74. 絶望の遊戯
凄まじい衝撃音が地下空間を震わせた。
次の瞬間、血が宙を裂く。赤黒い飛沫が黒い床に広がった。だが。
「……え?」
転がったのは、グリムハルトの首ではない。斬られるはずだった男は、不気味な笑みを浮かべたまま悠然と立っている。
崩れ落ちたのは――カイムの下半身だった。腰から断ち切られ、臓物と血をぶちまけながら、足だけが力なく床に崩れる。
理解が追いつかない。反重力で完全に封じていたはずじゃないのか。
水を打ったような静寂が空間を満たした。
「クック……クハハハハハハッ!!」
狂気の笑いがそれを引き裂く。グリムハルトの右手には圧縮された重力の断層が揺らめいていた。左手は腰から上だけになったカイムの銀髪を無造作に掴んでいる。壊れた人形のように宙へ吊り上げて。
「が、はっ……あ……」
血を吐き散らしながら、カイムが虚ろな目でグリムハルトを見下ろした。
「愉快! 実に楽しい余興であったぞ!」
残された右目を歓喜に歪め、グリムハルトは嗤う。
「あの程度の反重力で、私の力が相殺しきれるとでも思ったか? ほんの少し、掌の上で踊らせてやったに過ぎん。弱者が、己が力を過信し、勝利を確信する。その頂から叩き落とし、絶望に染め上げる……ククッ、これだからやめられん。この遊びは」
遊んでいた、だと。自分を殺そうとする者の足掻きすら、娯楽として味わっている。次元が違う。理不尽の桁が外れている。
「さて、ゴミはゴミ箱へ、だな」
グリムハルトは興味を失ったように、カイムの上半身を放り投げた。血の尾を引いて宙を舞った体が、鈍い音を立てて、セシルの治療を受けていた俺のすぐ傍らに叩きつけられる。セシルの手が止まった。
「カイム……!」
腹を押さえたまま、俺は這うように近づいた。
助からない。それは誰の目にも明らかだった。切断面からは血が溢れ続け、色が、音が、じわじわと薄れていくようだった。
近づいた拍子に、ポケットから小さなものが転がり落ちた。赤い宝石を埋め込んだペンダント。ノクセイアで、あの巨大な蜘蛛から出てきたやつだ。チャリン、と澄んだ音が響いた。床を転がり――カイムの目の前で止まった。
「あ……」
虚ろだったカイムの瞳が、赤い宝石を捉える。
「リリ……」
血に濡れた手が、震えながら伸びた。あのとき、幼い少女の首に掛けてやった魔除けのギア。それに触れた瞬間――復讐に濁っていた瞳から、すっと影が消えた。
「……そうか。やっと……エリオと、リリのところへ……行ける……」
口元に浮かぶのは、年相応の穏やかな笑みだった。
カイムはゆっくりと視線を巡らせ、俺を見た。
「ソウタ……あとは……頼む……」
かすれた声。それが最期の言葉だった。
血まみれの手が力なく落ち、カイムの瞳から完全に光が消えた。
――あのカイムが死んだ。
ついさっきまで死闘を繰り広げた相手。憎かった。リゼの目の前で母親を奪った。それでも、こんな終わりを望んでいたわけじゃない。
「カイム様……? 嘘……嘘ですわよね、カイム様ぁぁぁぁっ!!」
少し離れた場所からフィオナの絶叫が轟いた。全身からどす黒いマナが噴き出す。理性じゃない。悲しみと怒りだけがそのまま魔法になったような奔流だった。漆黒の嵐が、グリムハルトへと殺到する。
「死ね! 死ね死ね死ね死ね死ねぇぇっ!!」
空間そのものを削り取るような暴風。だがグリムハルトは欠伸でも噛み殺すかのように、片手を軽くかざすだけだった。
「やかましい羽虫だ」
掌の前に小さな黒点が生まれる。フィオナの放った規格外の魔法が、すべてその一点へ吸い込まれ、音もなく消えた。
「面白い玩具だったが、もう飽きた」
グリムハルトが指を鳴らす。その瞬間、クロスタの身体が大きくよろめいた。手にしていた制御用ギアが、見えない力で握り潰されるように圧縮され、砕け散る。
「あ、ああ……ティア……」
クロスタはその場にへたり込み、小さく潰れたギアを胸に抱えた。
「さあ、次は誰にするかな?」
グリムハルトが、無防備となったふたりへゆっくりと右手をかざす。
「させないわよ!」
「いっけえぇぇっ!」
マリアとルミナが同時に動いた。マリアの『赤の鴉』が、極太の黒雷を解き放つ。ルミナの『輝く弧月』から、無数の光の矢が降り注ぐ。空間を埋め尽くす、飽和攻撃。
だがグリムハルトの周囲には、すでに重力の断層が張り巡らされていた。雷も矢も彼に触れることなく弾かれ、あらぬ方向へ逸れていく。
「次はお前か」
残された右目が冷たくマリアを捉えた。
「――ッ!」
マリアの顔が引き攣る。見えない重圧が彼女を押し潰そうとした、その瞬間。
白銀の閃光がグリムハルトの視界を断ち切った。セシルだ。神速の踏み込みで懐に潜り込み、そのまま刃を斬り上げる。
「チッ」
マリアを縛っていた重力が解ける。グリムハルトはわずかに後退し、一撃を躱した。
力を失ったマリアが床へ崩れ落ちる。ルミナが駆け寄り、その身体を支えた。
「ほう。ネズミにしては、すばしっこい」
「あなたには、これ以上好きにはさせません!」
セシルは息をつく間もなく、連撃を繰り出す。右、左、袈裟斬り、突き。『霧の妖精』による幻影を織り交ぜ、四方八方から斬りかかる。少しでも気を逸らせば、死角からの刃が肉を断つ。そのはずだった。
「無駄だ」
グリムハルトが言い放った瞬間、セシルの足元がずぶりと沈んだ。異様な重力が絡みつく。動きが泥に沈むように鈍っていく。
「くっ……!」
体勢を崩したセシルの髪を、グリムハルトの大きな手が鷲掴みにした。
「きゃあっ!?」
強引に引き上げられ、顔が歪む。
「お前のその動き、よく似た戦士を知っているぞ」
「……! 父……さん」
「そうか、縁者か。それにしても美しい髪だ。肉団子にするには少々惜しいが」
グリムハルトが空いた手をセシルの腹部へ向ける。指先に黒いマナが収束していく。至近距離での、ブラックホール生成。
「さあ、どんな鳴き声を聴かせてくれるのかな?」
「やめろぉぉぉっ!!」
痛む腹を押さえ、俺は無理やり立ち上がる。ギアにマナを込めて駆け出した。
一歩踏み出した瞬間、目に見えない壁に激突し、床へ叩きつけられる。重力の壁だ。
「這いつくばっていろ、ゴミ」
俺には目もくれず、グリムハルトがセシルへ手を振り下ろす。
「セシルッ!!」
叫びが地下空間に響いた。
その刹那。
灰色の刃が、グリムハルトの腕とセシルの間に割り込んだ。
「テメェの薄汚ぇ手で、俺の妹に触んじゃねぇ!!」
ヴァイルだった。セシルを抱き寄せ、間合いの外へ引き剥がす。
「……チッ」
グリムハルトの指先から放たれた漆黒の球体が、ヴァイルの右腕に触れた。音もなく、空間ごと抉り取られるように。ヴァイルの肩から先が、一瞬で消えた。
「がぁぁぁぁぁっ!!」
血飛沫が舞い、ヴァイルが崩れ落ちる。
「兄さんっ!! 兄さん、兄さんっ!!」
セシルが血に染まった兄にすがりついた。
俺は床に縫い付けられたまま、それを見ていることしかできない。
悲痛な叫びが鼓膜を震わせる度に、胸に重いものが積み上がっていくのを、ただ感じていた。




