75. 無力な手
血の匂いがする。
瓦礫の上に倒れ伏すヴァイル。左肩から先が消え、赤黒い血が床に広がっていく。ついさっきまで誰よりも強く剣を振るっていた男が、ただ痙攣している。
……どうしてこうなった。
思考が回らない。視界の端に、半分に引き裂かれたカイムの死体が転がっている。その光景が、あの『夢』と重なった。
皆が死に絶え、俺一人だけが残される未来。それが、すぐそこまで来ている。あれは予知だったのか。
――違う。これは、俺が招いた結果だ。
俺が「帰りたい」などと言い出さなければ。あのクソみたいに不公平な時代に、家族を残してきた――それだけの未練で。俺はこの化け物の前に、皆を引き摺り込んだ。
『全部、君のせいだ』
カイムの言葉が頭の中で反響する。
どうにかしなければ。このままでは本当に、夢の通りになる。何か手はないか。
そうだ、リゼだ。リゼは以前、奴を「粛清した」と言っていた。この化け物を倒す方法を、知っているはずだ。弱点が、何かひとつでもあれば。
「リゼ……!」
すがるように視線を向けた。
床にへたり込んだリゼは、ピクリとも動かない。瞳から色が消え、虚空を見ている。今の彼女から何かを聞き出せる状態じゃない。それだけは、はっきりわかった。
……終わった。勝てる見込みなんて、最初から1ミリもなかったんだ。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。俺の我儘で巻き込んだ。なら、せめて俺以外――ここまで一緒にいてくれた彼女たちだけでも、生かして帰さなければ。
「……うおおおおぉぉぉっ!!」
歯を食いしばり、『無限の手』にありったけのマナを叩き込む。
両腕が熱い。相手が重力で来るなら、こっちも同じ力で押し潰す。純粋な出力のぶつけ合いなら、一瞬の隙くらい作れるはずだ。
「みんな、逃げろ!! 俺が時間を稼ぐ! その隙に……っ!」
両手をグリムハルトへ突き出し、空間を極限まで圧縮するイメージを描く。グリムハルトの足元の床がメキメキとひび割れた。
頼む、逃げてくれ。俺の命と引き換えに、少しでも遠くへ。
「ほう。学習能力がないらしい」
グリムハルトが右手の指先を軽く上へと向ける。それだけだった。俺の放った全力の重圧が、あっさりと相殺されていく。出力の桁が違う。俺の全力など、奴にとってはそよ風にも満たない。
グリムハルトの意識が俺の重力に向いた、そのコンマ数秒。視界の端から光の粒が殺到した。
「いっけえぇぇぇっ!!」
ルミナだ。『輝く弧月』から放たれた光矢が空中で分裂し、死角から一斉に炸裂する。連続する爆発がグリムハルトの姿を呑み込んだ。重力の相殺に意識を割いていた奴の防御をすり抜けた。
「ルミナ! 逃げろって言っただろ!」
「ブッブー。 やなこった」
「でも、このままじゃ全員……!」
「たー坊だけ置いて逃げるなんて、誰もできないよ?」
分かってた。それでも、逃げてほしかった。
「……チッ」
煙の奥から舌打ちが響く。スーツの肩口がわずかに焦げていた。ダメージとしては微々たるもの。ただ、それで十分だったらしい。
「鬱陶しい羽虫め!」
グリムハルトが腕を薙ぐ。見えない衝撃がルミナを直撃した。
「あわっ!?」
ルミナの身体が宙を舞う。
「ルミナ!!」
咄嗟に重力制御を切り、跳躍した。空中で彼女の体を抱きとめるが、勢いを殺しきれず、ふたりごと壁に叩きつけられる。背中に鈍い衝撃。なんとか床へ転がり落ちた。
「ルミナ! おい、しっかりしろ!」
腕の中の彼女を揺するが返事はない。頭から血を流し、完全に意識を失っている。呼吸はあるが、浅い。
くそっ、俺がもっと上手くやれていれば……!
「逃げられるとでも思ったか。さて……」
グリムハルトは興味を失ったように、ゆっくりと歩みを進めた。その先にあるのは——リゼ。
「いい加減目を覚ませ、“無限”」
靴音が響く。一歩ずつ、規則的に。
「お前がそんな腑抜けた顔をしていては、奪う愉しみがない。私が見たいのは、その眼に宿る至高の絶望なのだから」
足を止め、グリムハルトは笑みを浮かべた。
「そうだ、いい方法がある。……お前のお友達をひとり、目の前でひねり潰してやろう。そうすれば、少しは正気に戻るかなぁ?」
視線が周囲を舐めるように滑る。そして、止まった。
リゼを庇うように立ちはだかる影。マリアだ。『赤の鴉』を両手で構え、震える膝を押さえつけながら、グリムハルトを真っ直ぐ睨んでいた。
「……この子には、指一本触れさせないわ」
「いい面構えだ」
グリムハルトはマリアを見下ろす。
「恐怖を怒りで塗り潰している。……なるほど、随分と仲が良さそうだな」
口角がゆっくりと吊り上がる。
「なら、ちょうどいい。お前を嬲り殺せば、少しは目を覚ますだろう」
その意味を理解した瞬間、体が動いていた。
「やめろぉっ!!」
「マリアちゃんっ!!」
ルミナをそっと床に寝かせ、マナを爆発させて駆け出す。
セシルもまた、兄の傍らから剣を握り直して飛び出した。
だが、遅い。
グリムハルトが指を弾く。マリアの身体が見えない力に持ち上げられ、ふわりと宙に浮いた。
「なっ……!?」
足が宙を掻く。目に見えない巨大な手に握り潰されるように、四肢を拘束されている。そして胸の前に漆黒の球体が生成されていく。
「舐めんじゃないわよ!!」
拘束されたまま、マリアは『赤の鴉』の銃口をわずかに動かし、引き金を引いた。至近距離で黒い雷撃が炸裂する。
「無駄だ」
雷撃は届く手前で空間ごと歪み、渦を描くように球体へ吸い込まれて消えた。
「マリアを離せぇぇぇっ!!」
『無限の手』を振りかざし、全マナを右拳に集中させる。グリムハルトの重力場を力任せに打ち破る。それだけをイメージした。
「はぁぁぁっ!!」
空気を蹴る。腕を伸ばす。指先が、彼女の服に触れる——その数ミリ手前。
「無駄だと言っているだろう」
グリムハルトは見向きもせず、手を払った。それだけで突進は見えない壁に激突し、弾き返される。
同時に、背後から斬りかかろうとしたセシルも、重力の波に呑まれて床に叩き伏せられた。
「がはっ……!」
「あぁっ……!」
床に押し付けられ、全身に何トンもの圧力。肺が潰れる。息ができない。
倒れ伏した視界の先で、マリアの身体がゆっくりと球体へ引き寄せられていく。
「やめろ……やめろぉぉぉっ!!」
立ち上がろうとする。重力が、床に縫い付ける。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
ここで失うわけにはいかない。やっと、気づいたんだ。あいつの意地っ張りなところも、素直じゃないところも、時折見せる優しさも、全部。まだ、何も伝えてないのに。
「あああああぁぁぁぁっ!!」
ありったけのマナを滾らせ、全身を包むように反重力場を強制展開する。
バキリ、と音がした。肋骨だ。目や鼻から血が噴き出る。筋繊維が千切れている。
身体が、内側から壊れかけていた。
それでもいい。
痛みをねじ伏せ、血反吐を吐きながら、無理やり片膝を立てる。
「ほう。そのまま這いつくばっていればよいものを。……お前、もしかしてこの娘のことを?」
「黙れ……っ! 消えろぉぉぉっ!!」
血まみれの右腕を突き出し、マリアを飲み込もうとしているブラックホールへマナの奔流を叩き込む。相殺する。空間の圧縮を、膨張で打ち消す。
一瞬、黒が揺らいだ。
だが。
「残念」
グリムハルトがわずかに視線を動かす。それだけで、重力の出力が跳ね上がった。
「がっ、あ……っ!?」
反重力場ごと、身体を圧し潰される。床に叩きつけられ、血を吐いた。意識が遠のく。
それでも床を這い、手を伸ばす。爪が剥がれ、赤黒い筋が床に残る。
あと少し。あと少しだ。
「マリア……っ!」
マリアの身体が、ブラックホールの境界へと触れようとしていた。重力に縛られ、指一本動かせないまま、苦しげにこちらを見ていた。
いつもの強気な目じゃない。ただ、少しだけ困ったように。寂しげに。
「……ば、か。……そんな顔、しないでよ……」
「嫌だ……頼む、マリア……行かないでくれ!!」
漆黒の闇に吸い込まれていく。
指先が。腕が。身体が。
そして――その顔が。
音が、消えた。
黒が閉じる。
血の一滴も、衣服の切れ端も、髪の一本も。
跡形もなく、消えた。
「……あ……」
喉から、ヒュウと空気が漏れる。
伸ばした手は――虚空を、掴んでいた。




