3. 白髪
トレムの朝は、鶏が鳴くより先に子供の声で明ける。
井戸端で水を汲む子らに目を留め、ヴェラはふと足を止める。
白髪が多い。それも、年寄りの白髪ではない。十を過ぎたばかりの子の頭が、半分も白い。昨日の夕方に村へ入ったときは、暗がりに紛れていた。朝日の下では、白い頭が一人ずつ、いやでも数えられる。
「隣の村の子は、こうじゃない」
ユストは井戸の冷たい縁に手を置き、しばらく黙って子供らを見つめる。
「二十年前の借りですね」
それから、懐から銅貨を一枚取り出し、ヴェラの手に載せる。
「今日の分です」
「……毎朝やるのか、これ?」
「はい」
「一日忘れたら、どうなる?」
「忘れません」
礼拝堂へ向かう前、ユストは村外れで木刀を振っている。数は毎朝同じらしい。露を宿した草が、鋭い振りのたびに白い雫を散らす。
村の道には、朝から人の足音が絶えない。畑へ出る前に礼拝堂へ寄るのが、この村の決まりらしい。
すれ違う者の頭を、ヴェラはつい数えてしまう。老人は白い。母親も白い。乳飲み子だけが黒く、乳離れした子から順に、髪の色が抜けている。
「順番があるみたいだな」
「口をきけるようになった順です」
ユストは前を向いたまま、静かに答える。
「自分で言えない子は、まだ受け取れませんので」
ヴェラの背筋を、朝の風とは違う冷たさが撫でていく。この村では、喋れるようになることが、順番の始まりなのだ。
礼拝堂には、朝から人が並ぶ。溶けた蝋と、床に撒いた水の匂いが混ざり合う。
聖女アグネは若い。二十年前から村に居ると聞いたのに、なめらかな顔には皺が一つも無い。
列の先頭の女へ手をかざし、アグネがやさしく微笑む。
「オリカ、オリカ。楽におなりなさい。……はい、そこで、ありがたく受け取ります、と仰ってくださいね」
「ありがたく受け取ります」
女の咳が、ぴたりと止まる。同時に、生え際が指の幅ほど白く染まる。
「ああ、息が通る。ほんとうに、息が通ります」
オリカは胸を押さえ、こぼれる涙も拭わずに何度も頭を下げる。白くなった生え際には、誰も触れない。
壁には二十年前に奉納された肖像が掛かっている。絵の中の顔は、いま目の前で微笑む顔とまったく同じだ。
「旅のお方、旅のお方。あなた方にも祝福を」
「お断りいたします」
ユストは迷いなく即答する。
「まあ。……お連れの騎士様は?」
「あたしは、いい」
隅の椅子には、栗色の髪の司祭が、気配を潜めて黙って座っている。
「糾弾するんだろ」
ヴェラは声をひそめる。
「証拠は白髪だ。村の子を並べれば、教会だって動く」
「証拠は要りません」
そう言ったユストの視線が、ヴェラの左目をかすめる。
「その剣の祝福も借りです。担保は――左目ですね」
ヴェラは思わず自分の左目を押さえる。夜目が効かなくなったのは叙任の翌年からで、以来ずっと、暗がりでは右目だけが頼りだ。叙任の日に唱えさせられた文句が、耳の底からよみがえる。
『わが左目にかけて、受け取ります』
あのとき、司祭は何を担保にするのか言わなかった。言われていれば、十七のヴェラは何と答えただろう。それを思うだけで、左目に触れた指先から熱が引いていく。
「返します、と口にして、手放してください」
ユストは村人ひとりひとりを見て、同じ言葉を告げる。
「それだけでいいのか?」
「言葉だけです。受け取ると言って受け取ったのですから、返すと言えば返せます」
「返したら、腰の痛みがまた来るのかね?」
横で話を聞いていた杖をつく老婆が、眉を寄せて訊く。
「戻るのは、あなたが預けた分だけです」
「治った腰は?」
「治ったままです。済んだ効き目は、取り消されません」
「なら、なぜ誰も返さない?」
「返せると、誰も申し上げませんので」
老婆は杖の先で濡れた床を二度、強く叩く。それから背を伸ばし、広間の真ん中まで進み出る。
「わたしゃ孫の髪が惜しい。……返します」
「じいさん、あんたも言いなよ」
「言うとも。……返します。孫の頭が黒けりゃ、腰の一つや二つ、どうということはない」
老婆の声に背を押され、村人が口々に言いはじめる。返します。私も、返します。
声の波が広場から井戸端へ、井戸端から畑へ広がっていく。祈りより低く、喧嘩より穏やかな、けれど胸の奥まで届く奇妙な波である。
ヴェラも剣を鞘ごと外し、重みを確かめて膝に載せ、言う。
「……返します」
「それは教会へ戻りました。祝福を譲ったのは、叙任の司祭ですので」
礼拝堂の前で、ユストは静かに帳面を開く。
「アグネ。ご返済の日です。お支払いは――一括で」
髪の鳴る音を、ヴェラの耳が拾う。
艶やかな黒髪が、生え際から毛先へ向かってみるみる白く変わる。朝の光を浴び、その白さは目を刺すほど際立っていく。若い頬に深い皺が刻まれ、二十年の歳月が一息に押し戻される。
「あ、あぁ……。わたくしの、わたくしの二十年が……」
外で子供たちの叫びが上がる。井戸端の子らの髪が、根元から波を打つように黒くなっていく。濡れた髪は朝日を弾き、失っていた艶を取り戻す。母親が子の髪を掴み、顔を埋めて泣いている。
「祝福は、返しても消えません」
ユストは白く老いた聖女へ、声色ひとつ変えずに告げる。
「あなたが二十年、皆さまの寿命で払っておられただけです。皆さまがお返しになったので、あなたの分がご自分に戻りました」
「わたくしは、わたくしは村を救って……」
「救った分は、そのまま残っております。端数は切り捨てます」
アグネはよろけ、自分の白い髪を一房、すがるように掴む。その白さを見つめたまま、動けなくなる。
ヴェラは剣を膝に載せたまま、黙ってその姿を見つめる。憐れみは湧かない。二十年、この人は毎朝この床で、村の子から命を少しずつ受け取りつづけていたのだ。
夜、ヴェラは右目を閉じ、左目だけで村道を見ようとする。やはり何も見えない。闇の中に、さらに深い闇が沈んでいるだけだ。
石垣の脇に、ユストが影のように黙って立つ。
「戻るのは、貸した側が払った日です」
「あんたに教えてもらったんだから、あたしはあんたに借りができた」
「言葉には、値が付きません」
「うるさい。取っとけ」
ヴェラは銅貨を一枚、ユストの掌へ押し付ける。ユストは掌をしばらく見つめ、かすかに迷ってから懐へ手を入れる。
取り出した一枚と、押し付けられた一枚を、掌の上で静かに入れ替える。
「対価です。頂いたぶんの。これで、私に借りはございません」
「同じ額じゃないか!」
「はい」
「なんでそうなる!」
ヴェラは呆れて石垣に腰を下ろす。石にはまだ昼の熱が残り、触れた掌へじわりと温かさが移ってくる。
剣は抜かない。証拠も集めない。糾弾もしない。ただ村人に言葉を教え、そのあとで名を呼んだだけだ。騎士のやり方ではない、とヴェラは思う。それなのに、その静かな勝ち方が妙に胸へ残る。この男は戦い方を知らないからこそ、戦わずに済む道ばかり選ぶのだ。
◇
村外れの石垣に、墨色のおかっぱの子供が、影のように座っている。
「返すって、一番安上がりだよね」
「はい」
「ぜんぶの人が返したら、ぼく、暇になっちゃうなあ」
とばりが退屈そうに足を振る。取り立て人は、その言葉には答えない。
◇
翌朝、村の子がヴェラの馬の轡に小さな手を掛ける。黒く戻った髪は、寝癖のまま朝日に艶めいて跳ねている。
「ねえ、あのお兄ちゃんの名前、なんだっけ」
ヴェラは手帳の文字を確かめてから、答える。
「昨日、教えてもらったろ」
「もらったよ。でも、ここには残ってないんだ」
子供は困ったように笑い、自分の頭を拳でこつこつ叩く。
馬に乗る前に、ユストはいつものように銅貨を一枚、ヴェラの手へ載せる。
「今日の分です」
ヴェラは何も言わず、それを腰の革袋へ落とす。革袋の底で昨日の一枚と触れ合い、澄んだ小さな音が鳴る。
村を出る道で、栗色の髪の司祭が静かに待っている。
「司祭。名を聞かせてくれ」
「ベリトと申します。……騎士殿のお名前は、存じ上げております」
ヴェラは轡を握る手に、思わず力を込める。
「教会は、これをどうするつもりだ?」
「わたくしは何も見ておりません、と申し上げれば、お怒りになりますか?」
「……怒らない」
「さようですか。では、わたくしからは何も申しますまい」
その顔には、驚きの色が少しもない。驚いていない者は、初めて見た者ではない。ヴェラは馬の腹を蹴りながら、その一行を胸の奥へ深く書き留める。




