1. 一括で
境の石を越えたとたん、麦の色が変わる。
東側は青い。西側――ダルス領に入った側は、穂が灰をかぶったように痩せている。同じ春の、同じ雨のはずである。
ヴェラ・ハルデンは馬を並木に繋ぎ、街道沿いの茶屋の縄暖簾をくぐる。土間は薄暗く、煮出した茶の匂いと湿った土の冷えが籠もっている。
隅の卓に、灰色の外套の男が座っている。男は茶を頼み、湯呑みが来る前に、銅貨を一枚、卓の端へ置く。
「お兄さん、それはサービスだよ」
女将がからりと笑って銅貨を押し返す。
「受け取れません。規則で」
男は戻された銅貨にもう一枚を足す。女将は肩をすくめて奥へ引っ込む。
奥の卓では、老人が茶をすすりながら得意げに喋っている。
「男爵様が雷を落とせるようになったのは、三十年前の春からじゃ。それまでは火打石も苦手な坊ちゃんでな」
三十年、とヴェラは胸の内でなぞる。巡察の古い綴りで、この街道の麦の出来が落ちはじめた年を読んだ覚えがある。境の石の向こうが痩せはじめた頃と重なる。
表が騒がしくなる。車輪のきしみ、馬の鼻息、それから「どけ」という声。
縄暖簾をはねのけて入ってきたのは、赤ら顔の男である。従者が二人。荷車には麦の袋が山と積んである。
灰色の外套の男が、静かに立ち上がる。
「ダルス男爵。ご返済をお願いに参りました」
「借金取り?」
ヴェラは思わず口に出す。男爵が鼻を鳴らして笑う。
「返済だと。わしが誰に借りたと言うのだ、わかるか?」
男は懐から黒い手帳を出して開く。ヴェラの席から中身は見えない。
「三十年前の春、雷を一つ。担保は領の麦畑。以後、毎年。利息込みで――」
「雷は俺の才だ、わかるか!」
殺される、とヴェラの背筋が凍る。剣の柄へ手を掛け、腰を浮かせる。
男爵が右手を高く上げる。
「ダルスの名において」
白い光が土間を薙ぐ。梁が鳴り、湯呑みが跳ね、女将の叫びが弾ける。
ヴェラは剣を抜きかけ――――狙われた男に何も起きていないことに気づく。
外套の男は、雷の前と同じ姿勢で立っている。焦げているのは、男爵自身の袖だけだ。
「な……なぜ……?」
男爵はポカンと口を開け、男を見る。
「いまのは、跳ね返っただけです。全額ではございません。分割もございますが、お勧めしません」
「何をだ!?」
男は怒鳴り声を気にも留めず、黒い手帳を閉じる。
「ギゼル・ダルス。ご返済の日です。お支払いは――一括で」
窓の外で、青い空そのものが身じろぎする。
晴れているはずなのに、丘の上の館の真上にだけ黒雲が湧く。
「えっ!? な、何だあれは!?」
渦の底は墨を流したように沈み、そこへ雷が続けざまに突き刺さる。
「ひぃぃぃぃ!」「キャァァァ!」
光が目を焼き、遅れて腹を揺らす音が追いつく。落ちるたび、土間の床が足の裏を突き上げ、屋根は裂け、火の舌が噴き上がる。三十年分の雷が、一息に館へ帰っていく。
「ぎゃぁぁぁ!」
男爵は土間に尻もちをつき、館の方を見たまま悲鳴を上げる。ヴェラがつられて振り向いたが……館があったところには何もない。
「わ、わしの館が。……わからん。わからんぞ」
「三十年だ。三十年、あれはわしの雷だった。わしのものだったんだ」
村の方角では、痩せた畑が端から色を変えていく。灰の色が退き、青がその跡を追いかける。風が渡ると、青くなったところだけが波になって光る。ヴェラは息を止めていた自分に気づいて、大きく吐く。
「見なよ、あんた。青くなってる」
女将は縄暖簾を強く掴んだまま、表へ半分出て、目を見開いて立ち尽くしている。
「あたしの目がおかしいのかね。……去年の秋から、あんな色は見てないよ」
「あの領の陳情は、三年前から騎士団に来ていた」
言葉を吐き出してから、ヴェラは自分の声がひどく掠れていることに気づく。
「畑が枯れる、麦を取られる、とな。だが雷の男爵に手は出せない。うちの誰も」
言いながら、耳の裏が熱くなる。三年である。三年かけて騎士団が積み上げたのは、綴じた羊皮紙の束だけである。
「担保は、口にしたものが取られます」
男は、責めるでも慰めるでもなく、静かな声で言う。
「男爵は『領の麦畑』と仰いました」
「それがどうした?」
「ご自分のものだと、お思いだったのでしょうね」
男爵は反論を探すように唇を震わせ、口を半分開いたまま固まる。
「畑は、村の物です」
ヴェラは荷車の麦袋を見る。畑を痩せさせていたのが利息で、あの袋は、その上に男爵が自分の手で積んだ分である。
「……三十年」
男が続ける。
「村が代わりに払っておいででした」
「……あんた、何をしたんだ?」
「取り立て人が本名を呼べば、遅れていた分がその日に全額になります。それだけです」
それだけ、と男は言い切る。丘の上では、崩れた屋根の向こうで、まだ火の色が揺れている。
「……あなた、本当に何者?」
「取り立て人です。それ以外は、もう忘れられましたので」
ヴェラは、煙を上げる男爵の焦げた袖と、傷ひとつ無い灰色の外套を見比べる。
この男は指の一本も動かしていない。腰の物を抜きもしない。抜けないのかもしれない、とヴェラは思う。強い者が弱い者を許したのではなく、雷の男爵が勝手に自滅した。そう考えるほうが、まだ筋が通る。
夕方、村の者が礼だと言って酒の壺を担いでくる。栓を抜くと、甘く酸い匂いが土間に広がる。
「受け取れません」
「あんた、飲まんのか?」
「頂けば、私の借りになります」
「難しいことを言いなさる。……なあ、あんたが来なんだら、うちの倅は今年も麦を担いで、あの坂を上がっとったんだ」
村の男は壺を胸に抱えたまま、譲る気はないとばかりにその場から動かない。
ヴェラは小さく息をつき、村人に銅貨を払って壺を買うと、卓へ置く。
「なら、あたしが売る。一杯、銅貨一枚だ」
男はしばらく壺を見て、それから懐の銅貨を一枚、ヴェラの掌へ置く。そして盃を干す。喉が動く。ごく当たり前に酒を飲む、生きた人間の喉である。
「面倒くさい男だな」
「よく言われます」
ユストは盃を置き、ヴェラの腰に佩いた剣へ目を留める。
「失礼ですが、その祝福も」
「祝福?」
「……いえ。いまは、何も申しません」
言いかけて止める、その止め方が引っかかる。ヴェラは柄頭に指を置く。叙任の日から握り続けている柄である。
そこへ、村長のギダが帽子を手に、遠慮がちに近づいてくる。
「あの、お名前は」
「ユストと申します」
「ユスト様。村を代表して、礼を申し上げます」
ギダは帽子を胸へ押し当て、地面を覗き込むほど深く腰を折る。
「代表は、承れません」
「は?」
「村の方がお一人ずつ仰るなら、伺います」
ギダは口を開けたまま固まり、やがてしわだらけの顔をほころばせ、帽子をかぶり直す。
その夜、宿の油灯の下で、ヴェラは手帳を開く。報告に要るのだから、書き残す。ユスト。取り立て人。ダルス領。四月一日。
書いた字は、残る。
◇
宿の裏手、夜露に濡れた柵に、墨色のおかっぱの子供が座っている。小さな足をぶらぶらさせながら、雲間に欠けた月を見上げている。
この世界の力は、ぜんぶ借り物だ。
取り立て人は、殴らない。通知するだけだ。
「利息、取り損ねてるよ、取り立て屋さん」
この子〈とばり〉は、月を蹴るように足を振る。
「端数は切り捨てます」
「三百年分も預かってて、一銅貨も使わないんだもんなあ」
「使えば、私が減ります」
「知ってる」
◇
翌朝、ギダが畑の縁で首を捻っている。青い穂が腰の高さで揺れて、朝日を弾いている。
「あの取り立て人の……名は、何だったかな?」
「昨日、名乗ってもらっただろ」
「聞いたよ。聞いたはずなんだが、出てこん。妙だな、こんなことは初めてだ」
ヴェラは胸騒ぎを覚え、手帳を開いて確かめてから、宿の裏へ足早に回る。ユストが、朝露の光る柵に向かって何かを喋っている。柵の上には、やはり何も居ない。
「……誰と話してる?」




