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73. 復讐の刃、虚無を裂く

 ピリピリとした刺激が全身を覆う。

 映像なんかじゃない。

 本物が放つ圧倒的な威圧。

 死そのものが形を持ち、すぐそばに立っているかのような感覚。


 ――直視できない。

 

 それでも、目の前に現れた男から視線を外せなかった。

 記憶にある映像の彼とは、決定的に違う。


 顔の左半分は異様に焼け焦げ、左目があったはずの場所には底知れぬ暗い穴がぽっかりと空いている。

 残った右目だけが、濁った狂気を宿していた。


 ――『グリムハルトは、わたしが粛清したから』

 ――『あの映像では両目があった。あれは、わたしに粛清される前の彼』


 以前、リゼが語っていた言葉が脳裏をよぎる。

 ということは、こいつはノクセイア滅亡の時よりもさらに未来。

 リゼに敗れ、左目を失った後の時代から来たのか。


 グリムハルトの残された右目が俺たちを――いや、リゼを捉える。


「まさか本当にこんなところに居ようとはなあ。“無限”」


 男の口元がゆっくりと三日月に歪む。

 狂気と執着が絡み合った、ぞっとする笑みだった。


「探したぞ。その碧い眼……私を蔑み、この目を奪った忌まわしい光。絶望で染め上げ、抉り取って我がものとしてやる」


 粘つくような声が地下空間に響き渡る。

 リゼを“無限”と呼んだ。

 それが彼女のS級としての二つ名なのか。

 

 復讐。

 そのためだけに途方もない時を超えて追い続けてきたのか。

 目を奪われてなお、諦めるどころか狂気を深めて。


 足がすくむ。

 ノクセイアの映像で見た、あの圧倒的で理不尽な暴力が脳裏に蘇る。

 人が、街が、何もかもが、あの男の気まぐれで消えていった。


 それでも。


「リゼには……指一本、触れさせない……!」


 今、この場で奴と渡り合える可能性があるのは俺しかいない。

 逃げるわけにはいかない。

 

 恐怖を意志でねじ伏せ、俺はリゼを背に庇うように前へ出た。

 ギアを構え、マナを限界まで引き上げる。


「おや? ゴミが何をしているのかな?」


 グリムハルトはまるで道端の石ころでも見るように、視線だけを俺に向けた。


 その瞬間。

 

 体内で、何かが狂った。


「がっ……!?」


 胃の奥を起点に、内臓が一点へと強引に引き寄せられる。

 圧縮され、すり潰され、引き裂かれるような激痛。


「あぁぁぁぁぁぁ!!」


 喉が裂けそうなほどの絶叫が漏れる。

 咄嗟にギアを腹部へ押し当て、ありったけのマナを注ぎ込んだ。

 内側に働く重力に対し、真逆の反発をイメージし、無理やり相殺する。


 ギチギチと骨が軋む音が体の内側から響いた。

 なんとか打ち消したが、完全には防ぎきれていない。

 猛烈な吐き気が込み上げる。

 耐えきれず、俺はその場に四つん這いになり、胃液をぶちまけた。


「ほう。今のを中和するか。未来のゴミは随分と頑丈らしい」


 グリムハルトが興味なさげに見下ろしてくる。

 息ができない。

 指先ひとつ動かせない。

 これが、S級。

 神を自称する、本物の化け物。


 男の革靴が持ち上がる。

 無様に這いつくばる俺の頭を踏み潰そうとしていた。

 

 ――死ぬ。


 だが、その靴底が俺に届くことはなかった。

 

 分厚い氷の壁が俺とグリムハルトの間に割り込む。

 凶悪な重力を帯びた踏みつけを弾き返した。


「久しぶりの再会なのに、無視しないでくれないか」


 自信に満ちた声。

 カイムだった。


 助けてくれた……のか?


 カイムが一歩前に出る。

 その隣には灰色の双剣を構えたヴァイル。

 そして後方には、祈るように両手を組んだフィオナと、深紅の剣を床に深々と突き立てたクロスタの姿。


「再会……? はて。知り合いだったかな? 記憶に無いんだが」


「忘れたとは言わせない。かつてお前に滅ぼされた都市。僕は、お前を地獄へ突き落す」

「滅ぼした……?」


 グリムハルトがわずかに首を傾げる。


「ああ、そういえば。少し前に未来へ遊びに来た時、何匹か羽虫を見逃したな」


 鼻で笑う。

 

「悪いが、潰し損ねた虫の顔などいちいち覚えていなくてな」


 その慢心を切り裂くように、ヴァイルが動いた。


「死ね!!」


 神速の踏み込み。

 空間を跳躍したかのような速度で、刃がグリムハルトの首筋へ迫る。


「無駄だ」


 グリムハルトが軽く手をかざす。

 かつてゲイルの動きすら封じた、絶対的な重力の壁。

 ヴァイルの身体が押し潰される――そう思った。


 だが。


「……何?」


 グリムハルトの顔に、初めて驚愕の色が浮かぶ。

 ヴァイルの刃はそのまま空気を切り裂き、グリムハルトの肩口を浅く斬り裂いた。


「ぐっ……!」


 血が散る。

 グリムハルトは反射的に後方へ跳躍した。

 だが、その着地点を先読みしていたかのように、カイムの魔法が炸裂する。

 全方位から襲い来る、無数の巨大な氷槍。


 グリムハルトは再び空間を歪め、防ごうとする。

 だが、それも発動しない。

 氷の破片がスーツを切り裂き、彼の身体に幾つもの傷を刻み込んだ。


「なぜだ……なぜ私の魔法が……空間が歪まない!?」


 信じられないものを見るように、グリムハルトが自身の掌を睨む。

 その疑問に答えたのはカイムだった。


「簡単なことだよ。クラリスのギアを媒介にして、フィオナがこの空間全体に『反重力』の魔法を展開し続けているんだ」


 カイムの言葉に、俺はハッとする。

 魔法同士の相殺――リゼに教わった対魔法の技術だ。

 グリムハルトの重力操作と完全に同調し、発生した瞬間から逆向きの力で打ち消している。

 だが、空間全体にそんなものを敷き続けるなんて、どれほどの緻密な計算と莫大なマナの制御が必要なのか、想像もつかない。


「僕は、ずっと……ずっとこの時のために準備してきた」


 カイムの瞳の奥で、復讐の暗い炎が燃え上がる。


「女神を殺せば必ず、再びやってくる。……エリオを、リリを奪ったお前たちを、この手で八つ裂きにするためにな!」


 そういうことか。


 カイムの真の目的。

 それは単なる女神へ憎悪じゃない。

 過去の惨劇を引き起こし、彼の日常を奪った『古代の侵略者』への復讐。

 そのために女神を殺し、最大の標的であるグリムハルトをおびき寄せた。

 周到に反重力の術式まで用意し、逃げ場のない罠へと嵌めるために。


 最初から、ここまで全部見えていたのか。


「羽虫風情が……調子に乗るな!」


 重力魔法を封じられたグリムハルトが獣のような咆哮を上げる。

 魔法が使えずとも、身体能力と純粋なマナの放出だけでその戦闘力は依然として常軌を逸していた。

 床を蹴り砕き、砲弾のような速度でヴァイルへ肉薄する。

 振り抜かれた右拳には、触れたものを粉砕するほどの高密度のマナが纏われていた。


「遅えんだよ!」


 ヴァイルは双剣を交差させ、その一撃を正面から受け流す。

 だが、完全には殺しきれない。

 後ろへ弾き飛ばされかけた瞬間、背後の空間がわずかに歪んだ。


「フィオナ!」

「わかっていますわ!」


 クロスタの合図に合わせ、フィオナが祈るように組んでいた手を強く握り込む。

 ヴァイルの背中にだけ局所的な反重力場が展開され、見えないクッションのように彼の身体を受け止めた。

 同時に足元の重力が瞬間的に倍増し、踏み込みを爆発的に加速させる。


「オラァッ!」


 反動を利用した神速の逆襲。

 灰色の刃がグリムハルトの胸元を浅く切り裂く。

 舌打ちとともにグリムハルトが後退しようとする。

 だが、その退路にはすでにカイムが待ち構えていた。


「どこへ行くつもりだい?」


 カイムの手から放たれたのは、極低温の吹雪。

 逃げ道を塞ぐように幾重にも氷の壁が隆起する。

 氷の鳥籠。

 グリムハルトをその内側に閉じ込めた。

 

「小賢しい真似を……!」


 グリムハルトが腕を振り回し、力任せに氷壁を粉砕する。

 だが、それこそがカイムの狙いだった。

 砕け散った無数の氷片が、空中で鋭い刃へと変形する。

 そして四方八方からグリムハルトの身体を切り刻んだ。


 皮膚が裂け、スーツが血で赤黒く染まっていく。

 かつてノクセイアで圧倒的な力を見せつけていた絶対的強者。

 その面影は、もうどこにもない。


「貴様ら……俺を誰だと思っている! 俺は、神に等しき――」


「神だと?」


 カイムが冷笑を浮かべる。


「ただの過去の亡霊が、随分と大きく出たものだ。お前の時代は、もう終わっているんだよ」


 カイムが指を鳴らすと同時に、グリムハルトの足元から太い氷の鎖が這い上がる。

 蛇のように絡みつき、両腕を強引に拘束した。


「クソッ……外れろっ!」


 グリムハルトがマナを爆発させ、鎖を引きちぎる。

 ほんの一瞬。

 その足止めこそが、彼にとっての致命的な『隙』だった。


 視界の端で、灰色の影が跳躍する。

 クラリスとフィオナの空間制御によって極限まで加速されたヴァイル。

 振りかぶられた大剣が、復讐の重みを乗せて唸りを上げた。


「くたばりやがれ!!」


 裂帛(れっぱく)の気合いとともに、大剣が閃く。


「がああぁぁぁっ!?」


 灰色の刃がグリムハルトの右膝を粉砕した。

 骨が砕け、血が弾ける。

 体勢を大きく崩し、かつての絶対者が無様に床へと膝をついた。


「これで終わりだ」


 冷徹な宣告とともにカイムが空中に跳躍する。

 その手には巨大な氷の刃。

 極限まで圧縮されたマナと冷気が、刃全体を青白く輝かせている。

 まるで処刑人の斧だ。


 振り下ろされれば、それで終わり。

 カイムは一切の迷いなく刃を振りかぶる。

 そして――グリムハルトの首筋へ、真っ直ぐに振り下ろした。

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