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2. 返却期限

 この一年で、剣聖の道場では三人もの挑戦者が死んでいる。


 どれも申し込みを受けた試合だから咎めようがない、と当直の騎士は苦い顔で言う。王都セルムの騎士団詰所は、朝からその不穏な話でもちきりだ。


「腕を折られて済めばまだいい。あそこは名も置いていかされる」


 当直の騎士は湯気の立つ椀を両手で包み、辺りを気にして声を落とす。


 ヴェラは団長ニクラスの卓の前に立ち、ダルス領で目にした一件を報告する。館が焼けたこと、男爵が力を失ったこと、そして翌朝には畑が青々と息を吹き返していたこと。


「――で、その男の名は」


「ユストです」


「ユスト、な」


 ニクラスは羊皮紙にそう書きかけ、ふいに筆を止めて、その字をじっと見つめる。穂先から落ちた墨が、紙の上で丸い染みへ広がっていく。


「……まあよい。上の意向じゃ。見張れ」


「上って誰だ?」


「上じゃ」


「そういうのが一番困る」


「儂に訊くな。お前は見張れ」


 詰所の裏庭では、外套を脱いだ当の男ユストが朝冷えの中、黙々と木刀を振っている。古い型の、飾り気ひとつない打ち下ろし。それだけを数え切れないほど繰り返す。


 風を裂く音が、狂いなく同じ間隔で並ぶ。ヴェラは軒の下で数えはじめるが、じきにやめる。剣士の稽古というより、井戸から水を汲む者の、飽きることを知らない手つきに近い。


 差し出された水の脇へ、ユストは銅貨を置く。


「詰所の水はただじゃ」


「規則ですので」


 ニクラスが呆れたように笑う。ユストは表情を変えず、そのままヴェラへ向き直る。


「監視と護衛の対価です。明朝から、毎朝一枚」


「は? 給金は騎士団から出てる」


「私の側の対価です」


      ◇


 当直の騎士が、剣聖の家にまつわる話を二人に聞かせる。


「あの家は、当主が替わるたびに披露目をやる」


 騎士は書き付けを繰り、記憶をたどる。


「先代から剣を受け継ぐ場でな。決まった文句を、当主が声に出して言うそうだ」


「何と言うんだ?」


「末席だったから聞こえん。ただ、受け取ります、と締めるのだけは聞こえた」


 道場は西の坂の途中にある。坂を上がるあいだも、鎚を打つ硬い音が背中を追ってくる。振り返れば、坂の下の鍛冶屋の看板は、丸に槌。煤けた板に、バッソ、と読める。


 門をくぐると、板張りの広間には鉄と油の匂いがこもり、門弟が黙々と刀身を拭っている。柄を外した茎(なかご)が、朝の光を受けて鈍く光る。


 ヴェラは剣士だから、自然とそこへ目が吸い寄せられる。銘が削られている。しかも鑢(やすり)の跡は古く、傷の底まで黒ずんでいる。


「剣聖は魔法など使わん」


 奥の暗がりから現れた大男が、挨拶もなくそう言い放つ。首は丸太のように太く、肩の肉が鎧のように盛り上がっている。


「見物か。それとも挑みに来たか?」


 ユストは答える代わりに懐から帳面を出し、静かに開く。ヴェラは横から覗き込み、思わず声を上げる。


「白紙……?」


「帳(ちょう)は紙ではございませんので」


「なら何のために開くんだ?」


「開くと、皆さまが落ち着かれます」


 門弟に訊けば、剣聖ガルムは湯屋にまで剣を持ち込むという。番台がいつも困り果てている、と門弟は苦笑する。手放したことが一度も無いらしい。


「寝るときも枕元でさ。抜き身のまま置くもんだから、朝、掃除の婆さんが悲鳴を上げる」


「持ち歩くのはいい。手放さないのが妙だ」


 ヴェラはもう一度、茎の削り跡へ目を凝らす。削り残された端に、丸に槌を組んだ印の一部が覗いている。今朝、坂の下で見た看板と同じ形だ。


「斬り合いになるぞ」


 焦ったヴェラは、ユストの袖を引く。


「相手は剣聖だ。あんたのその剣、飾りだろ」


 ユストはただじっとガルムを見つめている。


「代々剣聖の家に三百年伝わる剣だ」


 ガルムが見せつけるように刀身を手に取る。刃は広間の光を冷たく吸い込み、白い線となって伸びる。


「三百年前に貸されたものですね」


「何だと?」


「返却期限は、三百年前に過ぎております」


 道場の空気が冷える。息遣いが消え、門弟の袖がかすかに擦れる音まで耳に届く。


「物ですので、利息は付きません」


「……何が言いたい?」


「お返しになれば、それで済みます」


 門弟の一人が、鋭く息を呑む。


「返す? 剣聖の剣をか」


「借りたものは、返すものです」


「三百年前の話だ! わしが借りたのではない!」


 ヴェラの脳裏に、削られた茎が浮かぶ。あれは、借り物だと知る者が銘を消した跡に違いない。


「お家は当主が替わるたび、披露目で『受け取ります』と仰るそうでございますね」


「それが何だ?」


「でしたら返す義務は、そのたびに次の方へ移って参ります」


 ガルムの太い喉が鳴る。


「いまの借り手は、あなた様です」


 ガルムの顔が朱に染まる。ユストは眉ひとつ動かさず帳面を閉じ、静かに告げる。


「ガルム。ご返済の日です。お支払いは――一括で」


 一族が剣聖を名乗り続けられるのは、この剣の持つ権能にある。剣を失えば剣聖もただの平凡な剣士になってしまう。


 大男が腹の底から吼え、剣を振り上げる。


 しかし、ユストは静かにその剣を見ているだけである。


「ユスト!」


 ヴェラは床を蹴って飛び出しかける――その時だった。


 刃が恐るべき剣速で振り下ろされる途中で――――消えた。


 柄さえ残らない。風を裂く音だけが不意に途切れ、ガルムは空になった両手を振り下ろし、勢いを殺せぬまま板の間へつんのめる。


「え?」「は?」「こ、これは……?」


「な……無い。俺の剣が、無い」


「貸し手の跡継ぎのところへ戻っております」


「どこへだ!」


「どこかは、人からの借りに担保がございませんので、私には読めません」


 ガルムは板の間を這い、消えた刃のあった場所を必死に掌で探る。指の腹が乾いた板をこする音だけが、冷えた広間に響く。


「三百年、うちの家が守ってきたのだぞ!」


「守っておいでだったのは、鞘のほうかと存じます」


 門弟たちは青ざめた顔を見合わせ、ひとり、またひとりと戸口へ退いていく。剣を失った剣聖の未来には不吉なものしか感じない。誰も、崩れた師の名を呼ぼうとしなかった。


「――看板の印」


 ヴェラは気づき、駆け出す。


 坂を下る足が、自分でも呆れるほど速い。答えだけが先に道場で出てしまい、証拠のほうが後から必死に追いかけてくる。騎士のやり方とは、まるで順序が逆だ。


 坂の下の鍛冶屋では、バッソという年寄りが机を見つめたまま、息をするのも忘れている。そこに載るのは、拵え(こしらえ)の古い一振り。窓から射す光の中で、刃の地肌が静かな水面のように波打つ。


「うちの初代が打った剣だ。……三百年、行方が知れなんだ」


 バッソは古い布でそっと包み、そのまま胸に抱く。皺だらけの手が震え、布の端までかすかに揺れている。


「言い伝えでな。初代が、若い剣士に貸したそうだ。ひと月で返す約束だったと」


「その剣士が、剣聖の家の初代か」


「さあ。うちに残っているのは、貸したという一行だけでね」


「一行?」


「貸した、とだけさ。返ったとは、どこにも書いてない」


 ヴェラは机の脇の壁へ目を向ける。丸に槌の焼き印が、古く黒ずんで木の板に残っている。銘を削った鑢の跡に残っていた印と、同じ形だ。


 夕暮れどき、詰所へ戻る坂道で、ヴェラは道場の門を見上げる。看板はもう下ろされ、門弟が二人がかりで重い戸板を運び出している。


 ニクラスは黙って、報告書に「取り立て人(名は不詳)」と記す。


「名は不詳じゃない。ユストだ」


「知っておる。今朝、お前から聞いたからな」


「なら、なぜ書かないんだ?」


「上へ出す紙じゃ。……名の要る話ではない、と思うが……」


 ニクラスは筆を宙に止めたまま、しばらく黙り込む。それでも「不詳」の二字は消さず、報告書を静かに閉じる。


 ヴェラは食い下がろうと口を開くが、言葉が見つからない。今朝この卓で、団長は確かにその名を書きかけ、ためらうように途中で止めた。


 その晩、ヴェラは宿の小さな卓に向かい、手帳を開く。


 ――あの剣は飾りだ。抜けないから、抜かない。


 その言葉を紙に置いた途端、胸の奥で絡んでいた糸がほどける。剣士が剣を抜かないのは、抜けないときだけだ。


       ◇


 宿の窓の外、夜の冷えた塀の上に、墨色のおかっぱの子供がちょこんと座っている。


「居所、訊かないの?」


「訊いても、お答えにならないでしょうから」


「自分で調べなよ、取り立て人でしょ」


 とばりは退屈そうに足をぶらつかせる。


「もう調べました」


「ふふっ、知ってるわよ」


       ◇


 翌朝、ニクラスが首をかしげ、顎を撫でながら言う。


「あの男の名は、何じゃったかな?」


 ヴェラは胸の奥に小さな棘を覚えながら、手帳を開いて確かめ、それから答える。二度目の朝である。


 南の街道へ出る前に、行商から不吉な噂を一つ買う。トレムの村では、聖女の祝福で子供まで白髪になるという。

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