第9章 目
雑誌の取材は、事務所の会議室でやった。
記者は女の人で、俺たち二人の正面に座って、机の上に小さい録音機を置いた。録音機の赤い光が、話しているあいだずっと、ついていた。
質問は、ほとんど彼女に向いていた。俺には三つだけ来た。壁の音のこと。五年のこと。専属になった日のこと。壁の音と、専属の日は、短く答えた。記者はメモを取った。
「五年、誰にも見られないところの地図を、というのは、何のために」
「……地図を書くためです」
記者は、それもメモした。何のために、の答えとして書いたのか、答えがなかった、と書いたのかは、わからなかった。
最後に、記者が言った。
「『美波、泣く』のお話を、少しだけ」
彼女は、机の上で手を組んでいた。組んだ手の、左の薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
「泣いてないです」
彼女は、そう言った。
記者は、メモを取らなかった。ペンを持ったまま、笑った。いい笑い方だった。相手を困らせない笑い方だった。
「そうですよね。照明、強いですもんね」
「はい」
「あの切り抜き、二千万いきましたね。今月」
「はい」
記者は、次の質問に移った。
◇◇◇
写真は、会議室の隣で撮った。
壁が一面、白く塗ってある部屋だった。叩いた。一段だった。叩いたのは、癖だ。
「あ、それ、もう一回お願いします」
カメラの人が言った。
「叩くやつ。いいですね、それ」
俺は、叩いた。二回。
「もう一回」
叩いた。
「ちょっと、顔をこっちに。そのまま、もう一回」
叩いた。四回目だった。壁は、四回とも、一段で返した。返りは、聞いていなかった。聞く理由がなかった。壁の裏に、何もないのはわかっている。
五回目で、シャッターの音がした。
「いいのが撮れました」
俺は手を下ろした。指の背に、返りが残っていなかった。五回叩いて、何も残らなかった。骨に残るのは、聞いたときだけだ。映るために叩いたものは、残らなかった。
彼女は、部屋の隅で、それを見ていた。
「上手だね」
冗談の声だった。
◇◇◇
記事が出たのは、二週間後だった。
事務所の人が、俺のぶんも持ってきてくれた。見開きで、彼女の写真が大きく、俺の写真が小さく載っていた。俺の写真は、壁を叩いているところだった。指の背が、映っていた。
「美波、泣く」の話は、本文にはなかった。
ページの下の端に、小さい字で、一行あった。
「※本人は『泣いていない』と仰っていますが、同切り抜きは本誌調べで二千百万回の再生を記録しています」
脚注だった。
俺は、その一行を、指の腹でなぞった。印刷は、なぞっても、紙の上に段を持たなかった。
◇◇◇
帰りの車の中で、彼女が言った。
「泣いてないんだよ、あれ」
「はい」
「照明が強いと、水が出るの。涙じゃない。でも映ると、泣いたことになる」
「はい」
「だから、目、できますか、って頼んだの」
運転手さんは前を向いていた。録られているかどうかは、わからない。彼女は、それを気にしていないようだった。
「誰に」
「……顔、憶えてない」
彼女は、窓の外を見た。
「窓のないところ。白いの。床も壁も、つるっとしてて。継ぎ目、なかった。順番が来るまで待つの。椅子があって、座って、待つ」
「はい」
「できる人、そんなにいないんだって。当番が決まってて。わたしのときは、一人だった」
「はい」
「座ると、天井に明かりが六つあるの。ずっと、それ見てた。だから顔、憶えてない」
彼女は、そこで少し黙った。
「横で、手だけ動いてた。盤があって、そっちに。見ないで取るの。手だけ」
「はい」
「顔、憶えてない」
二回、言った。
言ってから、彼女は俺のほうを見た。俺の顔ではなかった。膝の上の、右手だった。三秒くらい、見た。
それから、窓の外に戻った。
俺は、右手を見なかった。膝の上に、あるのはわかっていた。把握は、自分の手も返す。指が、半分、閉じていた。
◇◇◇
月に二日の部屋で、彼女は五回の話をした。
布団に座っていた。電球は、まだついていた。座卓の脚の横の封筒は、十通になっていた。彼女は、今日はそれを見なかった。
「指、指、右手、背中、目」
彼女は、自分の手の指を、順に折った。親指から。五本目で、小指が折れた。
「六年前。半年くらい。一回目が、これ」
左手の薬指を、見せた。俺は、もう叩かなくてもわかる。縁も中心も同じ音で返る指だ。
「二回目が、左の中指と人差し指。三回目が右手、ぜんぶ。握力が落ちないように。両方やると、揃うから。四回目が、腕の付け根から背中。十二時間、同じ力が出るように」
「はい」
「五回目が、目」
彼女は、自分の目を指した。指さなくてもわかる場所を、指した。
「一回目は、いるって思った。爪が割れて、剣が持てなくなってたから。いるって思って、座った」
「はい」
「五回目は、いらなかった」
「……はい」
「でも座った」
「なんで」
俺は、訊いた。訊いてはいけないところで訊いた気がしたが、訊いた。
「わかんない」
彼女は、膝を抱えた。
「痛くないんだよ、あれ。音もしないの。麻酔もないの。座ってて、終わりました、って言われて、立つの。痛くないから、もう一回、って思うの」
「はい」
「一回目のあと、わたし、言ったの。便利ですね、って。そしたら、そうですか、って」
彼女は、笑った。
「そうですか、だけ。毎回。なんで、って訊いても、そうですか。怒ってます、って訊いても、怒ってません」
俺は、はい、と言わなかった。言おうとして、言わなかった。口の中に、はい、があった。出さなかった。出さなかったことを、彼女は見ていなかった。膝を見ていた。
「そうですか、って、便利な言葉だね」
彼女は、膝を見たまま言った。
◇◇◇
「次、どこにしようかな」
彼女が言った。
冗談の声だった。語尾が上がっていた。人が冗談を言うときの声を、彼女はちゃんと出せる。
冗談ではなかった。
俺は、答えなかった。
答えなかった俺の目が、彼女の左手を見ていた。
薬指。第二関節から先。布団の上に置かれた左手の、薬指だけが、他の四本と、角度が違う。他の四本は、布団の凹みに沿って、少し曲がっている。薬指だけは、曲がらない。曲がらないように、作ってある。角度で言えば、第二関節から先が、布団の面に対して、十一度。
十一度。
俺の目は、それを見ていた。見る必要のない精度で、見ていた。
見る必要はなかった。見てしまっていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「はい」
「聞いてた?」
「はい」
彼女は、俺の目を見た。それから、自分の左手を見た。
それから、何も言わなかった。
◇◇◇
紐の下に、彼女が座った。
「消して」
俺は、紐に手を伸ばした。
見ないで伸ばした。紐は、いつも同じところにある。高さも距離も、間違えなかった。指が、紐の玉を、迷わずに握った。
引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
二十一。
暗闇で、彼女は横になった。六分で、息が深くなった。
左手が、布団の外に出ていた。薬指の角度は、変わらない。十一度。暗くても、返ってくる。
俺は、自分の右手を見た。光はない。把握が、返す。紐を握った形のまま、指が閉じていた。開いた。開くのに、一段ぶん、かかった。
次は、どこ。




