105. 一万歳の少年
……で、なんで俺がこんな目に。
内心ぼやきながら、首までお湯に浸かる。
中央本部の大浴場。高い天井の下、白い湯気がもうもうと立ち込めている。本来なら極楽のシチュエーション。なのに、背中に浮いてくるのは清々しい汗じゃなく、嫌な汗だ。
右を見れば、上機嫌でひたすら語っているアレン。
左を見れば、湯船の縁に腕を乗せ、黙って目を閉じているヴァイル。
ことの発端は数時間前。
中央本部に着いた途端、アレンの頼みでヴァイルのリハビリと称した手合わせに付き合わされたのだ。
さんざん打ち合った後、そのまま汗を流す流れになり、こうして男三人が並んで湯船に浸かっている。
敵として刃を交えた男だ。性格も含めて、正直ヴァイルには心を許しきれない。
「いやあ、広い風呂はいいね。普段はシャワーだけで済ますことが多いから、たまにはこうして足を伸ばさないと」
「そうですね」
アレンの声が弾んでいる。
湯をすくっては肩にかけ、本当に嬉しそうだ。
無理もない。
三年前にノクセイアの調査で消息を絶ち、死んだと思っていた親友だ。
それが今、こうして生きて隣に座っている。
部隊長としての立場ではなく、ただの友人として無邪気に喜んでいるのが痛いほど伝わってきた。
適当に相槌を打つ俺の横で、ヴァイルは目を閉じたまま口を開かない。
「さて、私はそろそろ上がるとしよう。まだ仕事が残っていてね」
アレンが立ち上がると、ざばりと湯が波打った。
「ふたりはゆっくり温まってくれ」
爽やかな笑顔を残し、アレンは脱衣所へと消えていった。
……しまった。
俺とヴァイルの二人きり。
アレンの声が消え、水の滴る音だけが聞こえる。
今すぐアレンの後を追って出たい。
かといって、それは逃げたと思われそうでなんだか嫌だ。
あと数分。少しだけ待ってから出よう。
ふと、ヴァイルの身体が目に入った。
引き締まった筋肉。そして、新しく作られたであろう右腕。他の部位と比べてわずかに皮膚の色が新しく、傷跡もない。
先ほどの手合わせを思い出す。
俺は訓練用ギアを使っていた。達人の動きをある程度再現した俺に対し、ヴァイルは純粋な身体能力と剣術だけで互角に渡り合っていた。
『チッ……まだだ。まだ反応が遅え』
打ち合いの最中、彼は何度もそう吐き捨てていた。
失われた筋肉の量を戻すためのトレーニングは想像を絶する苦痛を伴う。そうマリアが言っていた。
口が裂けても言わないが、その執念には少しだけ尊敬の念を抱いてしまった。
沈黙が続く。
額から流れてきた汗が顎を伝って湯に落ちた。頭がぼんやりしてきた。精神的にも肉体的にも、そろそろ限界だ。
もういいだろう。
そう思って湯船の底に手を突き、腰を浮かせようとした。
「おい」
低い声が響いた。
「お前、過去へ行くんだろ」
「……ああ」
「なら、俺も連れて行け」
予想外の言葉に、俺は思わず湯船に腰を下ろし直した。
「連れていけって……本気で言ってるのか?」
「そうだ」
「いやいや。よく考えてみろ。あのグリムハルトみたいなのがウヨウヨ……は言い過ぎかもしれないけど、いるんだぞ。それに、帰ってこられる保証だってない」
「構わん」
こいつが過去に行きたい理由は分かっている。
親父さん——ゲイルを助けるためだ。
だが、御影博士が連れ帰ったと考えると、ゲイルは奴の近くいる線が濃厚だ。
となればS級かそれに準ずる護衛がついていると考えて間違いない。
いくらヴァイルが実力者でも、死にに行くようなものだ。
「お前が構わなくってもだな……」
「頼む」
ザバァッ。
勢いよく水面が波打った。
ヴァイルが俺に向かって深く頭を下げていた。
「なっ……!?」
言葉を失った。
あのプライドの塊のような男が。
他人に頭を下げるなんて、死んでもしないと思っていた男が。
髪の毛から滴った雫が、水面に小さな波紋を作る。
沈黙が重くのしかかってくる。
「……わかったよ」
ため息混じりに俺は頭を掻いた。
「行くなら勝手についてこい。死んでも文句は言うなよ」
「……感謝する」
ヴァイルがゆっくりと顔を上げる。
鋭い目。その奥にただならぬ決意が見えた。
「じゃ、先に上がる」
そう言って湯船から立ち上がる。
「おい」
再び背後から声がかけられる。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「セシルには黙っておけ」
「……言われなくてもそのつもりだよ」
一言だけ答えて、俺は浴室を後にした。
バスタオルで濡れた髪を拭きながら奥の待機室へ戻る。
扉越しに賑やかな話し声が漏れてくる。
「おっ、たー坊おかえりー! 水も滴るなんとやらですなー」
ソファでくつろいでいたルミナが、片手を挙げて出迎えてくれた。
「長かったわね。あんた、兄さんとふたりで大丈夫だった? 中で喧嘩でもしてるんじゃないかって噂してたところ」
「してないよ。ただ……うん、まあ、ちょっと気まずかったけどさ」
マリアは心配してくれていたらしい。
「冷たいお水、いりますか?」
「あ、ありがとう、セシル。助かるよ」
セシルからグラスを受け取り、一気に喉へ流し込む。
冷たい水が火照った体に染みる。
部屋の隅の椅子ではクロスタが分厚い本を読みふけっていた。
もうすぐこの光景ともお別れだ。
だから、ここにいる間はこの雰囲気を少しでも五感で感じていよう。
そう思いながら、空いている椅子へ向かおうとした。
——ん?
ふと、足が止まる。
部屋の中央で、アレンと見知らぬ少年が話していた。
黒い髪に、細身の体躯。線の細い、中性的な顔立ちをしている。
いつの間に入ってきたんだ。
というか、誰だ?
俺の視線に気づいたのか、少年がゆっくりと顔を向けた。
切れ長の目が、面白そうなものを見つけたように緩む。
「やあ、颯太君」
毎日顔を合わせているクラスメートに声をかけるような、軽くて穏やかな声だった。
「久しぶり……いや、初めましてかな」
初めまして?
俺のことを知っているような口ぶりだが、記憶にはまったくない。
「君は一体……。どうして俺の名前を知ってるんだ?」
戸惑う俺をよそに、少年はアレンに目配せをした。
「ソウタ殿。この方はここバルグレイスの長、『イオリ』様だ。我々ヴァンガードにとっても、事実上トップに位置するお方になる」
「……は?」
視線がアレンさんと少年との間を忙しなく往復する。
この子供が?
ヴァンガードのトップ?
世界最大の都市の長?
「ふふっ。驚くのも無理はないね」
青年が足音もなく歩み寄ってくる。
「これでも、今の君よりはずいぶんと年上なんだよ」
「ずいぶん年上って、一体いくつなんだよ。どう見ても子供じゃないか」
「そうだねぇ。細かい数字はもう忘れちゃったけど……一万歳は軽く超えているかな」
一万歳。
背筋をぞわりと冷たいものが駆け上がった。
その途方もない数字。この世界で、そんな年月を生きている存在は限られている。
「『イオリ』って名前……それに、一万歳」
「あんた……もしかして」
俺は一歩、後ずさった。
「元の時代の……日本人なのか?」
「正解」
「君があのグリムハルトを倒したって聞いた時は耳を疑ったけど、本当だったんだね」
イオリの瞳がスッと細められる。
底知れない、真っ黒な瞳。
「あの時は疑って悪かったよ。ごめんね」
イオリは顎に手を当て、懐かしむように宙を見上げた。
「あいつがやられたと聞いて、思い出したよ。お嬢があれをボコボコにした時は、本当に痛快だったなぁ」
お嬢?
ボコボコにした?
「お嬢って……もしかして」
俺の問いに、イオリは当然のことのように首を傾げた。
「誰って。決まっているだろう? ソラ様の娘——リゼ様のことだよ」




