72. 理不尽
一歩。
踏み込んだ瞬間、音を置き去りにした。
瞬きすら許さない速度でカイムの懐へ潜り込む。
右拳を全力で振り抜く。
「速いね」
氷のような眼差しのまま、カイムが指先を小さく動かす。
俺とやつの間に極低温の絶対氷壁が幾重にも展開された。
止まらない。
止まるわけがない。
「邪魔だ!!」
拳に纏わせたマナを純粋な破壊のイメージに変換する。
ガラスを叩き割るように、何重もの氷の盾が次々と粉砕される。
そのままの勢いで、拳はカイムの顔面を捉える。
ガードのために交差された黒い腕ごと、その身体を遥か後方へ殴り飛ばす。
カイムの体が壁に激突し、黒いパネルがひび割れてパラパラと崩れ落ちる。
俺は歩みを止めない。
追撃しようと踏み込んだ、その時。
「隙だらけだぜ」
側面から灰色の刃が俺の首筋を狙って迫った。
ヴァイルだ。
防御を展開しようとした俺よりも早く、白銀の閃光が間に割り込んだ。
キィィィンッ!!
激しい金属音と共に灰色の刃が弾き返される。
「セシル!」
「ソウタさんは前へ! 兄さんの相手は私がします!」
セシルがヴァイルを押し返し、そのまま一気に間合いを詰めた。
「チッ! 邪魔すんじゃねえ!」
「邪魔なんてしません! ただ、兄さんを止めるだけです!」
兄妹の刃が交錯し、火花が散る。
「いっけーっ!」
周囲が明るく照らされる。
頭上では、無数の光の矢が軌道を描いて飛び交っていた。
俺を援護しようとルミナが放った『輝く弧月』の矢だ。
しかし、そのすべてが空中で見えない壁に阻まれ、爆散していく。
「へえー、やるね。ボクの矢の座標を先読みして、ピンポイントで圧縮空間の壁を置くなんて」
「自分でいうのもなんだけど、私、天才なの」
クロスタの表情は変わらない。
ただ、心なしか声音が弾んでいるように聞こえた。
比肩しうる挑戦者の登場を、純粋に歓迎するかのように。
ルミナは弓を構え直し、呼応するように不敵に笑う。
「天才? じゃあ、ボクは『超天才』だね!」
「リゼ、しっかりして!」
背後からマリアの声。
女神の死と同時に触手が消滅し、床に落ちたリゼをマリアが抱きとめていた。
リゼは崩れ落ちたまま、空虚な目で宙を見つめている。
その瞳には何も映っていない。
泣くことすらやめてしまっている。
「女神の娘。哀れですわね」
優雅な足取りで、フィオナがマリアたちの前に立ち塞がった。
「ルーティから聞いたわ。あの時、私を助けてくれたのはあなただって。でも……」
「過去の話ですわね」
フィオナは淡々と言い切った。
「あの頃のわたくしは、まだ女神という虚像に縋る、哀れな子供でした。ですが、今は違います。今のわたくしには、カイム様がいる」
ふっと、表情が恍惚に歪む。
「約束通り、時を超えてわたくしを迎えに来てくださいました。カイム様の望みを叶える。わたくしはただ、そのために尽くすのみ。それ以外のことなんて些末なこと」
「あんたの目、完全にイカれてるわ。……私が、目を覚まさせてあげる」
マリアはそっと立ち上がり、漆黒と赤のレールガン『赤の鴉』を構えた。
銃口は真っ直ぐにフィオナへ向けられていた。
それぞれの因縁が交錯し、広大な地下空間は一瞬にして激しい戦場へと化した。
だが、俺の視線は瓦礫の中から立ち上がる一人の男に固定されている。
「……ははっ、素晴らしい」
口の端から血を流しながらも、カイムが歓喜に震える声を上げた。
彼の周囲の空気が異常なほど冷たくなっていく。
「感じる……マナが、僕の意志のままに動く。ギアという窮屈なフィルターを通さずとも、世界そのものが僕の思考に直結している……!」
カイムが右手をかざすと、手につけていた彼自身のギアが砕け散った。
それだけじゃない。
彼の瞳が、まるで星のように怪しく発光している。
女神が死んだ。
そのことで、大気中のマナを縛っていた魔法を封じる制限が消え去ったんだ。
カイムは今、ギアを使わずに直接マナを操っている。
かつての理不尽な力、『魔法』に目覚めたんだ。
「これが魔法……! こんなにも自由で、こんなにも全能感に満ちているなんて……! ああ、どうしてあの女は、こんな素晴らしいものを隠していたんだ!」
陶酔しきった顔で両手を広げるカイム。
その姿が俺には酷く滑稽に見えた。
いや、滑稽なんかじゃない。
許せない。
リゼの絶叫がまだ耳の奥に残っているのに。
こいつは今、笑っている。
「……ふざけるな」
『無限の手』にマナを集中させ、再び地を蹴る。
俺の動きに合わせて、カイムが指を鳴らした。
「遅いよ」
——感覚が、狂う。
身体がまるで泥の中に沈み込んだように重くなった。
いや、違う。
俺の周囲の『時間』そのものが極端に遅くなっている。
「時間制御……っ!?」
「正解。そして、これで終わりだよ」
俺の動きが鈍った隙を突き、カイムの周囲に無数の氷槍が顕現する。
ひとつひとつが家屋を貫くほどの大きさ。
それらが、避けられない俺へ向けて一斉に放たれた。
遅延の影響で感覚は鈍り、もはや肉眼では追えない。
それでも。
「終わるかよ!!」
遅延させられた時間の中で、マナの出力を限界まで引き上げる。
時間は遅くなっても、思考とイメージは止められない。
イメージを現実に変換するこのギアなら、魔法の理不尽すらもねじ伏せられる。
そう信じるしかない。
信じて、燃やす。
「燃え尽きろ!!」
俺を中心に超高熱のドームが展開される。
迫り来る氷槍は俺に触れる遥か手前で蒸発し、白い水蒸気となって視界を覆い尽くした。
時間遅延の術式そのものすら、強引なマナの奔流で焼き切る。
「なっ……!?」
カイムが驚愕に目を見開く。
蒸気を突き破り、俺はカイムの懐に潜り込んでいた。
「お前は……お前の身勝手な理想のために、どれだけのものを犠牲にしたか分かってるのか!」
右の拳に風の渦を巻きつけ、カイムの腹部へ叩き込む。
「がはっ……!」
血反吐を吐きながら吹き飛ぶカイム。
だが、空中で体勢を立て直すと、すぐさま周囲の空気を絶対零度まで冷却した。
瞬時に、氷の防御壁が展開される。
「犠牲!? 笑わせるな! あの日、女神の機能停止が僕の大切な家族を奪った! 不完全な仕組みに世界を任せることはできない!」
「だからって、関係ない人たちを巻き込んでいい理由になるか! リゼが……あいつにとって女神は……!」
言葉が続かなかった。
言いたいことは山ほどあるのに、形にならない。
それでも俺は氷の壁を素手で叩き割り、カイムの胸ぐらを掴んだ。
そのまま力任せに床へと叩きつける。
「あいつは、母親を目の前で殺されたんだぞ! 二度もだ! お前がやったことは、お前が憎んだ理不尽そのものじゃないか!!」
「だまれ……黙れ黙れ黙れっ!!」
カイムが絶叫し、至近距離から時間を停止させようとマナを放つ。
それを、俺は無限の手で完全に相殺した。
膨大なマナの純粋な暴力。
魔法の技術やセンスではカイムが上だ。
だが俺のマナ総量と、ルミナたちが作ってくれたこのギアが、その魔法を力でねじ伏せる。
「お前はただ……自分の絶望を、他人に押し付けているだけだ!」
分かり合えると思ってた。
こいつは根っからの悪人じゃない。
同じ理不尽に人生を狂わされた者同士、話し合えると。
でも、もうそれも無理なんだ。
それが悔しくて、悲しくて、だから余計に腹が立つ。
左手でカイムの首を掴み、右手を高く振り上げる。
拳に集束するマナが、赤黒い光となってバチバチと火花を散らした。
これが最後の一撃だ。
これで、すべてを終わらせる。
「これで……終わりだ!!」
渾身の力を込めて、拳を振り下ろした。
カイムの顔面が、初めて恐怖に歪む。
——その、瞬間だった。
空間全体が、まるで巨大な鐘の中にいるかのように激しく揺れた。
振り下ろそうとした俺の右手が、見えない壁にぶつかったようにピタリと止まる。
「なっ……!?」
空気が重い。
息ができない。
いや、重力そのものが狂っている。
床が波打ち、周囲の瓦礫がフワフワと宙に浮き始めたかと思えば、突然すさまじい勢いで床に叩きつけられる。
俺はカイムから手を離し、たまらず距離を取った。
セシルも、マリアも、ルミナも、突然の異常に戦いを中断し、体勢を維持するので精一杯になっている。
「はは……あははははっ!!」
首を押さえながら起き上がったカイムが、狂気じみた笑い声を上げた。
「間に合った……。この時を、待っていたんだ」
「何を、言ってる……?」
カイムが血塗れの顔で、天井の空間を指さした。
その先——何もない虚空に、真っ黒な『歪み』が生じていた。
光すらも逃れられない、ブラックホールのような漆黒の穴。
そこから流れ出してくるのは、圧倒的で、底知れぬ悪意に満ちたマナだ。
背筋が粟立つ。
本能が叫んでいた。
――近づくな、と。
漆黒の穴から、一人の男がゆっくりと姿を現す。
上品なスーツを身に纏い、オールバックに撫でつけられた髪。
「おや、お取込み中かな?」
その声を聞いた瞬間、俺の全身の毛穴が粟立った。
過去のノクセイアで見た、あの姿。
圧倒的な暴力で、すべてを遊びのように消し去っていった男。
「やあ、未来の皆さん。はじめまして」
“虚無”グリムハルト。
S級能力者にして最悪の化け物が、俺たちの前にその姿を現したのだった。




