マリアを殺した』』
ふたつが混ざり合い、共鳴する。そして、ひとつになる。
目を開けた。
視界が違った。何もないはずの空間が無数の色と線で満たされている。大気中を淡く光る粒子。グリムハルトの身体からいくつも延びる、赤黒く歪んだ帯。
これがリゼの見ている世界なのか。
どこにどれだけのマナを干渉させればいいのか。あの重力の帯をどう断ち切るのか。最初から知っていたようにわかった。
「同化……! 自我を捨てたか! だが、そのゴミの魔力ではどうにもできまい」
「グリムハルト。お前は颯太を知らない。お前は颯太に勝てない」
俺の口からリゼ言葉が出た。
「……化け物が。戯言を」
グリムハルトの顔から余裕の笑みが消えた。残された右目がこちらを見据える。
俺――いや、俺たちはゆっくりと立ち上がった。さっきまで全身を縛っていた重圧が紙みたいに軽い。
「消えるのはお前だ」
床を蹴り、奴へ真っすぐ飛び込む。
「舐めるなァッ!!」
グリムハルトが咄嗟に重力の断層を展開した。
だが。
見える。奴の操るマナの流れ。向き。大きさ。どうすればいいか、わかる。
そっと指先で触れる。ガラスが砕けるように崩れた。
「なっ――!?」
その無防備な顔面へ、渾身の右拳を叩き込む。
衝撃が空間を揺らす。巨体が吹き飛び、壁を突き破る。そのまま瓦礫の奥へめり込んだ。




